和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

房総と『老人の僕』

2024-04-09 | 安房
大正元年に夏目漱石は、坂本繁二郎の絵「うすれ日」を展覧会で観ます。

大正5年(1916)12月に、漱石は死去されております。
大正5年の漱石というと、芥川龍之介らに送った手紙がありました。
2月19日の漱石からの手紙は、雑誌で龍之介の作品を読んだとあります。

「・・あなたのものは大変面白いと思ひます
 落着があって巫山戲てゐなくって自然其儘の可笑味が
 おっとり出てゐる所に上品な趣があります
 夫から材料が非常に新らしいのが眼につきます
 文章が要領を得て能く整ってゐます敬服しました。

 ああいふものを是から二三十並べて御覧なさい・・・
 然し『鼻』丈では恐らく多数の人の眼に触れないでせう
 触れてもみんなが黙過するでせうそんな事に頓着しないで
 ずんずん御進みなさい
 群衆は眼中に置かない方が身體の薬です。・・・ 」


そして、8月21日には、芥川龍之介・久米正雄が
千葉県一ノ宮から葉書をよこしたのに対して返事を書いております。
そのなかに、『牛』が出てきておりました。
はじまりは

「あなたがたから端書がきたから奮発して此手紙を上げます。
 僕は不相変『明暗』を午前中書いてゐます。・・・・」

とあります。後半にこんな箇所がありました。

「・・・何か書きますか。・・・・
 然し無暗にあせっては不可ません。
 ただ牛のやうに図々しく進んで行くのが大事です。・・・」

8月24日には、つづけて手紙を書いておりました。
そのはじまりは

「 此手紙をもう一本君等に上げます。
  君等の手紙があまりに溌溂としてゐるので、
  無精の僕ももう一度君等に向って何か云ひたくなったのです。
  云はば君等の若々しい青春の気が、老人の僕を若返らせたのです。 」

『 若返らせた 』といえば、漱石の青春時代へ思いを馳せることに。

高島俊男著「漱石の夏やすみ房総紀行『木屑録』」(ちくま文庫)があります。ここには、高島俊男氏の「はじめに」を引用。

「 『木屑録(ぼくせつろく)』は、夏目漱石が、
  明治22年、23歳のときにつくった漢文紀行である。
  漱石は第一高等中学校の生徒であった。
  このとしの夏やすみを、漱石は旅行ですごした。・・・」

「 ・・・8月7日から、友人4人とともに房総旅行にでかけた。
  東京にかえったのは月末の30日である。
  この房総旅行の見聞をしるしたのが木屑録である。

  ・・・木屑録は同級生の正岡子規に見せるためにつくったものであるが、
  その子規はこのとし5月に喀血し、7月はじめに学年試験がおわるとすぐ
  郷里松山へかえって静養していた。・・・・
  子規はこれをつぶさによみ、批評をつけて漱石にかえした。・・  」


今回の最後は、大正5年8月24日に芥川・久米に出した手紙、
その終りの箇所を引用しておきたいと思います。

「・・・・牛になる事はどうしても必要です。
 吾々はとかく馬になりたがるが、牛には中々なり切れないです。
 
 僕のやうな老猾なものでも、只今牛と馬と
 つがって孕める事ある相の子位な程度のものです。

 あせっては不可せん。頭を悪くしては不可せん。

根気づくでお出でなさい。世の中は根気の前に頭を下げる事を知ってゐますが
火花の前には一瞬の記憶しか與へて呉れません。・・・・

決して相手を拵らへてそれを押しちゃ不可せん。
相手はいくらでも後から後からと出て来ます。

さうして吾々を悩ませます。
牛は超然として押して行くのです。
何を押すかと聞くなら申します。
人間を押すのです。文士を押すのではありません。

 是から湯に入ります。

      8月24日          夏目金之助

    芥川龍之介様
    久米 正雄様                  」





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