後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

土方歳三、東京の田舎に静かに眠る

2008年09月25日 | 写真

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土方歳三は1836年に生まれ、1869年、33歳で箱館で戦死した。

東京都、旧南多摩郡、日野村の石田で育ち、墓も石田寺(せきでんじ)にある。

石の多い田圃に囲まれた貧しい農村地帯であったという。現在も田舎の風景が彼方此方に残り、静かな田園風景が広がっている。

上の列の中心の写真には彼の墓石がある。(右側の小さな墓石で、その下に写真が飾ってある)。

 中段の右端の写真には歳三の生涯がかなり詳しく紹介してある。

最下段の左3枚は石田寺の風景、最後の2枚は近所にある生家跡にある資料館に関する写真である。(資料館は毎月、日曜日に2回しか公開されていない)

幕末から明治の間の戦乱に人生を翻弄された一人の男の短い生涯を偲びつつしばし黙祷する。

新撰組の組長、近藤勇は箱館へ行く前に捕まり、流山で処刑された。近藤勇の墓は調布飛行場の北側の生家のそばの寺にある。

副組長の土方歳三は仙台付近の港で榎本武揚の江戸幕府艦隊に乗り込み、箱舘政府設立に参加した。

1869年、馬上で腹部に銃弾を受け、華々しく死んでいったという。そのせいか土方歳三は現在でも箱舘の人々に大切されている。日野市石田にいる歳三の子孫が函館へ時々招かれるという。(個人的に偶然、日野の人と親しいので歳三のことをいろいろ聞いている)

 撮影日時:9月25日御前10時頃、石田寺への交通:JR中央線立川駅で多摩モノレールへ乗り換え。高幡不動、多摩センター方面行きに乗り、「万願寺駅」で下車。モノレールに沿って下り方向へ歩き、左へ曲がる。萬願寺駅より徒歩14分位。尚、大変分かり難いので、途中2回くらい土地の人へ聞くことが肝要。(終わり)


夫婦の義理(2)35年間スケート場で凍える思いをする

2008年09月25日 | 日記・エッセイ・コラム

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見合い結婚をした夫婦は育ちも趣味も違うことが多い。円満に過ごすには、「夫婦の義理」と諦めて相手の趣味に少しお付き合いをする。 妻の趣味はいろいろあるが、フィギュアスケート。中学1年から後楽園、新宿コマ、軽井沢、白樺湖などのスケート場で滑ったという。結婚後も毎冬、4,5回は滑りたいという。車で行くことになるので筆者もスケート靴を買って、冬の間車に積んで35年間スケートをした。

本来、運動は苦手で、嫌い。スケートは運動神経と平衡感覚が無いと立っていられない。苦しい思いをして無様な格好でリンクを一周すると妻はスイスイと何周もしている。いつも威張っている此方を、勝ち誇ったように見ている。側により過ぎると掴まれるので距離を置いて指導しようとする。回りの子供達がニヤニヤと笑っている。いつも自分の子供2人も連れて行くので自然に上手になる。

奥多摩、諏訪湖、富士山、白樺・蓼科、西武園、読売ランドなどの屋外スケート場へも滑りに行った。下手なのですぐ疲れて、端で休んでいると、強風や吹雪がふきつけてくる。零下10度や15度になることも稀では無い。本人と子供2人は休みなく滑っているのでポカポカ温かいという。

中年、いや60歳近い妻がスカートを翻して滑っているのは珍しい光景なので皆が驚いて見ている。日本では中年になるとどうしてスケートを止めてしまうのだろうか?

兎に角、スケート場は筆者にとって地獄だ。2、3時間も辛抱をして、やっと帰路につくとすぐに次は何処へ行こうと相談を始める。これを冬の間、3回から5回やられる。車で行くので逃げられない。

夫婦の義理とは辛いもの。こんな状態が、妻の25歳から60歳まで続いた。還暦になったので、「骨も脆くなっているから怪我しても看病はしないよ」と断言した。そうしたら素直に止めた。これで寒いスケート場通いも終わった。  結婚とは大変なものとしみじみ思う。(続く)