1970年5月に西ベルリンへ行った。上の写真のような殺伐とした壁が市街地を真っ二つにしている。街路を歩くドイツ人の表情が敗戦直後のように険しい。日本では、敗戦後数年間しか見られなかった表情だ。ベルリンの人々は1970年になっても敗戦の悲惨を背負って生きている。冷たく硬い石壁は鉄のカーテンの表徴だ。冷酷な雰囲気に満ちた街、ベルリン。
あれから19年、1989年ベンリンの壁が壊されてソ連が解体した。筆者個人にとっても感慨深いニュースだ。
@ポーランドからの手紙
1980年ころ東京へ招んで、筆者の山林の小屋へも案内したバウク博士の生きかたのエピソードである。
ストックホルム工科大学で工学博士を取るとバウク青年はポーランドの会社へ就職し移住してしまった。民主主義圏のスウェーデンから、いとも簡単に共産政権独裁のポーランドへ移住したのだ。何か騙されたような感じを受けた。
バウク青年の人間としての誠実さに深い疑問を感じつつ時が流れた。
1990年来たバウクさんの手紙には、溢れる喜びが描かれている。「私ども一家は第二次大戦後、ソ連を嫌ってスウェーデンへ亡命、移住しました。多くのポーランド人と共に。ストックホルム工科大学に居る間、ポーランド本国のソ連の締め付けが厳しくないという情報を得ました。そこで思い切って1980年に移住したのです。私はもともとポーランド人です。ゴルバチョフさんのお陰でベルリンの壁が崩壊し、ポーランドにもやっと自由が来ました。壁の崩壊後、西ヨーロッパに亡命していたポーランド人が続々と帰ってきています」そして「ポーランド人は東郷元帥の頃から日本人を尊敬し、親しみの感情を抱いています。」と結んである。
@南米、ベネズエラからの風の便り
ボルサイテス博士に会ったのはベネズエラの首都カラカスであった。1976年である。ソ連領リトアニアからの亡命者という。時々、笑顔がフッと消えて、表情に深い悲しさを漂わせる。彼はカラカスにある鉄鋼分野の国立研究所の研究部長であった。
「日本―ベネズエラ鉄鋼技術共同会議」を主宰してくれた。
ポーランドの北にあるリトアニアは完全な独立国だった。第二次大戦中、ソ連が武力占領し、併合した。30年前の家族離散の悲しい出来事を昨日のことのように話す。ソ連はいつかは必ず崩壊する。そうしたら祖国に帰り政治家になる、と言う。
ベネズエラの奥地の鉄鉱山の見学へも同行してくれた。リトアニアからの亡命者の眼前には祖国の林とはあまりにも違う熱帯の林が広がっている。暑く乾いた風が熱帯樹林を騒がせている。北国の白樺林の新緑や紅葉の美しさをしきりに話していた。
ソ連は崩壊する、とボルサイテス博士が断言した通り、1989年ベルリンの壁は崩壊した。すぐに、ボルサイテス先生は祖国へ帰って国会議員になったという。そんな噂が流れて来たのは数年後のことであった。
彼の為に、リトアニアに栄光あれと念じつつ、時々ベネズエラでの日々を思い出している。
(続く)写真の出典は;http://www.appropriatesoftware.com/BerlinWall/welcome.html