後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

ブドウ狩りの季節になりました

2008年09月12日 | 日記・エッセイ・コラム

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生まれが1936年、仙台育ちなので、子供時代は食糧難であった。現在の子供には想像もつかな酷い時代であった。

1969年、子供達が幼稚園、小学校の時、山梨の勝沼で初めて葡萄狩をした。緑の葉からぶら下がっているブドウの房を、子供達が切って、歓声を上げて喜んだ。しかし、子供2人以上に、心の中で狂喜したのは実は自分自身であった。北国の仙台近辺にはブドウ畑は皆無で、その様子は想像もつかい。こんな風景が実在しているとは想像もつかなかった。

家人は東京育ちなので勝沼のブドウ畑は知っているのか普通程度の喜びかた。

その頃からの夢。ブドウを自宅の庭で実らせるという夢。忙しい年月が流れ、やっと最近になってから実現した。

10年くらい前に、苗木を勝沼の農家から分けてもらい7年でブドウの房がついた。それ以来毎年庭にブドウの実が見える。しかし綺麗な房にはならず、味もひどく酸っぱい。肥料の与え方、剪定など教わらなかったのでご覧のようなありさまです。しかし1969年に初めてブドー狩をしたときの感動を想いだす。

上の3枚の写真のうち左の2枚は自宅庭で9月8日に撮ったもの、右端は8月7日に韮崎市の甲州街道に面した吉川園で撮ったものです。

ブドウ狩は7月からできるが、9月に入り涼しくなってからが好期です。甲州市の勝沼町、一宮町、御坂町には一面にブドウ畑が広がって、多くの品種があり子供連れのお客を待っています。地元のブドウ酒もいろいろ売っています。時期によって、子供達が切り取れる品種が変わります。行くときは。インターネット、案内書などで良く調べ、予約してから行くことをお勧めします。

尚、勝沼には葡萄の丘という眺めの良い小山があり、頂上にはレストラン、ワインセラーがあり何十種類もの葡萄酒を試飲できます。秋の甲州の葡萄畑をお楽しみ下さい。

(終わり)


夫婦の義理(1)絵画の楽しみかた

2008年09月12日 | 日記・エッセイ・コラム

アメリカの夫婦の関係は義務と権利。何時も一緒に遊ぶのは夫婦の義務。でも嫌になったら離婚する権利を双方が持っている。相手がいつ何時、権利を行使するか緊張感が漂っている。それも良い。

日本の夫婦関係は義理と人情で繋がっている。権利意識が無いだけのんびりした雰囲気がある。それも良い。

全ての夫が義理を感じているかは別にして自分の意識には、「こんな男と結婚してくれたのだから義理がある!」という考えがある。口には出さないが。

生来、絵は嫌いだった。小学校で最低の成績はいつも、「図画」であった。絵の展覧会など行ったことが無い。理科系の学生にとっては不用な趣味だ。

結婚したら家人が絵が好きで、展覧会へついて行く。夫婦の義理と諦めて、会場を退屈しながらゆっくりと歩き回る。如何にも絵が分かるような顔をして。

でもそれはバレてしまった。「あなた、展覧会で全ての絵を見なくても良いのよ。好きな絵だけ選んで楽しめば良いの。だから一緒に歩かないで入り口で別れて、時間を決めておいて出口で一緒になりましょうね」。これで気楽になる。好きな絵なら1枚や2枚はある。

そんな楽しみ方を数回していると、一回の展覧会で7、8枚の好きな絵を見つけられるようになった。家人はこうも言う。「絵画は理解して、説明するものではありませんよ」

好きか、嫌いか、繰り返し自分に問いかけて歩いていると、「ウン、この絵の右半分は凄く好きだなあ」、などと色々な感想が湧いてくる。感覚に共感するものがある。過ぎたことをフッと想いだしたり、わけが分からぬが感激したりする。

この前の記事、「安井曽太郎の一生」は、彼の一生の絵を無理に言葉で説明した小賢しい文章である。読み返すと嫌な部分もあるが、気に入った部分もあり捨てるわけに行かない。この文章はいつものように夫婦の義理で行った展覧会の印象を纏めたものである。茨城県の常陽新聞に掲載された随筆です。(終わり)


外国体験のいろいろ(6)改訂版、安井曽太郎の一生

2008年09月12日 | 旅行記

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(出典:http://servus-a.hp.infoseek.co.jp/html/yasui.htm )

◎没後50年・安井曽太郎展

水戸市の千波湖のほとり、県立近代美術館で2005年の7月に安井曽太郎氏の油彩109点、水彩・素描35点が年代順に展示された。浅井忠に師事していたころの少年期の作品、フランスでセザンヌの影響を受けていたころの滞欧期の作品、帰国後の東洋と西洋のはざまで苦しんだころの作品、そして曽太郎流画風の確立した後の傑作の数々が順序よく、ゆったりしたスペースに展示されている。

全国の美術館や個人所有の油彩を109点も借り出して、曽太郎氏の芸術遍歴を浮き彫りにした企画展は、見る人にいろいろなことを考えさせる。

どの時期の作品でも、とにかく抜群に上手である。と言うと、一緒に行った家内が「上手なのは当たり前です。そんな誉め方をするのは芸術家に対して失礼です」と怒る。しかし、浅井忠に師事して描いた油彩を見た曽太郎氏の家族や友人は「上手だ、すごく上手だ。一流の画家になれる」と誉めたに違いない。本人もその気になって18歳の時パリへ渡る。

後期印象派、特にセザンヌの直接的な影響を受け、澄んだ青を基調にしたいかにもセザンヌ風の裸婦、フランスの風景、静物などを精力的に描く。特に裸婦のデッサン力、深みのある陰影はとても東洋人の絵画とは見えない。セザンヌの作品といえばそう信じられる。

ところが、帰国後数年間の画風は混乱に続く混乱である。パリで学んだ絵画精神で日本の風景、日本の裸婦、日本の静物を描こうとすればするほどバランスの取れない絵画になってしまう。私はこの混乱期の、例えば京都近郊の多くの風景画や裸婦群像などは好きにはなれない。見ているうちに苦しくなってくるのだ。

       @独自の画風の確立

独自の画風を確立するまでの帰国後数年間の模索と深い思索こそが、曽太郎独自の芸術を生んだ。西洋の絵具、画材を使い西洋風の色合いで日本画の構図や線描を交えて和洋折衷の絵画を作ることは可能である。日本の風景、日本人モデルを用いてセザンヌ風に描くことも可能である。しかし安井氏はそんな浅薄なことはしない。浅薄な作品ではないが、絵全体として何か緊張感が弱い。

東洋と西洋の文化の両方を受容して独自の境地を作り上げることに成功した画家はそんなに多くはない。ところが、昭和初期の少女像、玉虫先生像、気位の高い和服の婦人像のころから、いわゆる曽太郎流画風が確立されて行く。セザンヌからの卒業、日本画ではないオリエンタルな精神性を背景にした表現は独創的な画風を生んだ。

昭和9年の「金蓉」と題した中国服を着た婦人像が最高の傑作と言われる。女性の強さ、美しさが伝わって来る。横長の大きなキャンバに描いた外房風景。強風の沖を、左から右へ流れるように白波が動いている。漁村の歪んだ家々が漁師一家の必死の生を暗示している。風景が美しいだけではない。漁師の生活そして人生を描いている。薔薇・果物を重厚に描いた静物画にも氏の誠実な心が表れている。深い余韻を感じさせるのも、研鑽を重ねた技量のおかげである。

安井曽太郎の昭和25年の「孫」と題した少女像も傑作である。この絵は少女のパーソナリテイーを浮き彫りにし、その後の人生を暗示している。もし「玉虫先生像」、「金蓉」、「外房風景」、「孫」など曽太郎画風確立以後の傑作のみの展示であれば、曽太郎氏の絵の面白みや深みが理解されない。才能豊かなある東洋人が西洋の芸術を受容して帰国。その脱却と独自の境地の確立に苦悩したすべての時期の作品を展示することが重要である。没後五十年・安井曽太郎展を企画した方々の考えの深さに感心する。(終わり)

脚注:

上記の文は2007年11月17日掲載の「外国体験のいろいろ(6)」を改訂したものである。次の掲載記事、「夫婦の義理のいろいろ」に関係する内容なのでここに掲載する。