和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

さむいね。ああさむいね。

2017-02-15 | 詩歌
筑摩書房の「日本の思想」第5巻。
「方丈記・徒然草・一言芳談集」の別冊は
唐木順三・臼井吉見対談でした。
読んでいると、「ね」が効果的な
潤滑油となっておりまして、
双方が語る最後に「ね」を入れている
箇所が親密感を読む者に抱かせます。

ということで、
私に思い浮かんだ詩はというと


  秋の夜の会話  草野心平


 さむいね
 ああさむいね
 虫がないているね
 ああ虫がないているね
 もうすぐ土の中だね
 土の中はいやだね
 やせたね
 君もずいぶんやせたね
 どこがこんなに切ないんだろうね
 腹だろうかね
 腹とったら死ぬだろうね
 死にたかあないね
 さむいね
 ああ虫がないてるね



ちなみに、徒然草第十二段の
臼井吉見訳はこうでした。

 気ごころの合った相手と、
 しんみり語って、おもしろいことでも、
 ちょっとした世間話でも、
 遠慮気がねなく話し合うのはうれしいことにちがいない。
 だが、そんな相手はあるまいから、
 いささかも先方にさからうまいと、
 むかい合っているというふうなのは、
 まるでひとりでいるのと同じ気持だろう。
 
 たがいに意見を交換するくらいのことに対しては、
 『なるほど』と耳をかたむけるだけのことはあろうが、
 多少意見のちがう点のある人は、
 『自分はそうは思わないね』などと議論し合い、
 『そんなわけだからそうなんだ』とでも話し合ったら、
 所在なさもまぎれるだろうと思う。
 だが、ほんとうのところ、
 世に対する不平不満の点についても、
 人生観において一致しない相手は、
 通り一ぺんの雑談をしているうちはよかろうが、
 真実の友人というには、大分ひらきのありそうなのが残念だ。



うん。臼井吉見氏の現代語訳なら
すらすらと読めそうです(笑)。

 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

異質だね。珍しいね。

2017-02-15 | 道しるべ
筑摩書房「日本の思想」(第5巻)は、
「方丈記・徒然草・一言芳談集」でした。
そこには、別冊がはさまっていて、
その別冊は唐木順三・臼井吉見対談。
これ、読めてよかった。

二人の対談が気さくで、しかも分かりやすい。
「徒然草」に話が及んだところを引用してみます。

唐木】 文章がうまいだろう。
臼井】 素晴しいよ。
唐木】 説明をしないね。
臼井】 実に素晴しい。『徒然草』は、どんなに
    感嘆しても感嘆しすぎることはないね。
    日本の文学として、異質だね。
唐木】 珍しいね。非常に高度な意味の
    人生批評、社会批評だね。
臼井】 なんというのかな、
    生きていることがそのまま批評であるような。
    これから批評します。観察しますというのじゃないね。

  ・・・・・・・・・・・

臼井】 ・・・結局はなんともいえないというものを、
    すべてに感じていたんじゃないかな。
    答の出るというものじゃなくて。
唐木】 そう、そう。はじめからそうじゃないかな、
    君のいうように。なんとか答を得ようとして
    問いながら答えられないとう状態が『つれづれ』。
臼井】 非常に同感だね。そうだと思うね。
    『徒然草』全体が、何ものに対しても答を出している
    ようでもあるけれど、実は出していない。
唐木】 すでにそれを否定するようなものが入っている。
臼井】 答といってもいいし、解決といってもいいけれど、
    解決を握ったと思うときに、すぐそれをくつがえすものが
    同時に働いてくるという。あの構造が非常に見事なものだね。
    魅力もあるし、それちゃんとした簡潔な、
    素晴しい表現を獲得したということね。
    批評といったってちゃんと表現なんだからね。
唐木】 珍らしいね。


うん。別冊を読めてよかったなあ。
「徒然草を読む先輩たち」が二人も見つかった(笑)。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

方丈記・徒然草・一言芳談集。

2017-02-15 | 道しるべ
今年になって、筑摩書房の「日本の思想5」(1970年発行)を古本で購入。
編集は臼井吉見氏。日本の思想5は「方丈記・徒然草・一言芳談集」。
注文する際に、「別冊有」に興味をひかれて、その本を注文。

さて、「方丈記・徒然草・一言芳談集」について、
方丈記の、校訂・訳・注が唐木順三。
徒然草の、校訂・訳・注が臼井吉見。
一言芳談の、校訂・訳・注が小西甚一。


ちなみに、ちくま学芸文庫にはいっている
小西甚一校注「一言芳談」は、現在の古本価格が
2000~3000円。
その文庫の最後に、
「 本書は、1970年8月15日刊行の『日本の思想』5
(筑摩書房)に基づいたものである。」
とあります。文庫解説は臼井吉見。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

産経抄の今昔物語集

2017-02-14 | 産経新聞
産経新聞2017年2月12日の産経抄。
そこに『今昔物語集』の説話からの引用がある。
読んでないのに本棚にある
岩波文庫「今昔物語集」全4巻をとりだして、
各巻の目次をさがすが、産経抄の引用説話は
みつからない。

その箇所を岩波文庫でさがすが
省かれているらしく、その箇所はなかった。

ということで、
講談社学術文庫「今昔物語集」全9巻を
古本で今日注文したところ。

うん。古本が届いたら、
あらためて引用箇所を確認してみます(笑)。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

傘寿養老孟司。

2017-02-13 | 短文紹介
Voiceの3月号。
巻頭インタビューは藤原正彦氏。
題して「読書は国防である」
山本夏彦氏のコラムが読めなくなり、
その期待をかってに藤原正彦氏に
かぶせている私です(笑)。

とはいうものの、
週刊誌は読まないし、
こうしてインタビューでも
月刊誌に登場するのは大歓迎。

巻頭言は養老孟司氏。
そのはじまりは、

「今年に入って、義兄が93歳で亡くなり、
91歳の姉が独り残された。娘つまり姪が二人いたが、
どちらも嫁に行き、一人は一昨年亡くなり。一人が残っている。
90歳の実兄はとうの昔に連れ合いを亡くし、
都営住宅で独り暮らしだが、ボケたんじゃないかと福祉センター
からときどき連絡をいただく。
まあ、現代では家庭の事情はどこでも似たり寄ったりであろう。
かなり極端な老人社会である。
連絡を受けるほうの私は傘寿を自分で勝手に祝ったばかり、
これで八十歳、いつ倒れたって不思議ではない。・・・」

地方にいて、
私も六十歳を過ぎると、
養老氏の言われる「家庭の事情はどこでも似たり寄ったりであろう」
をウンウンと納得しながら読めました(笑)。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

仲間と歩いている時の兼好。

2017-02-12 | 道しるべ
桑原博史著「徒然草の鑑賞と批評」(明治書院)の
はじまりは、「徒然草を読むために」。
そこから、この箇所を引用。


「・・・作品の色調としての明るさと暗さとに見られる。
たとえば第12段『同じ心ならん人としめやかに物語りして』、
第13段『ひとり灯のもとに文をひろげて』などの章段には、
人間の世界に心のかよい合う友人を求め得ない深い絶望があらわれていて、
兼好の孤独な魂といったものが感じられる。
しかしこの暗さは、作品全体をおおっているものではない。
第41段を見ると、『五月五日、賀茂の競べ馬を見侍りしに』、
愚かな人々の中に自分をも加えているから、
人々に前に出てこいといわれて、群衆の中にとけこんでしばしを
楽しむ心のゆとりがある。
第二三八段中の『人あまたつれて』『人あまた伴なひて』という、
何人かの仲間と歩いている時の兼好には、
明るさにみちみちた生活の一端がしのばれるのである。
これは、兼好と同じように現実生活に背を向けて出家した
鴨長明の場合と、まったく対照的である。
彼の世に対する恨みに比して、兼好の場合は、
出家後も親和関係にある人々にかこまれて
生活している明るさが感じられるのである。
個人の内面としては絶望的な暗さをも持ちながら、
現実生活としては明るさにみちた日々を送っている、
こういう明暗二つの世界を生きている作者の姿が、
そのまま作品の色調となって結晶している。
それが徒然草の作品世界である。」(p6)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

徒然わぶる人。

2017-02-11 | 道しるべ
小林秀雄に「徒然草」という3ページほどの文があるのを思い出す。
さっそく、ひらいてみる。

「『つれづれ」 といふ言葉は、
平安時代の詩人等が好んだ言葉の一つであつたが、
誰も兼好の様に辛辣な意味をこの言葉に見付け出した者はなかつた。
彼以後もない。『徒然わぶる人は、如何なる心ならむ。
紛るる方無く、唯独り在るのみこそよけれ』、
兼好にとつて徒然とは『紛るる方無く、唯独り在る』
幸福並びに不幸を言ふのである。
『徒然わぶる人』は徒然を知らない。
やがて何かで紛れるだろうから。
やがて『惑の上に酔ひ、酔の中に夢をなす』だろうから。
兼好は、徒然なる儘に、徒然草を書いたのであつて、
徒然わぶるままに書いたのではないのだから、
書いたところで彼の心が紛れたわけではない。
紛れるどころか、眼が冴えかへつて、
いよいよ物が見え過ぎ、物が解り過ぎる辛さを、
『怪しうこそ物狂ほしけれ』と言つたのである。」


ちなみに、寺田寅彦の『徒然草の鑑賞』の文の最後の方に
こんな言葉がありました。

「子供の時から僧になった人とちがって、
北面武士から出発し、数奇の実生活を経て
後に頭を丸めた坊主らしいところが到る処に現れている。
そうしてそういう人間が、全く気任せに自由に
『そこはかとなく』『あやしう』『ものぐるほしく』
矛盾も撞着も頓着しないで書いているところに、
この随筆集の価値があるのであろう。
これらの矛盾撞着によって三段論法では説けない
道理を解説しているところにこの書の妙味があるであろう。」
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

いずれも平凡と云えば平凡。

2017-02-10 | 道しるべ
寺田寅彦の「徒然草の鑑賞」が魅力。
以前に、さらりと読んだときは、
寅彦随筆の醍醐味がないなあと、
読み流しておりました。
今回は、徒然草を読みたいと思っていて、
けれど、徒然草を全編読むのは大変と思っていた
私には、これ幸いの文でした。
これ自体が、寅彦随筆解明への手掛かりになる文
なのだろうなあと、私は思ったりします。

魅力の「徒然草の鑑賞」を味わうことができました。
徒然草を読む先達として、この人は必読(笑)。

ということで、あとはここで指摘されている
徒然草第何段というのを、チェックしながら、
ゆっくりと読んでいきたいのでした。
はい、まだそれはやってません。

と、ここまででは、つまりませんよね(笑)。
寺田寅彦の「徒然草の鑑賞」から
今回は、この言葉を引用。

「世間に立交わって人とつき合うときの
心得を説いたものが案外に多い。
これも現代にそのまま適用するものが多い。
・・・いずれも平凡と云えば平凡のことであるが、
この平凡事を忘れているために大きな損をしている人は
現在の世間にでも存外多いらしい。」
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

徒然草の鑑賞

2017-02-09 | 道しるべ
寺田寅彦に「徒然草の鑑賞」。
それは11頁ほどの文でした。

はじまりは
「中学校の五年で『徒然草』を教わった後に
高等学校でもう一度同じものを繰り返し教わったので
比較的によく頭に沁み込んでいると見える。
その後ほとんどこの本を読み返したような
記憶がなく、昔読んだ本もとうの昔に
郷里の家のどこかに仕舞い込まれたきり見たことがない。」

というもの、この文では
徒然草の第何段という指摘が続くので
これを道案内にして、指摘される箇所を読んでみたと思わせる。
そして、それを読むのは今(笑)。

そういえば、
寺田寅彦全集(1997年発行・第Ⅰ期全17巻)の
第七巻に「徒然草の鑑賞」が載っておりました。
この第七巻の巻末解説を加藤秀俊氏が書いておりました。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

仁和寺にある法師、年よる。

2017-02-08 | 地域
「仁和寺にある法師、年よる」
と題して、文を書いてみたいと思った。

この法師は、何歳だったのだろう。
私は、昭和29年3月生まれ。
もう、60歳を過ぎました(笑)。

また、徒然草を読もうと思い。
まだ、徒然草を読まずにいる。
書かないと、読みすすめられず、
漠然と頭の中で飛散してゆくみたいです。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

武蔵野インディアン

2017-02-08 | 書評欄拝見
産経新聞2月8日の文化欄に
「追悼三浦朱門さん」として
菅野昭正氏が文を寄せておられました。

そのなかに
「武蔵野インディアン」を

「戦争中に中学時代を過ごした仲間たちが、
どんなふうに戦後を行きぬいてきたか、
さまざまな人生を活写した小説・・」

とあり、興味を惹く、
いつか、機会があればめくってみたい。

同日の曽野綾子氏の連載
「透明な歳月の光」は
題して「夫の旅立ち」
「何もかも平穏な冬の朝」。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする