注文してあった、思潮社の現代詩文庫「続・渋沢孝輔詩集」が届く。
古本値で600円+送料180円。検索であった「古書うつつ」に注文。
ひらくと、栞サイズの印刷物がハラリと落ちたので、ひろうと
「謹呈 著者」とあります。読まれずに、そのままになっていたようで、
新刊としてもよい一冊。
この文庫で、詩集は全篇とりあげているのが「廻廊」と「啼鳥四季」。
あとは「われアルカディアにもあり」「越冬賦」「薔薇・悲歌」「緩慢な時」の詩集から選ばれた詩が並んでおります。
うん。読甲斐がありそうです。
以前に「廻廊」を持っていたと思ったのは、この詩集が高見順賞をとったから、それで私も買ってあったのだと思われます。理解できずに、そのままどこかへいってしまったようです。
それでは、「啼鳥四季」にある「秋の現象」から引用。
なにもかもに飽き果てているうちに
ひぐらしの声もいつのまにか
耳を澄ましてさえ聞かれなくなった
蛙鳴蝉操(あめいせんそう) とは別の国のはなしで
われらにはたぶん縁のない形容のはずだが
いまはもっと賑やかで執拗な
こおろぎたちの大合唱が
庭先のでこぼこの夜を満たし震わせている
今年のひぐらしたちは早かったのか
遅かったのか
初秋の一日 夜明け方の
かぼそいひと声を聞いたのが最後だ
ひと声鳴いたあとは長い沈黙で
ようやく漂いはじめた涼風の中の
何かの気配をうかがってでもいるかのような
その沈黙の間合いがことさらに
季節の節目を刻もうとしているようでもあったが
こうして始まる詩なのですが、途中をはしょっていきます。
後半にこんな箇所がありました。
疲れたりといったありさまのなか
わたしもカナカナ カナカナと鳴いて過した
(それにしても夜のあいだをこおろぎたちは
よくもあれほど鳴き続けられるもの)
・ ・・・
こおろぎの声に釣られてこの夏の
あれやこれやを思い出してみる一方
ほんとうに思い出すべきことはこれらではなく
じつは別のことだと思ってもいるのだ
詩の切れ切れの引用は味気ないのですが、ついでに最後の3行
ああ こおろぎたちの大合唱の中の
すすき りんどう われもこう
すすき りんどう われもこう
岡崎武志さんが、ある本で紹介していた『廻廊』の一部は、
詩「夾竹桃の道」のはじまりからでした。
この文庫には最後に「作品論・詩人論」が載っているのでした。
その最初は安東次男氏の文が掲載されておりました。
そこでは、渋沢孝輔の詩につけた言葉が、そのままに引用してありました。
「一読して、何かがそこから始りそうな新鮮なものを感じたのを覚えている。
『傍観者に堕することなく時代の証人となることは、むつかしい。そういうことは、あるいは真の(ということは無償のということだが)学問への情熱と真の詩への情熱とが一致したばあいにしか顕現してこないのかもしれない。それは精神の状態として考えれば、純潔という一状態であろうと思う』と私はそのとき書いた。」
うん。とりあえず。手にはいったこの現代詩文庫の一冊をパラリと見てみたのでした。さて、2010年の暑さも、もう終る頃でしょうか。
古本値で600円+送料180円。検索であった「古書うつつ」に注文。
ひらくと、栞サイズの印刷物がハラリと落ちたので、ひろうと
「謹呈 著者」とあります。読まれずに、そのままになっていたようで、
新刊としてもよい一冊。
この文庫で、詩集は全篇とりあげているのが「廻廊」と「啼鳥四季」。
あとは「われアルカディアにもあり」「越冬賦」「薔薇・悲歌」「緩慢な時」の詩集から選ばれた詩が並んでおります。
うん。読甲斐がありそうです。
以前に「廻廊」を持っていたと思ったのは、この詩集が高見順賞をとったから、それで私も買ってあったのだと思われます。理解できずに、そのままどこかへいってしまったようです。
それでは、「啼鳥四季」にある「秋の現象」から引用。
なにもかもに飽き果てているうちに
ひぐらしの声もいつのまにか
耳を澄ましてさえ聞かれなくなった
蛙鳴蝉操(あめいせんそう) とは別の国のはなしで
われらにはたぶん縁のない形容のはずだが
いまはもっと賑やかで執拗な
こおろぎたちの大合唱が
庭先のでこぼこの夜を満たし震わせている
今年のひぐらしたちは早かったのか
遅かったのか
初秋の一日 夜明け方の
かぼそいひと声を聞いたのが最後だ
ひと声鳴いたあとは長い沈黙で
ようやく漂いはじめた涼風の中の
何かの気配をうかがってでもいるかのような
その沈黙の間合いがことさらに
季節の節目を刻もうとしているようでもあったが
こうして始まる詩なのですが、途中をはしょっていきます。
後半にこんな箇所がありました。
疲れたりといったありさまのなか
わたしもカナカナ カナカナと鳴いて過した
(それにしても夜のあいだをこおろぎたちは
よくもあれほど鳴き続けられるもの)
・ ・・・
こおろぎの声に釣られてこの夏の
あれやこれやを思い出してみる一方
ほんとうに思い出すべきことはこれらではなく
じつは別のことだと思ってもいるのだ
詩の切れ切れの引用は味気ないのですが、ついでに最後の3行
ああ こおろぎたちの大合唱の中の
すすき りんどう われもこう
すすき りんどう われもこう
岡崎武志さんが、ある本で紹介していた『廻廊』の一部は、
詩「夾竹桃の道」のはじまりからでした。
この文庫には最後に「作品論・詩人論」が載っているのでした。
その最初は安東次男氏の文が掲載されておりました。
そこでは、渋沢孝輔の詩につけた言葉が、そのままに引用してありました。
「一読して、何かがそこから始りそうな新鮮なものを感じたのを覚えている。
『傍観者に堕することなく時代の証人となることは、むつかしい。そういうことは、あるいは真の(ということは無償のということだが)学問への情熱と真の詩への情熱とが一致したばあいにしか顕現してこないのかもしれない。それは精神の状態として考えれば、純潔という一状態であろうと思う』と私はそのとき書いた。」
うん。とりあえず。手にはいったこの現代詩文庫の一冊をパラリと見てみたのでした。さて、2010年の暑さも、もう終る頃でしょうか。
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