北村薫著「自分だけの一冊」(新潮新書)をパラパラと拾い読み。
そこに、こんな箇所。
「本は段ボールに入れたら、もう、おしまいです。
整理しようと思っているうちに、上に新しい本がどんどん積まれてしまう。
わたしは、うちにある本の背表紙が見えないと、探すのをあきらめて、素直に図書館に行きます。図書館にもある本なら、その方が圧倒的に早い。物理的な距離は現実の距離ではない。図書館にない本は、出来るだけ背表紙を出すようにしています。」(p43)
う~ん。段ボールの数が半端じゃないのだろうなあ。と、まずは思いうかべるのですが、ちょっと想像もつかない。そういう方がアンソロジーを編むというテーマで授業をしたというのですから、興味深くて読み始めたのですが、さらりとした読後感でした。もっとも期待の方が大きかった時は、いつもこんな感じになります。
「選句は創作だ――というのは、俳句の世界では普通にいわれることです。アンソロジーにも、そういうところがある。誰が水にもぐるかで、採って来る魚は変わる。そこが面白い。」(p164)
う~ん。さらりと書かれているのですが、ちょっとした箇所が、印象に残ります。
公開の授業ということで、ときどきは、言葉のスパイスを数行語るという感じなのでしょうか。
さてっと、はじめの方にこうあります。
ちなみに、北村薫氏は埼玉県生まれとあります。高校生の頃の話のなかに
「何百編か読むためには、まず、それを集めなければいけない。田舎町にいては無理です。そこで、神田に行くことになりました。本探しに出掛けたんです。初心者はよくやることですが、最初は神田駅で降りました。ところが、いわゆる神田の古書店街というのは、神保町にある。神田の駅前をうろうろしても、見当違いなんです。そんな失敗をしながら、古本屋巡りを覚えたわけです。どうもね、わたしは古本屋さんといわないと落ち着かない。古書店というと、よそよそしい気がします。親しみがない。・・・」(p22)
これなど、読みながら、つい徒然草を思い浮かべてしまいます。
ということで、「仁和寺(にんなじ)に、ある法師」(第五十二段)を引用。
「仁和寺に、ある法師、年寄るまで、岩清水を拝まざりければ、心憂く覚えて、ある時思ひ立ちて、ただ一人、徒歩より詣でけり。」
ここまでは、一人で、神田へ出かけるような感じでしょうか。
「極楽寺・高良(かうら)などを拝みて、かばかりと心得て帰りにけり。さて、かたへの人に会ひて、『年ごろ思ひつること、果たしはべりぬ。聞きしにも過ぎて、尊くこそおはしけれ。そも、参りたる人ごとに山へ登りしは、何ごとかありけん、ゆかしかりしかど、神へ参るこそ本意なれと思ひて、山までは見ず』とぞ言ひける。
少しのことにも、先達(せんだち)はあらまほしきことなり。」
う~ん。神田へでかけて、得意になって友達に神田駅近辺の本屋のことを話している北村薫さんをつい思いうかべたりします。
そこに、こんな箇所。
「本は段ボールに入れたら、もう、おしまいです。
整理しようと思っているうちに、上に新しい本がどんどん積まれてしまう。
わたしは、うちにある本の背表紙が見えないと、探すのをあきらめて、素直に図書館に行きます。図書館にもある本なら、その方が圧倒的に早い。物理的な距離は現実の距離ではない。図書館にない本は、出来るだけ背表紙を出すようにしています。」(p43)
う~ん。段ボールの数が半端じゃないのだろうなあ。と、まずは思いうかべるのですが、ちょっと想像もつかない。そういう方がアンソロジーを編むというテーマで授業をしたというのですから、興味深くて読み始めたのですが、さらりとした読後感でした。もっとも期待の方が大きかった時は、いつもこんな感じになります。
「選句は創作だ――というのは、俳句の世界では普通にいわれることです。アンソロジーにも、そういうところがある。誰が水にもぐるかで、採って来る魚は変わる。そこが面白い。」(p164)
う~ん。さらりと書かれているのですが、ちょっとした箇所が、印象に残ります。
公開の授業ということで、ときどきは、言葉のスパイスを数行語るという感じなのでしょうか。
さてっと、はじめの方にこうあります。
ちなみに、北村薫氏は埼玉県生まれとあります。高校生の頃の話のなかに
「何百編か読むためには、まず、それを集めなければいけない。田舎町にいては無理です。そこで、神田に行くことになりました。本探しに出掛けたんです。初心者はよくやることですが、最初は神田駅で降りました。ところが、いわゆる神田の古書店街というのは、神保町にある。神田の駅前をうろうろしても、見当違いなんです。そんな失敗をしながら、古本屋巡りを覚えたわけです。どうもね、わたしは古本屋さんといわないと落ち着かない。古書店というと、よそよそしい気がします。親しみがない。・・・」(p22)
これなど、読みながら、つい徒然草を思い浮かべてしまいます。
ということで、「仁和寺(にんなじ)に、ある法師」(第五十二段)を引用。
「仁和寺に、ある法師、年寄るまで、岩清水を拝まざりければ、心憂く覚えて、ある時思ひ立ちて、ただ一人、徒歩より詣でけり。」
ここまでは、一人で、神田へ出かけるような感じでしょうか。
「極楽寺・高良(かうら)などを拝みて、かばかりと心得て帰りにけり。さて、かたへの人に会ひて、『年ごろ思ひつること、果たしはべりぬ。聞きしにも過ぎて、尊くこそおはしけれ。そも、参りたる人ごとに山へ登りしは、何ごとかありけん、ゆかしかりしかど、神へ参るこそ本意なれと思ひて、山までは見ず』とぞ言ひける。
少しのことにも、先達(せんだち)はあらまほしきことなり。」
う~ん。神田へでかけて、得意になって友達に神田駅近辺の本屋のことを話している北村薫さんをつい思いうかべたりします。
『1=1'』
左側の『1』と, 右側の『1'』が同等であるならば, 必ず同じ時間平面上に両者は存在しなければならない。但し質的に連続する時間平面上にあればよいので, 一方が視界(平面上)より質的に消え, また一方が視界(平面上)に質的に現れる場合は極端な例として含まれる。最も安定した例は紙の上に書かれた記号である。例えば紙の上に『A』と書いたとすると, この『A』は絶対変化系『±A=0』となり, 厳密にその形を保つことは出来ない。つまり『A=A'』(同等)として扱う場合は, 必ず質的に変化する前の『A』とは質的に変化する平面ごと重なり合わなければならなくなる。よって次の様に表される。
『A→A'=A←A'』
【解説】
時間平面AはA'方向へ変化すると言う【過程】『A→A'』と, 時間平面A'はA方向より変化して来たと言う【過程】『A←A'』は同じ時間平面上に一致する。(『→《右向きベクトル》』は, その方向への経過。『←《左向きベクトル》』は経過してきた方向を表す無方向ベクトル。)
±A=0《絶対変化系》
±(A→A')=0
(A→A')=(A←A')《一致》
念のために確認しておくが, 『±A=0』(絶対変化系)は如何なる観察場に於いても成り立つ。『0』は特別な記号で, 絶対性・不可分性・識物性・変化性の森羅万象の真理を表すと考えられている。尤も, これを記号として繋いだなら他の記号と変わりないのだが, 便宜上こうなっていると考えて構わないだろう。『A』と【0】(真性)はぴったり重なる。と言うより真理なる性質を与えられていると考える方が正確かも知れない。『A』は時間平面に嵌まらないこの裏側(の絶対無)と不可分であり, 拡がりがなく, 絶対的で, つねに質的に変化する。識物性とあった通り, この裏側(の絶対無)に支えられている時間平面上のすべて, 即ち時間平面を構成する絶対的要素のすべてが『A→A'』を成しており, 分けてゆけば無限大である。(ノートブックの紙, 黒鉛など‥)
問題は, 質的に連続する観察場時間平面上から切り離された【記憶】の2つ以上の時間平面の関係, 特に心象的時間平面的複雑系は, 如何にして心象的時間平面的単純系(記号)と関係を持っているか, である。
複雑系P=P'
記号系A=A'
{P→P'=P←P'}≠{A→A'=A←A'}