後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

快晴の湖を走るヨットの写真です

2008年09月09日 | 写真

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今朝起きたら、秋らしい涼しい風が吹いている晴天です。久しぶりに霞ヶ浦へ行きました。

すれ違ったヨットの写真です。後ろには筑波の山並みが青く光っていました。

風が良く、7ノットで走れました。(終わり)


清瀬の公園、結核病棟、坂東簗のこと

2008年09月09日 | 日記・エッセイ・コラム
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フォトアルバム「清瀬の金山緑地公園の四季」への為の写真を撮りに行った。久しぶりに晴天になった昨日のことである。
行くたびに、昔、国立結核病棟がえんえんと広がっていた跡地を通り抜ける。現在は広大な駐車場の向こうに赤いタイルで覆われた美くしい国立病院が見える。
ここを通るといつも今はいないSさんのことを思い出す。
Sさんはある大学の研究助手として一生を終えた。下積みの研究者として生を貫いたが、いつも柔和な表情で誰に対しても親切であった。筆者の実験を熱心に手伝ってくれた。学会発表へも同行してくれて世話を焼いてくれた。そのSさんが長く療養生活をしたのが清瀬の結核病棟であった。
あるときS さんが、「前橋に清瀬時代の友人がいるから遊びに行こう」と若い研究者3人を誘った。1963年の夏であった。前橋の駅前は夏風で土埃が立ち、旧式のバスが2台だけ停まっている。淋しい広場だった。Sさんの友人が、当時は珍しいダットサンの乗用車で迎えにきてくた。その車が、さびれた駅前広場で入ってくると、車体が輝くように見えた。正直、何かホッとした。
皆がいきなり案内されたところが、利根川の川原にある坂東簗であった。先日の記事に簗の写真があるが、あの簗の風景は1963年夏に見た通り寸分も違わない。
簗で魚を取る。それを塩焼きにして客に供する。鮎の塩焼きを肴にし一献傾ける。
そんな経験は初めてなので強い印象が残った。
それから十数年忙しい日々が続き、坂東簗のことは忘れていた。
家庭も持ち、子供も成人した。その頃になって坂東簗の夏の日を思い出し、家人と久しぶりに行った。十年一日。全く昔通りの風景が広がっている。簗には小魚が踊り、塩焼きの鮎の味も昔通り。
それ以来、毎年夏になると坂東簗へ通うのが我が家の年中行事になった。
清瀬を通うるたびにSさんを思い出し、坂東簗を思い出す。S さんが亡くなってから3年になる。でも 筆者の心のなかではいつまでも生きている。(終わり)