人間は過去を簡単に忘れます。偶然、羽村市立郷土博物館の裏に展示してある江戸時代末の農家を見て、疎開先の農家の造りにあまりにも似ているので愕然としました(9月13日掲載記事)。電灯はありましたが、水道も冷蔵庫も電気洗濯機も一切有りませんでした。東京都下、羽村の農家ではそんな生活が1965年頃まで続いたといいます。
その後、日本の農村では、古い農家が何時頃まで実際に使用されていたか調べて見ました。川崎市立日本民家園と東京都立江戸東京たてもの園の展示農家30棟くらいを調べ回りました。
明確に何時まで家族が住んでいたかという証拠は有りませんでしたが、移築は昭和41年や42年が大部分でした。1966年と1967年に移築されています。丁度、高度成長の始まる頃です。
地方によってはもっと後まで、このような農家に住んでいたと推定できますので、約1970年頃を境に近内的家屋へ次第に変わっていったと言えます。
建物は大体、江戸中期や後期に建てられたものです。修理を重ねて大切に使われています。
上の写真に有るように、台所の流しは座り流しです。水は甕からヒシャクで汲みます。ご飯とお汁はヘッツイで炊きます。食器棚には貧しげな器や箸が大切にしまってあります。囲炉裏では鉄瓶がいつも沸いていて、お湯を茶の代わりに飲みます。
筆者の疎開した農家では夕食は囲炉裏に大鍋をかけ、野菜とドジョウの汁へ味噌味をつけ、スイトンを入れて食べて居ました。毎日同じでした。ドジョウは田圃の用水路で捕ってきます。
当時の仙台市には電灯だけでなく、水道もガスもあり、流しは立ち流しになっていました。都会と農村の生活レベルの大きな差に、子供心にも驚き、悲しい思いをしました。
それが1945年の日本の現実でした。戦後もその状態が1970年頃まで続きました。都会と田舎の想像を絶する格差こそ高度成長期前の社会経済の大きな特徴でした。
このような社会であったことを忘れないようにと、ここに数枚の写真を掲載します。
若い人々に読んで頂いて、ますます格差の無い日本を築いて貰いたいと願いつつ筆を擱きます。(終わり) 写真撮影:9月26日午前11時頃、都立小金井公園内にて。江戸東京たてもの園のURL:http://www.tatemonoen.jp