和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

心たのしまず。 

2023-08-10 | 重ね読み
「週刊朝日」が廃刊されて、近頃とんと買ったこともなかった癖して、
何となくもやもやしたものが残っておりました。
そういえば、「文芸春秋」も、もう買う気にならなかったなあ。

そんなことを思っていて手にした古本。編(あむ)書房(2008年)の
櫻井秀勲著「戦後名編集者列伝 売れる本づくりを実践した鬼才たち」
が安かったので購入。目次をみると30回までありました。
その第一回は「『文芸春秋』の体質をつくった池島新平」。
そのはじまり。

「私たちが今日、すばらしい書籍や雑誌を読むことができるのは、
 ともすれば忘れがちになるが、最初に井戸を掘った卓越した編集者が
 いたからである。

 出版社には『新しいビルを新築したところほど危ない』
 というジンクスが囁かれてきた。・・・・
 これにはいくつかの理由が考えられる。

 その第一は経営者が社業の安定と防御を考えて、
 ビル賃貸業をはじめるため、社員の間に安心感が生まれてしまうこと、

 第二は居心地のいい職場に座ると、取材力がてきめんに落ちること、

 第三に高層ビルの上から下を眺めるうちに、庶民感覚を忘れ、  
 マスコミが偉いと錯覚してしまうことのようだ。

 かつて平凡出版を創業した岩堀喜之助(いわほりきのすけ)は、
 右腕の天才編集者清水達夫がマガジンハウスに改名発展させ、
 銀座に巨大な社屋をつくる計画を聞いて心たのしまず。
 自分自身は会長にもかかわらず、
 銀座東急ホテルの狭い一室に秘書と二人で事務所をつくった。

 岩堀は当時祥伝社の『微笑』編集長だった私が遊びに行くと、

 『 櫻井君、編集者はでっかいビルの上から読者を見下ろしてはいかん。
   きみのところはそういうことをしてはいけない 』

  声音は優しいが、いうことはきびしかった。
  岩堀が逝って一年後に現在の社屋が成ったが、
  今日のマガジンハウスの苦境を見透していたといえそうだ。

  このケースと似た状況を辿ってきたのが文芸春秋だ、
  といったら酷だろうか?・・・・         」

はい。こうしてはじまる30回なのでした。
はい。第7回に「・・『週刊朝日』扇谷正造」がありました。
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心を師とする事なかれ。

2023-08-08 | 思いつき
中田喜直が、サンケイ新聞のインタビューに答えていて
印象深い箇所がありました。

「『 子供の歌を作るとき、どんな考えで作られますか? 』
  と中田はよく聞かれた。そんなとき、中田は必ず

 『 子供のことを考えないで作ります 』と答えていた。

 要するに
 『 子供や大衆に媚びたら駄目で、他人のことはあまり考えず、
   自分の考えを率直に表現することが一番大切 』だということだ。  
   ・・・・・

  伴奏についても、中田は、
 『 私は童謡を沢山作っているが、
   メロディーよりも伴奏のほうに力を入れ、
   時間をかけて作ることが多い。
 
   子供にはどうせ分からないから簡単にして、
   幼稚園の先生でも弾けるようにやさしく、
   などと考えたことはない。

   いつも、その詩に一番ふさわしい音楽
   であることだけを考えて作曲してきた 』  」

 ( p115~116 牛山剛著「夏がくれば思い出す 評伝中田喜直」新潮社 )


はい。この箇所が印象に残ります「こども・こころ」と連想。そういえば、
『 心を師とする事なかれ 』という言葉を、誰かがどこかで引用してた。

検索すると
鴨長明の『発心集』にあるらしい。
鴨長明といえば『方丈記』しか思い浮かばない私ですが、まずは、
新潮日本古典集成の『方丈記 発心集』をひらいてみることに。

発心集の序の、まずはじまりに、その言葉が置かれていました。

「 仏の教へ給へる事あり。
 『 心の師とは成るとも、心を師とする事なかれ 』と。
  ・・・・    」

はい。この新潮日本古典集成は、現代語訳はないのですが、
本文の上に、注釈が詳しいので、さっそくはじまりの注釈を見る。

「『涅槃経(ねはんぎょう)』二十などの経論に
  同趣旨の一節が多く見えるが、直接には

 『 もし惑ひ、心を覆ひて、通・別の対治を修せんと
   欲せしめずは、すべからくその意を知りて、
   常に心の師となるべし。心を師とせざれ 』
      ( 「往生要集」中・大文五 )による。   」


うん。『心の師となるべし』。
そのためには、発心集とか、往生要集をひらかなきゃいけないと
そう思ったわけです。
すくなくとも、私にはチンプンカンプンの、この発心集ですので、
現代語訳付きの文庫をさっそく注文することにしました。

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『百億年』が似合う人。

2023-08-07 | 詩歌
お盆が近い、夏の昼下がり。何だかウツラウツラしていると、
『 オイ! 』と高橋新吉の声がする。

ということで、高橋新吉の詩を二篇。

    白い雲の下に  高橋新吉

   白い雲の下に
   雀が飛んでいる

   オレは百億年を
   ひとりで飛んでいる

   深い雪の中に
   鳩が死んでいる

   オレは一日に
   二千回は死んでいる

   遠い空の奥に
   鳥が遊んでいる

   オレは一瞬に
   どの星にも遊んでいる



    霧雨(きりさめ)  高橋新吉

  霧雨がふっている
  少女時代の
  あなたの頭髪を濡らして

  それが乾かないままに
  あなたは老婆になった

  霧雨はなおも降りつづける
  ・・・・・・


  ( 高橋新吉・詩集「空洞」立春書房・1981年 )   
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注文の多い〇〇料理店。

2023-08-06 | 思いつき
宮澤賢治の『注文の多い料理店』の最後の方でした。

「二人はあんまり心を痛めたために、
 顔がまるでくしゃくしゃの紙屑のようになり、
 お互にその顔を見合せ、ぶるぶるふるえ、声もなく泣きました。」

そして、最後の2行はというと、

「しかし、さっき一ぺん紙くずのようになった二人の顔だけは、東京に帰って
 も、お湯にはいっても、もうもとのとおりになおりませんでした。」

その『注文の多い料理店』の題名から変な連想、

中国版や韓国版の『注文の多い料理店』そのどちらも
丸裸にされてしまいかねない夢から目覚めますように。

まあ、それやこれや、夏は怪談。
小泉八雲の『耳なし芳一』をひらくことに、

「ある夏の夜、和尚は亡くなった檀家の家へ法事に呼ばれた。
 小僧を連れて行ったので寺には芳一がひとり残された。

 暑い夜で盲目の芳一は寝間の前の縁側で涼を取っていた。
 縁側は阿弥陀寺の裏の小さな庭に面していた。

 そこで芳一は和尚の帰りを待ちながら、
 琵琶を弾いて淋しさをまぎらわしていた。

 真夜中も過ぎたが、和尚はまだ戻らない。しかし
 寝間の内にはいるにはまだあまりに暑かったので、
 芳一は外に残っていた。・・・・・        」

  ( p15  講談社学術文庫「小泉八雲名作選集 怪談・奇談」 )


この文庫本には、『夢応(むおう)の鯉魚(りぎょ)』という
話しも載っておりました。

それは、近江の国の三井寺の僧・興義の話でした。

「ある年の夏、興義(こうぎ)は病の床に臥した。
 七日間病み、もはやものを言うことも、からだを動かすこともなく
 なってしまったので死んだようにみえた。

 ところが葬式をすませたあと、弟子たちは遺体に温もりのある
 ことを発見し、しばらく埋葬を延期して亡骸とおぼしきものの
 そばで見守ることにした。その日の午後、興義は突然蘇生した。」(p207)

はい。死んだように見えた間、
興義は、魚になって泳いでいたというのでした。
そして、旧友の文四の釣針につかまってしまったのだというのです。

「 ・・・『 たとえ文四につかまっても、
  よもや危害を加えることはあるまい。旧友だもの 』・・ 」

そして魚になっていた興義は、飢えから餌にくらいついたのでした。

「わたしは、がぶりとまるごと飲みこんだ。その途端、
 文四は糸をたぐり、わたしを捕えた。わたしは叫んだ。
 『 何をする、痛いじゃないか 』

 けれども彼はわたしの声が聞こえないように、
 素早くわたしの顎に縄を通した。それから、
 わたしを籠(びく)に投げこみ、君の館へ運んでいった。

 館で籠が開けられたとき、君と十郎が南向きの部屋で碁を打ち、
 掃守が桃を食べながら見物しているのが見えたというわけだ。

 君たち三人は、すぐに縁側に出てきてわたしをのぞきこんだ。
 そうしてこんな大きな魚は見たことがないと喜んだ。

 わたしは、あらんかぎりの大声で君たちに向かって叫んだ、
『わたしは魚じゃない、興義だ、僧の興義だ。お願いだから寺に返してくれ』

 その瞬間、刃ものが自分を切り裂くのを感じた――ひどい痛みだった!
 ――そのとき、突然わたしは目ざめ、気がつくとこの寺にいた・・・・ 」



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『画家たちの夏』

2023-08-05 | 絵・言葉
大矢鞆音(ともね)著「画家たちの夏」講談社・2001年。
題名に惹れ、古本で安く買ってありました。
著者のサイン入りだった。装幀・安野光雅。

序章が「それぞれの夏」。
五章まで、各章一人、五人の画家がとりあげられております。

まずは、序章の最後の箇所を引用。

「戦後、多くの画家たちは生活の苦しさを抱えながらも、
 ともかく平和のなかで再び絵が描ける喜びを自分のものにしていた。
 絵を描くことがひたすら好きだった画家たちである。・・・・

 美術の秋ということばをよく耳にするが、
 画家たちにとっての戦いは、夏である。

 彼等は季節の夏を、人生の夏を、どのように生き、
 どのように描き、どのようにして死を受け入れたか。・・・ 」(p16)



第二章「大矢黄鶴 父との夏」は、鞆音氏の父親でした。
うん。この箇所を引用しておきたくなります。

「8月も終わりになるころ、いよいよ搬入の日が近づいてくる。
 作品のでき具合がよくても、悪くても、
 その〆切日には提出しなければならない。

 作品の完成というのは結局のところ、〆切日が完成の日ということになる。
 そのでき具合が自分の想いのなかばであっても、完成となる。

 結局のところ絵描きにとって完成などない、
 というのが父の仕事を見つづけての私の感想である。

 ・・・毎年毎年の夏の日々は私にとっても、じつに楽しかった。
 その作品がどう評価されようが、確実に父の戦いとして結果が残る。

 そしてその苦闘のさまが手にとるようにわかっていれば、
 他人の評価などどうでもよいではないか、という想いでいっぱいになる。

 『今年も終わった』『夏の陣は想いなかばで終わった』
 というのが父の気持だったろうと思う。
 『あとは搬入するだけ』『その後は他人さまが決めることだ』
 というのがいつわらざるところだったろう。

 そこには炎暑の夏を戦った、というさわやかさがあふれていたように思う。

 どんな苦しい時も、秋の出品制作を一回も休んだことがなかった父。
 これが毎年の年中行事と受けとめていた我々兄弟の夏の日々の過ごし方は、

 この父の出品制作を中心に組まれており、
 普通の子供たちが、海水浴に行ったり、山登りに行ったり、
 という話を聞いても、遠い世界の話として聞き流すことができた。

 一生懸命に描きつづける父の姿、生き方が、
 七人の子供たちへの教えとなっていたはずである。・・・」(p81~82)


ちなみに、
大矢黄鶴(おおや・こうかく)明治44年新潟県三島郡与板町生れ。
              昭和41年脳出血のため死去。(1911~1966)
大矢鞆音(おおや・ともね)は、1938年東京生れ。



 
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明治37年夏の手紙。

2023-08-04 | 手紙
何年前からか『 夏 』が気になりました。
おそらく、「漱石の夏休み」ぐらいからか。
少しずつ、お気入りの夏を貯め込むように。

はい。今日は青木繁。
明治37年8月22日の青木繁の手紙。
そのはじまりを引用。

「 其後ハ御無沙汰失礼候
  モー此處に来て一ヶ月余りになる、
  この残暑に健康はどうか?

  僕は海水浴で黒んぼーだよ、
  定めて君は知って居られるであろうが、
  ここは萬葉にある『女良』だ、
  すく近所に安房神社といふがある・・・・

  漁場として有名な荒っぽい處だ、
  冬になると四十里も五十里も黒潮の流れを
  切って二月も沖に暮らして漁するそうだよ、

  西の方の浜伝ひの隣りに相の浜といふ處がある、
  詩的な名でないか、其次ハ平砂浦(ヘイザウラ)
  其次ハ伊藤のハナ、其次ハ洲の崎でここは
  相州の三浦半島と遥かに対して東京湾の口を扼し 」

 この手紙には絵も描かれているのでした。

「 上図はアイドといふ處で直ぐ近所だ、
  好い處で僕等の海水浴場だよ、
  上図が平砂浦、先きに見ゆるのが洲の崎だ、富士も見ゆる 」

 手紙のなかに童謡として引用されてる箇所がありました。

「  ひまにや来て見よ、
   平砂の浦わァ――

   西は洲の崎、
   東は布良アよ、
   沖を流るる
   黒瀬川ァ――
   
    ・・・・・    」


うん。手紙はまだ魚の名前をつらねたりして、まだまだ続きます。
手紙の最後からも引用しておかなければね。

「 今は少々製作中だ、大きい、モデルを澤山つかって居る、
  いづれ東京に帰へってから御覧に入れる迄は黙して居よう。 」


 ( 青木繁著「假象の創造」中央公論美術出版・昭和58年 )

 
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題名は、『題名のない音楽会』。

2023-08-03 | 思いつき
忘れそうなんだけど、ここは、忘れたくはない箇所。

牛山剛著「夏がくれば思い出す 評伝中田喜直」(新潮社・2009年)。

この本の最後の方にありました。
中田喜直と倉本裕基の二人を語った箇所でした。

「この二人に、音楽以外で共通していたのは、
 ダジャレが大好きだったことである。

 中田に言わせると『 ダジャレの出ない作曲家はダメ 』。
 頭が柔らかくて、ユーモアがあって、音や言葉など
 すべてに敏感でないと、いい音楽が作れないということだろう。

 その点、『倉本さんのダジャレは高尚で素晴らしい』と幸子は言う。」
                      ( p257~258 )

うん。すぐに思い浮かんだのは、
この本の著者牛山剛氏の経歴でした。
『 テレビ朝日の音楽プロデューサーとして
  【 題名のない音楽会 】などを制作 』とあります。

はい。【題名のない音楽会】という題名をつけるセンス。
これ【高尚なダジャレ】と言わなくてなんとしましょう。

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校門を出ても。

2023-08-02 | 地域
中田喜直へのクエスチョン。

『子供の歌を作るとき、どんな考えで作られますか?』
と中田はよく聞かされた。
そんなとき、中田は必ず
『 子供のことを考えないで作ります 』と答えていた。
要するに
『 子供や大衆に媚びたら駄目で、
  他人のことはあまり考えず、
  自分の考えを率直に表現するのが一番大切 』だということだ。

伴奏についても、中田は、
『 私は童謡を沢山作っているが、
  メロディーより伴奏のほうに力を入れ、
  時間をかけて作ることが多い。

  幼稚園の先生でも弾けるようにやさしく、
  などと考えたことはない。いつもその詩に一番ふさわしい
  音楽であることだけを考えて作曲してきた 』
 
  ・・・・・・・・

『 小学校の音楽教科書のために、拍子、調、音域など、
  子供にも先生にもやさしくという、いろいろな配慮、
  制限などがつけられて作られた曲がある。

  私も何曲か頼まれて作曲したが、
  このような作品の中では、いい曲がほとんどない。

  子供が歌いやすく、分かりやすいように、という親切心があっても、
  作曲家の心を縛ってしまうから駄目なのである』

これも中田の言葉だが、実に的を射た指摘である。
逆に言えば、子どもに媚びない名詩を得て、
自分の考えだけを大事にして作曲する作曲家には、
教科書に出番はあまりないことになる。・・・・  」

( p115~117  牛山剛著「夏がくれば思い出す」新潮社 )

( 『 』内の中田氏の言葉は、
  サンケイ新聞昭和57年5月31日付「五線譜にのせて」より )


はい。牛山剛著「夏がくれば思い出す 評伝中田喜直」。
この本は、あれこれと、あとになって思い出しそうな箇所が
あるのでした。はい。今年の夏の収穫。

この文のなかほどにも、
『 ほんとうに魅力ある歌だったら、
  子どもたちは校門を出ても喜んで唱うだろう。 』(p117)

という箇所がありました。はい。
70歳でも。80歳でも。90歳でも。
100歳でも『喜んで唱うだろう』。

昨日のコメントを頂戴し、そんなことが、思い浮かびました。
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中田喜直の「夏の思い出」

2023-08-01 | 本棚並べ
牛山剛著「 夏がくれば思い出す 評伝中田喜直 」(新潮社・2009年)。
はい。古本で購入しました。
著者の牛山剛氏は、1931年生れ。
「テレビ朝日の音楽プロデューサーとして『題名のない音楽会』などを制作」。
本の「おわりに」で牛山氏はこう書いております。

「先生が亡くなられて、私はすぐにふたつのことが頭に浮かんだ。
 ひとつは、
 先生の作品を唱う音楽会を、できたら毎年開催したいという思いである。
 もうひとつは、
 先生の人と音楽を紹介する本が、きっとそのうち出版されるだろう、
 それへの期待であった。

 前者は、夫人の幸子さんと相談して、翌年から
 『 水芭蕉忌コンサート 』として実現させることができた。
 しかし、私が期待した本は・・出なかった。・・7年の月日が
 過ぎ去ってしまったとき、もしかしたら私が書かなければならない
 のだろうか、と思った。・・・    」(p267~268)

はい。充実した内容の評伝となっております。読めてよかった。

「完成した≪ 夏の思い出 ≫はシャンソン歌手の石井好子によって歌われ、
 昭和24年6月12日から一週間放送された。中田音楽の真骨頂ともいえる
 リリックで優しいメロディは、たちまち人々の心をとらえ、
 日本人の愛唱歌として口ずさまれるようになってゆく。・・・・

 石井好子は、これを唄った頃を思い出して綴っている。

 『戦争があり敗戦を迎え皆貧しく不幸だった頃、
  ≪ NHKラジオ歌謡 ≫で歌うことになった。

  中田喜直作曲・江間章子作詞の≪夏の思い出≫。
  喜直さんが推薦して下さったと聞いて有り難く、嬉しかった。

  私はその頃クラシックからはなれ、ジャズやシャンソンを
  歌い始めたものの手探り状態で、いったい自分が何を歌って
  ゆくべきか分からず悩んでいた。・・・・

  ある夕方、私は自宅の近くを歩いていた。
  ラジオから≪ 夏の思い出 ≫の歌声が聞こえた。
  私は立ちどまり、垣根越しに家の中から流れてくる
  自分の声に耳を澄ました。

  辛かったあの頃、絶望的でもあったあの頃、
  ≪ 夏の思い出 ≫を聞きながら ・・・・
  かすかな希望を持った事が忘れられない 』
       (「第六回水芭蕉忌コンサート」プログラムより)」(p99)


「この≪ 夏の思い出 ≫を合唱曲に、あるいはオーケストラ演奏に
 編曲した音楽家は多い。作曲家の若松正司(まさし)もそのひとりである。」

「 若松はこう語っている。
 『喜直先生の一周忌のパーティの最後に、
  全員がその場に立って≪ 夏の思い出 ≫を唱いました。

  歌手たちが目を真っ赤にして唱っているのを見て、
  皆同じ思いなのだと思いました。私は・・・移動して顔をかくして
  いましたが、涙が止まりませんでした。

  ≪ ちいさい秋みつけた ≫は短調なので、確かに音楽的に
   しみじみとなりますが、実はそれ以上に、明るい曲調の
  ≪ 夏の思い出 ≫が私の心を揺さぶりました。

  江間章子作詞の≪ 思い出す ≫という言葉のところで、
  帰らぬ人となられた喜直先生が今いらっしゃるのは、
  ≪ 遥かな ≫≪ 遠い空 ≫のようにも思えたりします。

  あのメロディの美しさは、すこしも深刻ぶらなかった喜直先生そのままの、
  飾りはすべて削ぎとられている淡々とした美しさだと思います。 』 」
                    ( p99~101 )

本文は、序章の次に、第一章~第十一章、さらに最終章まで、
各章ごと原石をカットしてゆくような輝きを私は感じました。
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