後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

戦艦大和と農村の窮乏

2008年09月26日 | 日記・エッセイ・コラム

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戦艦大和;http://battleship-pictures.xrea.jp/photograph_p/senkan/yamato.php

この前の掲載記事では、1970年頃までの日本の農村の台所の様子を写真で示しました。水道も冷蔵庫も電気洗濯機も無く、流しは座り流しでした。

水田農家でも、戦争中は米を全て供出し、ご飯を食べませんでした。小麦粉を練って作ったスイトンが毎日の夕食でした。そのような農村の窮乏を下敷きにし、同じ時期に排水量10万トンの巨大戦艦、大和と武蔵の2艦を作って戦ったのです。水兵も農村の若者が多かったといいます。

後になってみると狂気の時代としか思えません。でも当時は狂気でもなんでもなく、正しい考えと信じていたのです。このような日本民族の経験を子孫へ絶えることなく伝え、知的遺産として若い人々へ残したいと希望しています。(終わり)

下の写真は戦艦、金剛(出典は大和と同じ)

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驚いてはいけません、1970年頃までこんな生活をしていました

2008年09月26日 | 日記・エッセイ・コラム

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人間は過去を簡単に忘れます。偶然、羽村市立郷土博物館の裏に展示してある江戸時代末の農家を見て、疎開先の農家の造りにあまりにも似ているので愕然としました(9月13日掲載記事)。電灯はありましたが、水道も冷蔵庫も電気洗濯機も一切有りませんでした。東京都下、羽村の農家ではそんな生活が1965年頃まで続いたといいます。

その後、日本の農村では、古い農家が何時頃まで実際に使用されていたか調べて見ました。川崎市立日本民家園と東京都立江戸東京たてもの園の展示農家30棟くらいを調べ回りました。

明確に何時まで家族が住んでいたかという証拠は有りませんでしたが、移築は昭和41年や42年が大部分でした。1966年と1967年に移築されています。丁度、高度成長の始まる頃です。

地方によってはもっと後まで、このような農家に住んでいたと推定できますので、約1970年頃を境に近内的家屋へ次第に変わっていったと言えます。

建物は大体、江戸中期や後期に建てられたものです。修理を重ねて大切に使われています。

上の写真に有るように、台所の流しは座り流しです。水は甕からヒシャクで汲みます。ご飯とお汁はヘッツイで炊きます。食器棚には貧しげな器や箸が大切にしまってあります。囲炉裏では鉄瓶がいつも沸いていて、お湯を茶の代わりに飲みます。

筆者の疎開した農家では夕食は囲炉裏に大鍋をかけ、野菜とドジョウの汁へ味噌味をつけ、スイトンを入れて食べて居ました。毎日同じでした。ドジョウは田圃の用水路で捕ってきます。

当時の仙台市には電灯だけでなく、水道もガスもあり、流しは立ち流しになっていました。都会と農村の生活レベルの大きな差に、子供心にも驚き、悲しい思いをしました。

それが1945年の日本の現実でした。戦後もその状態が1970年頃まで続きました。都会と田舎の想像を絶する格差こそ高度成長期前の社会経済の大きな特徴でした。

このような社会であったことを忘れないようにと、ここに数枚の写真を掲載します。

若い人々に読んで頂いて、ますます格差の無い日本を築いて貰いたいと願いつつ筆を擱きます。(終わり) 写真撮影:9月26日午前11時頃、都立小金井公園内にて。江戸東京たてもの園のURL:http://www.tatemonoen.jp


夫婦の義理(3)蔵王の樹氷コースと妻の災難

2008年09月26日 | 日記・エッセイ・コラム

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生活がやっと少し安定した1973年冬に、甲斐駒の麓に、6畳と4・5畳の山小屋を作った。そこから近い諏訪湖に、子供2人とともに一家でスケートに行く。

妻が昔から持っていた白いフィギアスケート靴をはいていきなり滑り出す。アッという間に、遥か沖に輝く氷板の上に小さく見える。子供2人も妻の指導で間もなく滑れるようになる。

自分は借りたスケートで、よたよた滑る。スケートなんてあまりしたことが無い。仙台市で育ったので、作並スキー場や蔵王スキー場へ良く行った。

決して上手ではないが、蔵王の地蔵岳からドッコ沼まで、何キロも樹氷の間を滑り降りることが出来た。上の写真のような山岳コースである。(上の写真は蔵王スキー場の公式サイトから引用した。)

次の年の冬に白樺湖スキー場へ行った。蔵王に比べるとなだらかな小さなコースである。スケートが上手な妻なら、スキーも自分より上手いと信じきっていた。

そこで一家4人、リフトに乗り、いきなり頂上まで行った。鼻歌まじりに滑り降りて、振り返ると、妻がまだ頂上付近で、転びながら雪まみれになって悪闘苦戦している。子供2人は転びはするが途中まで滑り降りている。

諏訪湖であんなに上手に滑れた妻がしりもちをついている。スキー板が外れる。板だけが滑りおりてしまう。妻は腿まで雪につかりながらそれを拾いに行く。履いてはちょっと滑りすぐ転ぶ。急斜面を真っ直ぐ下ろうとして止まらず、絶叫する。そういえば曲がり方も止まり方も教えていなかった。「こけつまろびつ」ようやく麓まで降りてきた。呆れて見ていた我々は大爆笑。

諏訪湖での笑顔は泣き顔になっている。

スケートが上手なので、スキーも上手と、筆者は信じきっていたのだ。妻はおっちょこちょいなので何も考えず夫婦の義理でリフトに乗ってしまったのだ。妻はスキーの恐ろしさを知らなかった。

よほど怖かったらしく、その後何十年にもなるが喧嘩になると「おもいやりが無い実例」としてこの話を持ち出す。此方の旗色が酷く悪くなり夫婦喧嘩が終了する。つまらない話ですが、育ちも趣味も違う2人が結婚するといろいろ難しい問題が起きます。結婚とは大変なものです。(続く)