和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

門松とツリー。

2023-12-14 | 前書・後書。
ネット「日本の古本屋」で名前検索をしていると、
解説だけの本までも、検索にひっかかってくれて、
はじめて知る人の本の検索に私にはとても有難い。

たとえば、『 吉田光邦 』の名で検索すると、
中央公論刊「日本絵巻大成」の第8巻「年中行事絵巻」がひっかかる。
その最後の解説を吉田光邦氏が書いているとわかる。とっても有難い。

日本絵巻大成全20巻には、巻末解説をいろいろな方が書かれているけど、
吉田光邦氏が書いているのは、この第8巻のみ。この機会にさっそく読む
(のちに絵巻大成は、続編も追加されているようです)。

それはそうと、「日本絵巻大成」には、毎回の月報を宮本常一が書いており、
月報をまとめ、「絵巻物に見る日本庶民生活誌」(中公新書)として出てる。
中公新書のは、以前にたのしく拝見したことがありました。

はい。日本絵巻大成第8巻の月報から、今回は引用してみることに。

「・・・町家の前に門松が立てられている。・・・
 興を覚えるのは、宮廷や貴族の門の前には立てられていない。

 これは、民衆の間にのみ見られる習俗だったのだろうか。

 門松は正月の神を迎えるための木ということになっており、
 この絵巻では松が立てられているが、土地によっては
 ツバキ・サカキ・シイなども用いられている。
 東京都府中市では笹竹のみを立て、松は用いていない。

 門松を立てるのは、日本のみではなく、中国の北部などにも見られ、
 そこではモミを立てているようであり、中尾佐助氏の『秘境ブータン』
 によると、ブータンでも門松を立てている。
 ただし、これは二本ではなく数が多いようである。

 日本では、門松のほかに、家の中に拝み松というのを立てるところが多い。
 東北などでは広く、これを見ることができるが、もとは奈良・京都付近の
 農家でもみなこれを立て、その松を拝み、その前で正月の酒を汲み交わした。

 そうすると、キリスト教におけるクリスマスツリーとたいへん近いものになる。
 これはモミ・ツガを主とするが、北欧の古い農耕儀式がキリスト教に結びついた
 ものと故渋沢敬三先生は言っている。

 これは優れた指摘であり、正月に松を立てることは、
 どうやら広く世界各地に見られた習俗のようである。 」

 ( 「日本絵巻大成」第11回配本・第8巻 月報11の、p1 )
 ( 「絵巻物に見る日本庶民生活誌」中公新書では、p214∼217 )
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新鮮な時間を読む。

2023-12-12 | 重ね読み
吉田光邦の「茶の湯十二章」(「吉田光邦評論集Ⅱ」思文閣出版)に
お正月の茶の湯について言及されている箇所がありました(p140)。

すっかり忘れていたのですが、その関連で思い浮かんだのは
当ブログの2022年1月22日「福汲む、水汲む、宝汲む」でした。

ということで、吉田光邦の「茶の湯十二章」と
「岡野弘彦インタビュー集」(本阿弥書店・2020年)。

ここは、神主を継ぐ家に生まれた、岡野弘彦氏の語りから。

岡野】 小学校で僕はわりあい歌と縁ができるようになりましてね。
   お正月は、子どもなりにきちんと着物を着せられて、
   白木の桶に若水を汲みに行くんです。

 『 今朝汲む水は福汲む、水汲む、宝汲む。命長くの水を汲むかな 』

   と三遍唱えて、切麻(きりぬさ)と御饌米(おせんまい)を
   川の神様に撒いて、白木の新しい桶でスゥーッと
   上流に向かって水を汲むわけです。

   うちへ帰ってきて、それを母親に渡すと、
   母親はすぐに茶釜でお湯を沸かして福茶にする。

   残りは硯で、書き初めの水にしたりするわけです。
   それを五つのときからさせられました。・・・   」(p20)


はい。それでは、吉田光邦氏の「茶の湯十二章」から
正月と出てくる箇所。

「そして正月は、古代的な日本の神々がいっせいに、
 わたしどもの回りに復活する季節である。

 ちかごろ都会ではあまり見られなくなったが、
 門松、しめ縄などの飾りは、どれも農耕民族として生きてきた
 日本人のなかに、しぜんに存在することになった古代の神々の
 シンボルにほかならぬ。

 一年のはじめに神々をよびむかえ、神秘の空気をつくりだすことは、
 生活のたいせつなデザインだったのである。

 そこで礼式、生活のデザインとしての茶の湯も敏感に、そうした
 正月の神秘の空気を反映する。神々をむかえる礼式が演出される。

 若水を汲んで茶を点てることは、永遠の若さを求め、
 復活の願いをこめる礼である。・・・・・・    」(p140)

「 やがて新年の茶会、初釜の日がくる。新しい一年に
  ふみだす新鮮な時間を自分のうちに自覚せねばならぬ日だ。 」(p141)


はい。2022年には、岡野弘彦氏の語りを読めた。
2023年の暮れには、吉田光邦氏の文を読んでる。
コメント (2)
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ふたたび席に戻る。

2023-12-11 | 短文紹介
吉田光邦氏に「茶の湯十二章」というのがありました。
なんでも、『家庭画報』の1969年1~12月号に連載されたもの。

ここには、12月の箇所を引用。

「12月の茶といえば夜咄。
 冬至の前後のころの昼の陽ざしはみじかく、夜はいやが上にもながい。
 そうした夜に同心のわずかな人数でひっそりと集まる会。それは
 あわただしい歳末のなかで1年をしみじみと思いかえす集まりなのだ。

 寒い夜、おぼろな光、そのなかでしずかに進行する茶事。
 すべては寒さを忘れるようなあたたかい空気への配慮にみたされて、
 集まる人びとはそこに亭主の心づくしを思うのである。

 直弼はまたいっている。
 『 此道の教は初門の時より、喫茶を以て楽しましめ、
   きわめて心地朗なる所を楽しむ、高きも卑きも富めるも貧しきも、
   浅きも深きも楽しむの外事なし 』と。

  彼にとっては茶は楽しむものであり、
  その楽しみは自分の現在のあり方をはっきりと
  見定めることによって生まれてくるものであった。

  ・・・そして人びとの交流の媒介となるものが、
  茶の味であり、懐石の味わいなのであった。
  だがその交流は同時に自分のあり方の自覚でなければならなかった。

  ・・・茶会は終り客は主の見送るなかを立ち去ってゆく。
  そして主人はしずかにふたたび席に戻る。

 『 今日一期一会済みて、ふたたび返らざる事を観念し、
   或は独服をもいたす事、是一会極意の習なり。此時寂莫として
   打語らふものとては釜一口のみにして外に物なし 』

   そうして人生の瞬間は、人びとの心のなかに
   あるしるしをつけながら消えてゆくのである。  」

    ( p168~169 吉田光邦評論集Ⅱ「文化の手法」思文閣出版 )


はい。次回は、お正月の茶の湯の箇所です。
 
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知的生産のための『技術』

2023-12-10 | 重ね読み
そういえば、津野海太郎著「おかしな時代」(本の雑誌社)を
ひらくと、劇団と津野さんとの関連がわかる。そして、
劇団ということなら、吉田光邦氏とつながる。

うん。この点が面白そうなので引用を重ねます。

西村恭一氏の吉田光邦氏への追悼文に、
演劇にかかわる吉田氏のことがわかるのでした。

「吉田(光邦)先生が当時龍谷大学予科の教授で、演劇部の顧問で・」
          (p55 「吉田光邦両洋の人 八十八人の追想文集」)

そのころは、どんな感じだったのか。こばやしひろし氏は書いてます。

「『詩の朗読と劇の会』は図書館の講堂でやった。・・・
  光邦さんも誰の詩だったか忘れたが朗読された。

  それが下手なのである。実に下手な朗読で何をいって
  おられるのか伝わらないのだ。ところが本人は気を入れて
  おられるつもりだから始末に悪い。・・・・
  残念ながら当日まで下手だった。少なくとも
  リズム感のある人ではなかった。

  舞台に立たれたのはそれだけで後は役者をやるわけでもなし、
  演出をやるわけでもない。ただ私たちの稽古を見ておられるだけである。
  こちらが行き詰まると『こうしたらどう』と助けを出されるが、
  それが助けにならない程度のご意見である。

  それでも大道具を手伝ったり、効果を手伝ったりされ、
  私たちと舞台を創ることを楽しんでおられた。・・ 」(p48 同上 )


はい。ここからが本題「知的生産のための『技術』」となります。
梅棹忠夫著「知的生産の技術」は、イマイチ『技術』という箇所が
わからないでいた私なのでした。

梅棹忠夫著「対論『人間探求』」(講談社・昭和62年)のなかに
吉田光邦氏との対談「産業技術史の文明論的展開」が載ってます。

はい。最後にこの対談から、この箇所を引用しておきます。
小見出しには「技術にささえられた大衆社会」とある。

吉田】 これまで財界人ばかりせめましたが、このことは
    日本人に共通のことのようにおもいます。

    日本の社会が大衆社会だといわれていますが、
    大衆社会が成立しているのは技術があるからこそなんです。

    大衆にマイクとスピーカーでよびかける
    技術がなかったらできないわけです。そういう
    おおくのマスコミュニケーションというものが動く。

    つまりそれまではロンドンのハイドパークで自分の
    のどをふりしぼって政治演説してるマスと、
    現在のマイクやスピーカーをつかてやるマスとでは、
    到達するレベルがちがうでしょう。いわば大衆社会を
    つくりあげるひじょうに大きな役割をもつわけです。

    もちろんテレビ、ラジオ、新聞、印刷、ぜんぶ技術があるから、
    大衆社会ができてきた。だから大衆社会というのは、
    社会学的現象ではあるが、同時にそれは
    技術にささえられてうまれた現象なんでしょう。

    ところが、案外そこがスポッとおちてるんです。
    大衆社会論は山ほどあるけれども、
    それは技術でできあがっているという認識がない。 (p117~118)


このあとでした。演劇の場面からの例を吉田光邦氏は語り
なんともわかりやすかったのです。


吉田】 ほんとにふしぎなんですよ。たとえば伝統芸能といわれる
    能・歌舞伎だって、今日はぜんぜんちがうんです。

    現在の坂東玉三郎や片岡孝夫の人気は、
    あたらしい照明とあたらしい舞台機構にささえられているんです。
    江戸時代の歌舞伎では、百目ろうそくをならべて、  
    その突きだしたろうそくの光で顔を照らしていたわけです。
    ・・・・・

  いま大劇場のうえにいくと、ものすごいスイッチ・ボードがあるんです。
  そのスイッチ・ボードに専門の技術者がいてやるから、
  玉三郎も映えるわけです。その事実が完璧におちている。

  そういう認識が完全におちて、そして歌舞伎は歌舞伎、
  能は能で、これこそ伝統芸能だということでやってるわけでしょう。
  それがおかしいんです。

梅棹】 それが中世から現代までおなじものとしてかんがえとるから、
    ほんとうにおかしい。たしかに、ある種の伝承があって
    おなじ部分がある。それはあるんです。

    しかし、それをささえてる条件というのが、
    過去と現在とではすっかりかわってる。

吉田】 逆にいえば、そういう条件があるからこそいけるんですよ。
    京都の南座でも2400人はいるわけでしょう。
    それがはいるから、歌舞伎興行が成立するんです。

    むかしの二、三百人ではいまの歌舞伎は成立しないんです。(~p119)


はい。対談はこのあとが佳境にはいるのですが、ここまで(笑)。


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現代の職人気質?

2023-12-09 | 短文紹介
「吉田光邦 両洋の人 88人の追想文集」(思文閣出版・1993年)。
最後の方に略年譜があります。1921年(大正10)~1991年(平成3)。
愛知県西春日井郡に出生。とあります。

さてっと、ここで吉田光邦著「日本の職人像」のおさらい。
まず、どうして私がこの本をひらいたのかというと、
臼井史朗氏のこの言葉でした。

「吉田光邦氏『日本の職人像』は非常に面白い力作だと思った。
 平安から現代まで・・・それぞれの職人気質を・・
 面白く系統的に書いている。名著だと思った。 」
        ( p87 「疾風時代の編集者日記」淡交社 )

うん。その面白さを説明するのに、この一冊からだけじゃ私の手に負えない。
田中一光氏の追想文に、その秘密の一端が披露されていました。
ちょっと長いのですが、的を射た場面を回想されています。

「昭和43年だったか、大阪万博の政府館の歴史パビリオンの
 デザイナーに指名されることになり、作家の今日出海先生を中心に、
 毎月展示物の会議が繰返された。その都度、

 専門の歴史学者がアドバイザーとして出席されるのだが、
 研究分野の領域が狭く、とても縄文、弥生から、明治維新まで、
 通観して教えて貰える学者が見当たらず、締め切りを間近に
 展示計画書を出せずに途方に暮れていた。

 私は思い切って京都に行くことにした。
 これは吉田(光邦)先生をおいて他にないと思ったからである。

 その時の吉田先生の見解は見事なものであった。
 私の頭の中にもやもやしていた日本史が一条の光のように繋がって
 見えてきた。これほど嬉しく、また興奮したことはない。 」
     ( p52 「吉田光邦 両様の人 八十八人の追想文集」 )


さてっと、ここからおもむろに『日本の職人像』の最後を引用して
おわることに。そこでは『現代の職人』を定義して終わるのでした。
そのすこし前から引用。

「かつての職人はその全生産大系を自分で管理していた。・・・
 しかし現代の量産機構のなかに生きる人びとはそうはゆかない。」(p207)

このような観点から説き起こして、この本の最後に至ります。
はい。その最後を引用。

「そこで今も仕事に情熱的であり忠誠を傾けるのは芸術家だとか、
 プロ野球の選手だとか、学者たち、研究者たち、文筆家たちに
 多くみられる理由が分るだろう。

 彼らはすべて現代の職人なのだ。自分の手で仕事をし、
 誰にも助けられず個人の才能だけで勝負しなければならぬ。
 個性のみで勝負しなければならぬ。そしてその結果がどんな
 意味を社会に対してもつかを、彼らはほぼ予測することができる。

 こうみればこの人びとにこそかつての職人気質に似たものが
 よく残っていることも当然となろう。

 仕事を第一に考え、ほんものを何よりも重んじにせものをきらい、
 気に入れば懸命に仕事をするが、気に入らねばなげやりとなる。

 いささか狭量で広い世間についてよく知らぬし、またあまり気にもせぬ
 ――こうした特徴はまことによくかつての職人たちにあてはまるではないか。

 それも結局は孤独にひとりで仕事をつくりあげて
 ゆかねばならぬ上から生じた結果である。
 職人はどこまでも個人であった。
 職人気質とは仕事の上の個性の主張ということであった。

 ただその主張が消費者に対する奉仕の精神をもって
 包まれねばならぬところに、職人の運命的な寂しさがあったのである。」
      ( p209 吉田光邦著「日本の職人像」河原書店・昭和41年 )


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長くつづけること。

2023-12-08 | 好き嫌い
吉田光邦著「日本の職人像」(河原書店)をパラパラですが、
最後まで読めた。これはブログ書き込みが弾みになりました。

途中メモ書きして読みすすむように、ブログで更新して読む。
これが自分に合っているように思えてくるから、不思議です。

さて、本の最後の方に小林作太郎を紹介されておりました。

「この職人ー職工の過渡期に生きた人の一例として
 小林作太郎をあげることができよう。
 彼は明治2年、長崎に生まれたが生まれながらの
 機械好き、細工好きであった。
 11歳の時、そのころはまだ珍しいものとされていた
 柱時計を分解し、またこれを組立てることに成功した。
 この注意深さと器用さは、作太郎の全くの天性であった。
 そしてやがて人びとから時計修理を依頼されて
 一人前の時計工となってしまった。・・・・ 」(p193)

こうはじまる経歴は、ついつい引用したくなりますが、
ここは、飛ばして

「彼は明治37年、アメリカに赴いて海外での工場の実態にふれた。」(p196)

そこからの比較に、ちょいと面白い箇所がありました。

「また日本の職工はひとつの仕事を長くつづけることを嫌う。
 持続した仕事にむかず、すぐ何か新奇の仕事を希望する。
 この連続して同じ仕事ができぬことは日本職工の大欠点だ。

 さらに日本の職工は器用すぎる。
 ひとつの技術をマスターすると、
 すぐ自分の家の床板などをはがし、
 そこに簡単なエンジンなどをすえつけて、小工場を発足させる。
 そして立派な工場製品とさして大差ないものをうまく作ってしまう。
 もちろん工場製品よりずっと安い。・・・・・

 彼はまた一方では学歴あるものの欠点をも注意する。・・ 」(p197)


はい。この箇所を読んだら、笑ってしまいました。
当然のように自分は不器用で職工にもなれない者なのですが、

『 持続した仕事にむかず、すぐ何か新奇の仕事を希望する。 』
この指摘は、何だか自分のことを指摘されているようで困惑しちゃいます。

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長谷川伸の職人像。

2023-12-07 | 本棚並べ
吉田光邦著「日本の職人像」(河原書店・1966年)。
ここに、長谷川伸が登場するのでした。以下引用。

「明治の渡り職人のいく人かについて長谷川伸が書いている。」(p178)

うん。ちょいと飛ばして、この箇所

「土師清二が小説に書いた釣竿作りの名人、竿忠の言葉を
 長谷川はひいている。ある日彼は家人にいった。

『 金をためるな、金をためる気になると、
  金のために竿をこしらえるようになるから、いけねえんだ 』

別の日、また竿忠はいった。

『 金を要意しろ、金を。病人が出た怪我をしたと、
  そのたびごとに他人さまに厄介かけちゃいけねえ  』

これは名言だ。金の重要さと恐ろしさを
最もよく表現したことばである。

一介の職人がもっていたこの金銭観、これが名工、
名職人といわれる者の真実の姿であり、真実の声だった。

金の走狗となって働いてはいい仕事はできない。
と同時にその金の必要な意味もよくわきまえて、金を軽んじてはならない。」
                          (p180~181)

そのすこし前に、渡り職人から派生した
あまりに多い『名人気質の誤解』を指摘してもおります。

「『 汚ない姿をしてすばらしい仕事をやってみせ、
   憎まれ口を叩いて、とびぬけたいい仕事をしてみせるというのは、
   好くない意味でいう名人気質 』と長谷川伸も書いているが、
  ・・・・・・・

  職人は奉仕者であり、注文に応じて
  どんな仕事でもやってのけねばならなかった。
  職人は自分の好みを出してはならない。
  注文者の意を十分にくみとり、
  それを十二分に表現するのが真の職人気質なのだ。
  真の名工とはそうした人たちだった。

  この『好くない意味の名人気質』が、真の名人気質と
  誤解されている場合が余りに多いようである。    」(p180)

うん。幸田露伴にしろ、長谷川伸にしろ、
機会があれば読んでみたいと思っていたのですが、
何しろ私は小説は読めないので、お二人の名前だけ
存じ上げてはおりましたが、そこまででした。

この切り口から、あらためて読み始められますように。
そう思うばかり。

ということで、吉田光邦氏が紹介する長谷川伸の
さわりの箇所を最後に引用しときます。

「明治の渡り職人のいく人かについて長谷川伸が書いている。
 長谷川伸はいわゆる股旅物で知られ、名作一本刀土俵入などで有名な作家だ。
 彼の作のなかでは義理、人情に生きる人間がいつも活躍する。
 と同時にその裏にひそむ人間のみにくさ、
 冷たさにも明確な描写を与えたひとである。
 そうした人間性の本質を捕えたからこそ、
 彼の作は単なる大衆小説でないリアルな味をもっていた。

 同時に長谷川伸は明治になお残っていた、江戸的な人間、
 旧時代的な人間の生き方もはっきり肯定した。

 仕事の修行に必死となり、仕事を第一とする職人たちに
 深い共感をもった。彼の書きのこした職人たちのおもかげの・・」(p178)
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落語の主人公

2023-12-05 | 温故知新・在庫本
吉田光邦著「日本の職人像」(河原書店)には、
職人をめぐって、竹取物語・今昔物語・徒然草・宇治拾遺物語
古今著聞集・狂言・更級日記などをとりあげてゆきます。

そして江戸時代になると近世畸人伝・耳袋のあとに、
浄瑠璃が登場しておりました。そこを引用しておきます。

「・・庶民芸術といわれる浄瑠璃の主人公はことごとく商人ばかりだった。
 庶民の代表は農でもなく工でもなく商人であった。

 曽根崎心中の徳兵衛は醤油商平野屋の手代、
 五十年忌歌念仏の清十郎は米問屋但馬屋の手代、
 冥途の飛脚の忠兵衛は飛脚問屋亀屋の養子、
 博多小女郎浪枕の小町屋惣七は京の商人、
 心中天網島の治兵衛は紙商、
 女殺油地獄の与兵衛は油屋、
 心中宵庚申の半兵衛、八百屋お七の家はともに八百屋
 という有様であった。・・・・・・

 かの『日本永代蔵』『世間胸算用』『西鶴織留』などの
 町人物を連作した井原西鶴の作品のなかで、
 いきいきと活動するのはこれまた商人ばかりだった。・・ 」(p124)


「・・随筆類に偶然のように現われるもの以外には、
 職人はあまり江戸文芸の立役者となることはできなかった。
 立役者は武士か町人、町人のなかでも商人だった。・・・・

 そして職人は裏長屋に住む人びとであり、
 せいぜい落語の対象、笑の対象としかならなかった。 」(p123~124)


井原西鶴のあとに、吉田光邦氏が登場させるのが明治にはいって、
幸田露伴。つぎに長谷川伸。

うん。幸田露伴は、丁寧に作品を追って紹介してゆき、
長谷川伸は、わかりやすく職人像を浮き彫りにします。
次回は、長谷川伸が語られる箇所から引用してみます。
あれ。次回の予告になっちゃった(笑)。
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海溝と海図。

2023-12-04 | 京都
テレビ天気予報で、日本全図が画面に表示されます。たしか、
東日本大震災の後、その画面に海溝が示されるようになった。
以来、日本の沿岸の海中に、黒い深淵があると毎日実感する。

吉田光邦著「京のちゃあと」(朝日新聞社・昭和51年)の
あとがきは、こうはじまっておりました。

「 チャートとは海図である。海図をご存知だろうか。
  それは陸地については、海上の船から目標になるような
  山、岬、立木などが描かれるにすぎぬ。
  そして等高線は海についてはくわしく描かれ、
  海中の岩、岩礁のたぐいも細密である。

  陸地を精細に描いたマップと海にくわしいチャート、
  その対比はいえばネガとポジの関係にある。

  わたしが描こうとしたのはマップではなかった。

  マップは京都を客観視しうる立場の人びとによって、
  すでにいくらも書かれている。しかし京に住むものならば、
  そのマップと対照的に視えるものがいくつもある。
  そこから描きだしてみたチャート・・・      」(p283)


このあとがきに写真家・遠藤正さんのことが書かれておりました。

「 半年をこえた連載は忙しかったけれども、
  わたしの30年をこえる京での生活をふりかえってみるいい機会であった。
 
  写真の遠藤正さんもずいぶん熱心に、はじめての京都を
  縦横にとらえられた。テーマをめぐってたえず議論を
  遠藤さんとくりかえした。いい思い出である。・・   」(p284)

うん。この『京のちゃあと』はのちに、
朝日選書215の吉田光邦著『京都往来』(1982年)と題名をかえて出版。
朝日選書には、残念ながら遠藤正さんの写真は載っておりませんでした。

はい。私はどちらの本文も読んでおりません。おりませんが、
単行本に載る45枚の遠藤正さんの写真はめくっておりました。
その印象は鮮やかでした。

ここでは一点の写真を紹介。『節分の日の京大前のにぎわい』とあります。
奥に大学の時計台がみえます。時計下に「竹本処分」と少し文字がみえる。
前景は道路に面してテキヤの屋台。たこやき・とうもろこしと横幕がみえ、
瀬戸物屋も出ているようです。学内からは高々と大学のサークルの立看板
「OPEN SKI 場所信州戸狩・・・」「京大スキーフレンズ」などがある。

さて道路の人ごみをけちらすように、学生運動でしょうか、
赤に白い色がまじった旗を掲げ、赤ヘルメット・黒ヘルメットに
タオルで鼻口を隠した学生の一団が通り過ぎてゆく。

まるで、京のにぎわいの中に、僧侶の一団が恣意運動をくりひろげている。
はたまた、武士団が威圧ぎみに通り過ぎてゆく、一瞬覚えるそんな味わい。

はい。吉田光邦の本文は気が向いたらひらくことに。
  

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どこでもあることだ。

2023-12-03 | 重ね読み
吉田光邦著「日本の職人像」(河原書店)をひらいていたら、
「にせもの」への記述があり印象深い。また思い浮かべそうで、
せっかくなので引用しておくことに、

「もっともこれはべつに日本だけではない。どこでもあることだ。
 画家コローの作品と称するものが、コローが一生かかっても
 画ききれぬほど大量に世界にあることは有名なことである。

 こんな話がある。ある画商に客が来た。
 客は壁にかかっているコローの画をほしいという。
 画商はいう。それはにせものです。あまり有名ではないが
 こちらの画はほんもので、絵もなかなかよろしい。
 値段も同じくらいです。客はいった。

 有名でないならいらんよ。わたしほどの身分の家には
 コローぐらい一枚かかっていなくてはね。つまりコローがあることは、
 一種のステータス・シンボルなのだ。世間での地位のシンボルなのである。


 正宗とか左文字とか名刀のにせものもやたらに多い。
 先祖が主君から拝領した由緒のはっきりしたものなのに、
 とふしぎがる人もいる。由緒正しいからにせものなのだ。

 江戸時代、論功行賞の方法に刀をやることが多かった。
 主君が臣下に与えるのに、名も知られていないような刀をやるわけにはゆかぬ。
 それは主君の体面を傷つけることである。
 そこで名刀のにせものがいつも殿様のところにはストックされていたものだ。
 殿様はそれを臣下にやる。臣下もほんものとはもちろん信じていない。
 正宗であるか、吉光であるか、それによってランクがあったのだ。

 今の勲章の勲一等とか勲二等とかいうことと同じだ。
 やはりステータス・シンボルである。
 にせものはこうした機能をもっていたのだ。・・・・

 質より名、しかしちゃんとした機能と意味はあったのである。」(p160~161)

 ここを読んで、そういえばと思い浮かぶ箇所が
臼井史朗著「疾風時代の編集者日記」(淡交社)にありました。
そこに臼井氏に日記に登場する、叙勲と吉田光邦の箇所がある。
紫綬褒章を受章する際のことが書かれておりました。

「 昭和62年9月29日午後5時に吉田光邦氏来社。・・・・
  ・・・吉田光邦氏とても勲章が欲しいのである。
  紫綬褒章についてひとくさり話をする。

  ・・・≪辞退するかどうか≫文部省から下問があるらしい。
  変に辞退するとこれがあとあとまでも影響するのである。・・・

  人間に一生をどのように見るかは各人の勝手というもので
  どうでもいいのだが、世間には世間のルールがあるのだ。

 昭和62年11月30日午前11時に八杉君と吉田先生を訪問する。
 用件は紫綬褒章受章の御祝い、京都文化博物館における
 新しいプロジェクトについて。もう一つは
 受章祝賀パーティー用の出版進行について。・・・・・

 吉田氏は明日の叙勲のために、今日の午後に東京へ行くという。
 それでも非常に嬉しそうでうきうきしていたのである。
 やはり勲章というものは誰しもが欲しがるものらしいのである。・・」(p94~95)

そして
「 昭和63年1月25日
  紫綬褒章の受賞記念会はきわめて盛会だった。
  その中でもっとも印象的で愉快だったのは、
  人文研究所長の挨拶だった。
  
  褒章制度の歴史を、誠に軽快に話したあと黄綬、藍綬とあるが
  紫綬褒章はちょっと格が上だという話になって、
  世間では紫綬褒章はミニ文化勲章といわれている・・・と。

  ただし順番待ちをしなければならなにので、
  順番がまわってくるためには20年くらいは待たなければならないのです
  
  ・・・20年後にまた皆さんとともに今日のように
  盛大なパーティーをやることを約束いたします・・・

  とたくみなスピーチであった。
  
  この記念のために制作依頼をうけた
  『読書瑣記』が非常に好評であり安心する。・・  」(p96)

はい。まだ余話はつづいておりますがこのくらいで。
うん。『読書煩記』を読む気にはならないのですが、
吉田光邦氏の気になる本注文しておくことにします。

 
 


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時代の終わりと始まり。

2023-12-02 | 産経新聞
この頃、ユーチューブで高橋洋一さんとか、
さまざまな方の話を聞かなくなって久しい。
その方々の活字を読めばよいのでしょうが、
それも怠っており、すこしは読まなくては。

江崎道朗氏が産経新聞12月1日の正論オピニオン欄に
顔写真入りで書いておられました。ここには、最初と最後とを引用。

「いまの防衛力のままでは日本を守り抜くことはできない。
 ・・・日本政府が有事への準備を始めた。

 昨年12月16日、国家安全保障戦略など『安保3文書』と、
 5年間の防衛関連経費を43兆円程度とすることを閣議決定した際に、
 岸田文雄首相はこう述べた。

『 今回、防衛力強化を検討する際には、各種事態を想定し、
  相手の能力や新しい戦い方を踏まえて、現在の自衛隊の
  能力で我が国に対する脅威を抑止できるか、
  脅威が現実となったときにこの国を守り抜くことができるのか。

  極めて現実的なシミュレーションを行いました。
  率直に申し上げて、現状は十分ではありません。 』

 毎年5兆円もの予算をつぎ込んできたが、
『 脅威が現実となった 』ときに現状の防衛力では、
 不十分だと言ったのだ。・・・           」

真ん中を端折って、つぎは、最後の箇所です。

「 一方、『国民保護のための体制の強化』という項目も新設され、
  武力攻撃の前に『南西地域を含む住民の迅速な避難を実現すべく・・』
  方針が打ち出された。

  これを受けて政府と沖縄県は3月17日、有事の際に、
  台湾に近い先島諸島(宮古島市、石垣市、竹富町、与那国町、多良間村)
  の住民ら約12万人を九州各県に避難させることを想定した、
  初めての図上訓練を行った。そして10月17日、
  松野博一官房長官は避難先の九州各県に対して  
  宿泊先や医療、食料の確保などの初期的計画をつくるよう
  求めるとともに、政府としても先島諸島12万人避難計画を、
  来年(令和6年)度中にもまとめる方針を明らかにしている。

  以上のように、政府主導で地方公共団体との
  連携による『 有事準備 』が始まった。

  戦争や有事などは考えたくないとして、
  軍事を忌避する時代は終わったのだ。   」

ついつい、楽しいことにかまけて日々過ごす自分がおります。
情けないけども、知ろうせずボヤケたままの情報があります。


そういえば、臼井史朗著「疾風時代の編集者日記」(淡交社)に
『時代』ということで、臼井氏が吉田光邦氏と対話した箇所がありました。

「 昭和58年4月16日
  情報メカの極端なる発達について。メカニズムのみが発達するため、
  いかなるものも情報として手に入れることが出来、
  また情報として産業化可能になる。

  ・・・・・・・・

  そのため、情報過剰―不消化の時代―たれ流し時代となる。
  結論としては思想の整理のみに追われて思考を生み出すことが不可能となる。
  思想の残酷時代となる。資本主義の末路にかわるものは何か。
  現代は模索の時代であるということ。      」(p90)

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職人像への切り口。

2023-12-01 | 前書・後書。
注文の古本・吉田光邦著「日本の職人像」(河原書店・昭和41年)届く。
とりあえず本が手許に届けば、もうそれだけで安心して読まなくなる私。

けれどこの本の『あとがき』だけは、しっかり引用したくなりました。
テレビ東京だったか、外国人が、日本の職人さんへ数日間弟子入りして
その家庭などで食事をしたりして帰ってゆくという番組がありますよネ。

たまにしか見ないけども、思わず心持ちが緩むようで印象に残っております。
「日本の職人像」の「あとがき」を読むと、そのテレビを思い浮かべました。
ということで、ここに本の『あとがき』の全文を引用しておくことに。


「 河原書店主からこの書のおすすめを受けたのは、わたくしが
  三度めの西アジアの旅から戻って、報告書を書いているころであった。

  西アジアでわたくしはずっと手工業の技術を調べてつづけていた。
  陶工、金工、木工・・・それらの仕事に従う人びとは、みなわたしが
  これまで接してきた日本の職人たちと全く同じ人びとであった。

  自分の仕事、技術に誇りをもち、しかも貧しい暮らしに甘んじながら
  うすぐらい工房で黙々と終日働きつづける人であった。

  彼らはこの異邦の旅人に、こまかに工程を語り、自分の作品を見せ、
  時には食事まで用意してくれる。その細やかな心づかい、
  人間はどこへ行っても人間であった。

  そんなことを考えながら、もういちど日本の職人像をたしかめようと、
  すこし歴史的な経過を追ってこの書物を書いてみた。


  すでに職人論を二冊ほど書いている。
  それらとはまたちがった資料と視角で構成したのが本書である。
  
  貧しく寂しい暮らしに閉じこめられつつ生きてきた
  日本の職人たちに、関心をよせられる方は、

  小著『日本の職人』(角川)、『日本技術史研究』(学芸出版社)を
  合わせて参照していただければ幸いである。

  最後にこの書の出来上るについての河原書店の方がたの
  お骨折に御礼申し上げる。

                  1966年5月  吉田光邦 」


ちなみに、発行所河原書店住所は、京都市中京区高倉通三条下ルとあります。


  
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