須田剋太と京都。
「司馬遼太郎が考えたこと 11」(新潮文庫)の目次をひらくと、はじめに
「 出離といえるような ( 須田剋太『原画集街道をゆく』) 」があり、
その目次の、最後の方に「 旅の効用 」がありました。
どちらも、『京都』が出てくるので興味深い。
「 『 京都の坊さんは変っている。あの連中、
平気で法衣(ころも)姿で街を歩いているんだ 』
と、私にいった東京の町寺の僧侶がいる。
東京じゃたとえば地下鉄のなかで坊主姿の人なんか居ないよ、
と、やや首都の風(ふう)を誇るかのようにいった。
東京のお寺さんは逮夜(たいや)まいりにゆくときは背広でゆき、
檀家で法衣に着かえる。帰りは背広姿にもどって、あらたに
形成された大衆社会の中にまぎれこむということであった。
・・・この傾向は、首都においてもっともつよい。・・ 」
( 文庫p455~456 「旅の効用」 )
はい。ここで詳しく引用していると捗らないので次にゆきます。
須田剋太は、明治39年(1906)、埼玉県吹上町に生まれ。
終戦のとき、昭和20年(1945)は39歳で、京都・奈良にいます。
司馬遼太郎の『出離といえるような(須田剋太「原画集 街道をゆく」)』
に出てくる須田画伯と京都の結びつきがきになりました。
司馬さんはこう指摘しております。
「 もし、あるひとが、
『 京都にゆかないか 』といってくれて、
切符を買い、汽車に乗せてくれなかったとしたら、
生涯、樹木のように浦和の一角に生えたまま動かなかったにちがいない。
それまで、京都についての想念は、画家にはあまりなかった。・・・
そのあと、画家にとって、京都の町は、一歩ごとに驚きを生んだ。
日本にこういう文化があったのかと思ったという。・・・
京都に流れついたとき、画家にはすでに母君がなく、
どこへゆこうと運命の動かすままになっていた。・・・・
画家には、尋常人のもたない幸運があった。
40歳前に京都や奈良に現われたとき、この人にとって、
そこにある古い建築や彫刻、障壁画などが、
とほうもなく新鮮だったことである。
かれはほとんど異邦人のような目で見ることができたし、
さらにいえば、古代の闇のなかから出てきた一個の
ういういしい感受性として、誕生したばかりの新文明としての
平城京に驚き、あるいは平安京にあきれはてているという
奇蹟もその精神のなかでおこすことができた。 」(文庫 ~p19)
食レポというのが映像でも花盛りの現代ですが、
司馬さんは、美術レポをしておられたようです。
「私(司馬さん)は、昭和29年から3年ばかり、
展覧会に出かけては美術評を書くしごとをした。
ときに抽象絵画の全盛で・・・
須田剋太氏など数人の画家のしごとは、見るたびに、
圧倒する力をもっていた。しかし他者を圧倒することが
芸術なのかという疑問が、つねに私の中に残った。・・・ 」(~P25)
うん。もどって「旅の効用」から最後にこの箇所を引用しておきます。
「 自分が属する社会の本質など、常日頃は気づかない。
何かで気づかされたとき、突とばされたような驚きをおぼえる
( そういうことが、私が小説に書く動機の一つかもしれない )。 」
( 文庫 p457 )
うん。さりげないのですが、司馬遼太郎の『 小説を書く動機 』が
かっこ入りで語られている場面でした。
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