昨日は、自民党総裁選をテレビとネットで見てました。
今日は、産経新聞の阿比留瑠比「極言御免」をひらく。
そこに、こんな箇所「河野氏が所属する麻生派幹部も、
『河野氏にはもっと雑巾がけが必要だった』と突き放す。」
はい。雑巾がけなんて言葉が出てくる。
万事が横着な私には、縁のない言葉だなあ。
そう思いながらもイメージはひろがります。
菅義偉(すがよしひで)氏は、1948(昭和23)年生まれ。
はい。菅さんは派閥には属さなかったので、渦中にあっても、
派閥の政争(せいそう・清掃)には、無縁で素人ぽいような。
それでも私は菅さんに「雑巾がけ」のイメージが重なります。
ちなみに、河野太郎氏は1963(昭和38)年生まれ。
実際の雑巾がけなんて知らないよという世代でしょうか。
その麻生派の麻生太郎氏は1940(昭和15)年生まれ。
それはそうと、
私が、雑巾がけで思い浮かべたのは、
幸田文と高田敏子の女性二人でした。
幸田文の「水」のはじまりは、
「水の掃除を稽古する。
『水は恐ろしいものだから、根性のぬるいやつには水は使えない』
としょっぱなからおどかされる。
私は向嶋育ちで出水を知っている。洪水がこわいと思っている
けれど、掃除のバケツの水がどうして恐ろしいものなのか
わからないから、『へ~え』とはいったが・・・・」
はい。これがはじまり。
蛇足で、あとちょっと引用しておきます。
「雑巾は刺したものより、ならば手拭のような一枚ぎれがいい。
大きさは八つ折が拡げた掌(たなごころ)からはみ出さない位であること。
『刺し雑巾は不潔になり易いし、性(しょう)の無いような
ぼろっきれに丹念な針目を見せて、糸ばかりが残るのなんぞは
時間も労力もおよそ無益だから、よせ。
そのひまにもっと役に立つことでも、おもしろことでもやれ』
という。・・・」
はい。さいごは、高田敏子の詩「ぞうきんがけ」全文引用。
ぞうきんがけ
床をふきながら
柱に頭をぶつけることがある
ガラス戸を磨きながら
小さなトゲをさすことがある
ああ痛い と ひとり言をいって
涙を流す
だあれもいない真昼
涙はとても素直に
すっとほおをつたわって落ちる
痛みが去って またふきはじめる
涙だけはまだあふれている
もうそれは
いまの痛みの涙ではなさそうだ
三日前にこらえた涙
一と月前にかくした涙
二年前の・・・・・
笑いにまぎらした涙などが
つぎつぎにあふれてくる
『ふく』という動作の
たったひとりの時間のなかで
私の心もまた
涙に洗われていることがある
はい。幸田露伴です。
「あとみよそわか」は
こうはじまります。
「掃いたり拭いたりのしかたを
私は父から習った。・・・・」
高田敏子さんの詩はどの詩も慎ましく温かさに満ちていて好きです。 この詩は初めて知りました。 有難うございます。 幸田文さんのシャッキリ感も好きです。
ご無沙汰してます。
さてっと、だいぶまえに、
久冨純江著「母の手 詩人・高田敏子との日々」
(光芒社)を買ってありました。
はい。買ったままにひらかずじまい。
はい。それがありました。
うん。読み頃をむかえたようです。
今度、ひらいてみようと思います。
パラパラ読みでも読んだらブログに
のせておきます。