和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

「索引」の夜明け。

2020-04-22 | 前書・後書。
中国のネット上では、自国に不利な情報を流せば、
すぐにでも、削除されるという情報があります。

はい。それが、検閲社会ならば、
じゃ、日本は、検索社会である。
として、いいのじゃないか。索引ができる社会へと
向かっているのじゃないか。

こう思ったのは
徳岡孝夫著「『戦争屋』の見た平和社会」(文藝春秋・1991年)
のまえがきを、読んだからでした。

この本の題名は、編集者が考えたものですから、
あんまり、題名は気にしなくてもよいのでした(笑)。

本文は、昭和48年~平成3年まで、おもに雑誌への掲載文が
まとめられておりました。そのなかには
「『ビルマの竪琴』と朝日新聞の戦争観」という文もあります。
この本の「あとがき」で、徳岡氏は

「視聴者(新聞の場合は読者)が判断を下せばよい。
 それが出来ないほど大衆はバカではない。」

と記しておりました。この本の「まえがき」は4頁ほどの文です。
題して「『索引』のない社会」としてあります。
まえがきも、雑誌に掲載された文で
昭和55年7月号『諸君!』に「『索引』なき社会」として
載った文なのでした。

うん。この「まえがき」から引用したいのですが、
どこから引用すればよいのか?
いちばん最後の三行を引用してみます。

「幸か不幸か、この国は『索引なき社会』だ。
時に応じ機に乗じ、だれでも無責任な説をなし、
世に好まれるものを書きとばすことが可能だ。
流行すたれば、世間は都合よく忘れてくれる。
・・・・(1980年5月記)」

はい。40年前のこの国は、こうだったのです。
これが印象鮮やかなのは、40年後の現在の
ネット社会と、つい比べたくなるからです。

はい。そんなことを思いながら、
では、40年前の「この国」を引用してゆきます。

「・・索引のない本は、内容を覚えていないかぎり、
簡単には役に立たないからである。
ジョン・トーランドのThe Rising Sunは
2・26事件から終戦までの日本を書いた面白い本だが、
私も翻訳に参加した訳書には索引がなく、
原著には23ページも索引がついているので、そのほうを重宝している。
ほとんどの翻訳物が同断で、邦訳にだけ索引がない。

一般に横文字の本は、詩か小説か随筆でないかぎり索引がついている。
ついていなければ、まともな本として信用されないからである。
必ずしも研究の用でなく、読んだだけで楽しい本でも、たとえば
ドーバー・ウィルソンのWhat Happens ㏌ Hamlet には
綿密な索引と引用索引がついている。」

はい。まだまだ、引用を続けさせてください(笑)。

「現代日本文学全集(筑摩版)は、正字・旧仮名遣いの貴重な全集だが、
その別巻1『現代日本文学史』は中村光夫、臼井吉見、平野謙各氏が
それぞれ明治、大正、昭和を分担執筆した好著でありながら、
人名、事項いっさい索引がない。不便このうえない。
野口武彦『谷崎潤一郎論』、中村光夫『永井荷風論』、同『漱石と白鳥』
本多秋五『「白樺」派の文学』・・・・・どれ一つ索引がない。
これらの本すべて、非常に役に立ちにくい、
一度読んだあと、必要なときに必要なページが
開けるほど読者の記憶力はよくないからだ。」

このあとが、新聞への言及となるのでした。

「新聞記者の書いたものになると、この傾向はさらに顕著になる。
大新聞の特派員が在任中の見聞を書き溜めて一冊にした本など、
索引はおろか参考文献一覧もインタビュー対象者一覧も欠く。
私が書いたものを含め、すべてから実に薄っぺらな印象を受ける。

それだけならまだいい。20年前のソ連、10年前の中国を書いた
特派員報告書に至っては噴飯ものが珍しくない。本だけならともかく、
表芸の新聞記事がそうで、林彪の失脚は自由主義諸国の故意のデマだとか、
中国航空のスチュワーデスはやさしくて、その態度を見ただけで安全がわかる
(私なら機長の態度のほうを見るところだ)等々と書いたのに、
いまだに中国通で通っている人がいる。

現に北京からしきりに『近代化』を報じている特派員の中にも、
毛沢東が死んだとき・・・・・・・・・・・と書いた人がいる。
それらは読者の健忘症をたのみつつ時に応じて
カメレオンのように変身していこうという、新聞記者のツラ汚しである。

学者の中にもカメレオンがいる・・・・・・・・・
そんな世論指導者に操られる日本民衆が気の毒だ。

それらはすべて索引が完備していて、
それが累積していく制度さえあれば、こわくて書けない文章である。
索引がないから、日本の学者やジャーナリストは、
世の流れに浮かぶうたかたのような説を立て、
そのくせ枕を高くして眠ることができる。

索引のない物ばかり読んでいるから、
日本人の思考もいつのまにか非索引的になっていく。
・・・・・・・・
・・・・・・・・
こうして見てくると、日本人の論理活動の
大部分は、書きとばし、読みとばしであるとわかる。」

うん。まだあるのですが、
4頁の全文を引用してしまいそうなので、ここまで。

こうして引用していると、
この文の40年後。ネット社会に突入した現代は
「日本人の論理活動」にドエライ刺激を与えている
ということになるのだと結論づけてもよいのでしょうか。






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