(出典:http://servus-a.hp.infoseek.co.jp/html/yasui.htm )
◎没後50年・安井曽太郎展
水戸市の千波湖のほとり、県立近代美術館で2005年の7月に安井曽太郎氏の油彩109点、水彩・素描35点が年代順に展示された。浅井忠に師事していたころの少年期の作品、フランスでセザンヌの影響を受けていたころの滞欧期の作品、帰国後の東洋と西洋のはざまで苦しんだころの作品、そして曽太郎流画風の確立した後の傑作の数々が順序よく、ゆったりしたスペースに展示されている。
全国の美術館や個人所有の油彩を109点も借り出して、曽太郎氏の芸術遍歴を浮き彫りにした企画展は、見る人にいろいろなことを考えさせる。
どの時期の作品でも、とにかく抜群に上手である。と言うと、一緒に行った家内が「上手なのは当たり前です。そんな誉め方をするのは芸術家に対して失礼です」と怒る。しかし、浅井忠に師事して描いた油彩を見た曽太郎氏の家族や友人は「上手だ、すごく上手だ。一流の画家になれる」と誉めたに違いない。本人もその気になって18歳の時パリへ渡る。
後期印象派、特にセザンヌの直接的な影響を受け、澄んだ青を基調にしたいかにもセザンヌ風の裸婦、フランスの風景、静物などを精力的に描く。特に裸婦のデッサン力、深みのある陰影はとても東洋人の絵画とは見えない。セザンヌの作品といえばそう信じられる。
ところが、帰国後数年間の画風は混乱に続く混乱である。パリで学んだ絵画精神で日本の風景、日本の裸婦、日本の静物を描こうとすればするほどバランスの取れない絵画になってしまう。私はこの混乱期の、例えば京都近郊の多くの風景画や裸婦群像などは好きにはなれない。見ているうちに苦しくなってくるのだ。
@独自の画風の確立
独自の画風を確立するまでの帰国後数年間の模索と深い思索こそが、曽太郎独自の芸術を生んだ。西洋の絵具、画材を使い西洋風の色合いで日本画の構図や線描を交えて和洋折衷の絵画を作ることは可能である。日本の風景、日本人モデルを用いてセザンヌ風に描くことも可能である。しかし安井氏はそんな浅薄なことはしない。浅薄な作品ではないが、絵全体として何か緊張感が弱い。
東洋と西洋の文化の両方を受容して独自の境地を作り上げることに成功した画家はそんなに多くはない。ところが、昭和初期の少女像、玉虫先生像、気位の高い和服の婦人像のころから、いわゆる曽太郎流画風が確立されて行く。セザンヌからの卒業、日本画ではないオリエンタルな精神性を背景にした表現は独創的な画風を生んだ。
昭和9年の「金蓉」と題した中国服を着た婦人像が最高の傑作と言われる。女性の強さ、美しさが伝わって来る。横長の大きなキャンバに描いた外房風景。強風の沖を、左から右へ流れるように白波が動いている。漁村の歪んだ家々が漁師一家の必死の生を暗示している。風景が美しいだけではない。漁師の生活そして人生を描いている。薔薇・果物を重厚に描いた静物画にも氏の誠実な心が表れている。深い余韻を感じさせるのも、研鑽を重ねた技量のおかげである。
安井曽太郎の昭和25年の「孫」と題した少女像も傑作である。この絵は少女のパーソナリテイーを浮き彫りにし、その後の人生を暗示している。もし「玉虫先生像」、「金蓉」、「外房風景」、「孫」など曽太郎画風確立以後の傑作のみの展示であれば、曽太郎氏の絵の面白みや深みが理解されない。才能豊かなある東洋人が西洋の芸術を受容して帰国。その脱却と独自の境地の確立に苦悩したすべての時期の作品を展示することが重要である。没後五十年・安井曽太郎展を企画した方々の考えの深さに感心する。(終わり)
脚注:
上記の文は2007年11月17日掲載の「外国体験のいろいろ(6)」を改訂したものである。次の掲載記事、「夫婦の義理のいろいろ」に関係する内容なのでここに掲載する。