和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

埼玉県吹上と京都。

2023-05-26 | 京都
須田剋太と京都。
「司馬遼太郎が考えたこと 11」(新潮文庫)の目次をひらくと、はじめに
「 出離といえるような ( 須田剋太『原画集街道をゆく』) 」があり、
その目次の、最後の方に「 旅の効用 」がありました。

どちらも、『京都』が出てくるので興味深い。

「 『 京都の坊さんは変っている。あの連中、
    平気で法衣(ころも)姿で街を歩いているんだ 』

  と、私にいった東京の町寺の僧侶がいる。
  東京じゃたとえば地下鉄のなかで坊主姿の人なんか居ないよ、
  と、やや首都の風(ふう)を誇るかのようにいった。

  東京のお寺さんは逮夜(たいや)まいりにゆくときは背広でゆき、
  檀家で法衣に着かえる。帰りは背広姿にもどって、あらたに
  形成された大衆社会の中にまぎれこむということであった。

  ・・・この傾向は、首都においてもっともつよい。・・ 」
              ( 文庫p455~456 「旅の効用」 )


はい。ここで詳しく引用していると捗らないので次にゆきます。
須田剋太は、明治39年(1906)、埼玉県吹上町に生まれ。
終戦のとき、昭和20年(1945)は39歳で、京都・奈良にいます。
司馬遼太郎の『出離といえるような(須田剋太「原画集 街道をゆく」)』
に出てくる須田画伯と京都の結びつきがきになりました。

司馬さんはこう指摘しております。

「 もし、あるひとが、
  『 京都にゆかないか 』といってくれて、
  切符を買い、汽車に乗せてくれなかったとしたら、
  生涯、樹木のように浦和の一角に生えたまま動かなかったにちがいない。

  それまで、京都についての想念は、画家にはあまりなかった。・・・
  そのあと、画家にとって、京都の町は、一歩ごとに驚きを生んだ。

  日本にこういう文化があったのかと思ったという。・・・
  京都に流れついたとき、画家にはすでに母君がなく、
  どこへゆこうと運命の動かすままになっていた。・・・・

  画家には、尋常人のもたない幸運があった。
  40歳前に京都や奈良に現われたとき、この人にとって、
  そこにある古い建築や彫刻、障壁画などが、
  とほうもなく新鮮だったことである。

  かれはほとんど異邦人のような目で見ることができたし、
  さらにいえば、古代の闇のなかから出てきた一個の
  ういういしい感受性として、誕生したばかりの新文明としての
  平城京に驚き、あるいは平安京にあきれはてているという
  奇蹟もその精神のなかでおこすことができた。  」(文庫  ~p19)

食レポというのが映像でも花盛りの現代ですが、
司馬さんは、美術レポをしておられたようです。

「私(司馬さん)は、昭和29年から3年ばかり、
 展覧会に出かけては美術評を書くしごとをした。 
 ときに抽象絵画の全盛で・・・
 須田剋太氏など数人の画家のしごとは、見るたびに、
 圧倒する力をもっていた。しかし他者を圧倒することが
 芸術なのかという疑問が、つねに私の中に残った。・・・  」(~P25)


うん。もどって「旅の効用」から最後にこの箇所を引用しておきます。

「 自分が属する社会の本質など、常日頃は気づかない。
  何かで気づかされたとき、突とばされたような驚きをおぼえる
 
 ( そういうことが、私が小説に書く動機の一つかもしれない )。 」
                       ( 文庫 p457 )


うん。さりげないのですが、司馬遼太郎の『 小説を書く動機 』が
かっこ入りで語られている場面でした。



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