和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

房総の青木繁・坂本繁二郎。

2024-04-08 | 安房
「 安房郡の関東大震災 」に関連本として「安房震災誌」を開きながら、
引用ばかりしてると、ついあれこれ他の事を考えてしまうことがあります。
ぷくぷく空気が浮かぶように、直接には関係なさそうなことが浮かびます。

そして、そんな泡の空気を紙風船に詰め、飛ばしてみたくなります。
はい。落ちてきたら何度でも打ち上げたくなる紙風船のようにして。


今回は、安房震災誌に登場していた2つのキーワードからの連想。

   『 海の時代 』 ( p276 「安房震災誌」 )
   『 牛乳の國 』 ( p256 「安房震災誌」 )

この2つの言葉から。震災とは、直接関係がないけど、
私に2つの絵が思い浮かびました。

『 海の時代 』から浮んできたのが、青木繁の絵『 海の幸 』でした。
『 牛乳の國 』から次に浮んだのが、坂本繁二郎の絵『うすれ日』です。

青木繁・坂本繁二郎らが千葉県布良海岸へゆくのが明治37年(1904)でした。
そこで青木繁は「海の幸」を描き9月の白馬会に出品しております。


年表で気になったのが、日露戦争(1904~1905年)でした。
1902年に、青木繁は徴兵検査のため帰郷、近視性乱視のため不合格。
そして、坂本繁二郎も徴兵検査で身長が足りず不合格でした。


明治37年(1904)8月22日に青木繁は、布良海岸から、
福岡県八女郡三河村の友人へと手紙を送っております。
その書き出しを引用してみます。

「 其後ハ御無沙汰失禮候、モー此處に来て一ヶ月余になる、
  この残暑に健康はどうか? 僕は海水浴で黒んぼーだよ、

  定めて君は知って居られるであろうがここは萬葉にある
 『 女良 』だ、すく近所に安房神社といふがある、官幣大社で、
  天豊美命をまつったものだ、何しろ沖は黒潮の流を受けた激しい崎で
  上古に伝はらない人間の歴史の破片が埋められて居たに相違ない、

  漁場として有名な荒っぽい處だ、冬になると四十里も
  五十里も黒潮の流れを切って二月も沖に暮らして漁するそうだよ、

  西の方の浜伝ひの隣りに相の浜といふ處がある、詩的な名でないか、
  其次ハ平砂浦(ヘイザウラ)其次ハ伊藤のハナ、其次ハ洲の崎で
  ここは相州の三浦半島と遥かに対して東京湾の口を扼して居るのだ、
  ・・・・・     」

 ( p107  青木繁「 假象の創造 」中央公論美術出版・昭和58年 )

この手紙は、絵入りで読み応えのある長い文になっておりますが、
ここでは、最初の箇所だけ引用してみました。

とりあえずは、これが『 海の時代 』の絵。
次に思い浮かべるのが『 牛乳の國 』の絵。


坂本繁二郎の牛の絵「 うすれ日 」について。

明治45年7月30日、明治天皇がなくなられました。
大正と改元されたその秋の第6回文展に『うすれ日』が出品されます。
ちなみに、明治44年3月25日に、青木繁は29歳で亡くなっております。

大正元年(1912)坂本繁二郎(30)は房州御宿地方に赴いております。
その年の作品は、『うすれ日』『御宿村の一部』『海藻とりの女』。
次の年の作品は、『魚を持って来た海女』『海草採りの女』『犬のいる風景』。
翌々年の作品は、『人参畑 房州波太漁村』『海岸の牛』『早春』『漁村』。

それでは、坂本繁二郎の『 うすれ日 』はどんな絵なのか。
夏目漱石が新聞に評文を載せておりますので、そこから引用。


「 『 うすれ日 』は小幅である。
  牛が一匹立っているだけである。・・・
 
  この牛は自分の嫌いな黒と白の斑(ぶち)である。
  その傍には松の木か何か見すぼらしいものが一本立っているだけである。

  地面には色の悪い夏草が、しかも漸(やっ)との思いで
  少しばかり生えているだけである。・・・・

  それでもこの絵には奥行きがあるのである。
  そしてその奥行きはおよそ一匹の牛の寂寞として
  野原に立っている態度から出るものである。・・・  」

(p161 谷口治達著「青木繁坂本繁二郎」西日本新聞社・ふくおか人物誌4 )

坂本繁二郎著「私の絵 私のこころ」(日本経済新聞社・昭和44年)
には、はじめの写真入りページにこの絵が載っておりました。
本には坂本繁二郎の文が載っており、そこにこうありました。

「うれしかったのは夏目漱石の評文を新聞で見たことです。
 切り抜きを保存しているのですが・・・

 私は、自分の苦しみがわかってもらえたことで十分でした。
 漱石は人を介して私に会いたいと言われたようです。

 当代一の作家に作品を通じて会っていただけるなど、感激しましたが、
 何か自分がずばり見抜かれた感じで、会うのがこわくて
 ためらううちに機会を逸しました。

 牛は好きな動物です。自然の中に自然のままでおり、
 動物の中でいちばん人間を感じさせません。
 大正時代の私は、まるで牛のように、牛を描き続けたものです。」
                   ( p59~60  同上 )


はい。この紙風船。次回も、もう一度打ち上げてみたいと思います。
  



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