詩も言葉で、散文も言葉。
だからって、分けるのも何なのですが、
とかく分けた方がゴッチャにならない。
そこで、詩と散文と散文詩を並べておきます。
はい。ここには、『エンピツ』を例にとって。
はじまりに、神戸市菊水小学校四年の詩。
雪 平井健允
詩を書いていると
雪が降ってきた
エンピツの字がこくなった
つぎには、井上靖の「『きりん』のこと」という文から
この四年生の詩を引用してから、指摘されている箇所を。
「『雪』という詩になると、大人はもう敵(かな)わない。
雪が降ってくると、実際に鉛筆の字はこくなって感じられる
であろうと思う。大人では感じられないことを、少年は
少年だけが持つ鋭い感性によって感じとっているのである。
私はこれらの少年、少女の詩から、
文章を書く上に、いろいろ教えられている。
それぞれが、大人の詩人たちでさえ及ばない
ようなものを持っているからである。
しかし、こうした詩を読むことによって得た
一番大きい貰いものは、小学校時代の子供たちが、
例外なく鋭い感性を持ち、それを虫が触覚でも振り回すように
振り回して生きているということを知ったことであった。・・ 」
( p70 井上靖著「わが一期一会」毎日新聞社1982年 )
はい。井上靖には『雪』と題する散文詩がありました。
昭和40年5月号に掲載されたもの。つぎは、こちらを引用。
雪 井上靖
――雪が降って来た。
――鉛筆の字が濃くなった。
こういう二行の少年の詩を読んだことがある。
十何年も昔のこと、『キリン』という童詩雑誌でみつけた詩だ。
雪が降って来ると、私はいつもこの詩のことを思い出す。
ああ、いま、小学校の教室という教室で、
子供たちの書く鉛筆の字が濃くなりつつあるのだ、と。
この思いはちょっと類のないほど豊穣で冷厳だ。
勤勉、真摯、調和、
そんなものともどこかで関係を持っている。
( p97~98 「井上靖全詩集」新潮文庫 )
( p104~105 「自選 井上靖詩集」旺文社文庫 )
注:散文のように、つながって書かれているので、
かってに、私なりの改行をしてしまいました。
ちなみに、『キリン』といえば、竹中郁さん。
竹中郁の詩に、鉛筆が出てくる詩があります。
こちらは、雪でなく夏でした。その詩を引用。
夏の旅 竹中郁
えんぴつをけずる
えんぴつは山の匂いがする
えんぴつは苔の匂いがする
芯には鴉のつやがある
安全かみそりの刄のつやがある
えんぴつをはしらせる
谷川を下る筏のさけび
風にはねかえるつばめの反り
おお えんぴつを使うと
夏の旅はすこぶる手軽だ
二千円の旅も十円だ
はい。この詩が載った詩集『そのほか』を、
足立巻一氏の解題から引用しておくことに。
第八詩集『そのほか』
昭和43年12月25日、神戸市東灘区御影本町二丁目、
中外書房より刊行。・・定価千円。署名本千五百円。
・・・・
この時期、詩人は井上靖のすすめにより子どもの詩誌
『きりん』の監修・選評及び子どもの詩の指導に没頭した。
『きりん』は昭和23年2月、大阪尾崎書房から創刊され、
曲折をへて東京理論社に発行を移譲し、46年3月に通巻
220号で終刊した。
その間、竹中は子どもの詩の選評をつづけた。
『そのほか』という書名も、子ども詩が仕事の中心であり、
詩作も余業という考えからつけられた。・・・・・
杉山平一は44年7月刊の『四季』第五号で『そのほか』を評し、
『 かつての清冽な、星とかがやく純粋な光への志向は、
詩人にとっては、そのまま人間性の純粋そのものへ
の志向にふくらんでいる。
氏が、戦後果たした『きりん』という子供の詩の
育成への情熱は、子供のなかに清冽な純粋をみたからであり、
その育成は、そのまま竹中氏の詩作そのものであったにちがいない。 』
と評した。理解の行き届いた評言である。 」
( p736~737 「竹中郁全詩集」角川書店・昭和58年 )
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