後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

岡本太郎著「青春ピカソ」のご紹介

2008年09月24日 | 本と雑誌

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(絵の出典:http://www.new-york-art.com/Tarou-sakuhin.htm 岡本太郎作品集より)

この本は昭和28年12月に新潮社から出版され、最近、平成12年に新潮文庫として再版された。内容は鬼神のような芸術の天才、太郎が書いたものなので理解出来ない所が多い。しかし、その骨子は、19歳で渡仏した太郎が2年半の苦悩、苦節の後、偶然、ピカソの百号の大作に会った事から始まる。彼は胸が熱くなり、涙がにじんだと書く。ーーー「これだ!全身が叫んだ。・・・撃って来るもの、それは画面の色や線の魅力ばかりではない。その奥からたくましい芸術家の精神がビリビリとこちらの全身に伝わって来る。グンと一本の棒を呑み込まされたように絵の前で私は身動き出来なかった。」---そして太郎はピカソの崇拝者になったが。この崇拝者は崇拝する対象を否定し、権威の座から引きずりおろし、それを超越するという鬼神のような独創の化神なのだ。太郎を不遜な人と非難するのは容易だ。しかし、その前にこの本を読んで貰いたい。

太郎は崇拝する対象を超越するために、ピカソの芸術が何故偉大であるか?を徹底的に研究し、その結果を整理し、素人にも分かりやすく書こうとしたのが、この本の内容である。分かりやすく書こうとする努力は分かるが、凡庸の身には理解を超える所が多い。従って書評は書けない。本の終わりにある詩人の宗 左近 氏の書評が良い。

そこで、自分が感動した2ケ所だけを紹介する。

偉大な芸術家を褒めたたえるだけで、その欠点を分析し、その芸術を否定しない日本人が多すぎる。その態度の目的は、芸術の権威者を褒め称え、ついでに自分もその権威を借りて、権威者になろうとしているのだ。これは俗物であり芸術家では無い。---まあ、そのような意味のことを書いている。ピカソの絵は嫌いだが、太郎の絵が好きだ、と言うのも自由だ。他人に馬鹿にされるより自分の頭で何を感じ、考えたか?が重要なのだ。恥ずかしいことは何もない。

これは学者というものを職業にしている人々にもあてはまる。欧米の偉大な学者を褒め称えるだけで、それを乗り越えようとしない学者が日本には多過る。

もう一つの所は絵画鑑賞が絵を描くと同じように独創的な仕事であるという所である。彼の文章を引用すると長くなるので、本書の27ページと28ページにある「観賞と創造」の節をご覧頂きたい。

岡本太郎美術館へ行くと精神の高揚もあるが、一方で何故か酷く疲れる理由が分かったような気がする。好きな画家の美術館へ行くと疲れるのは何故かが分かる。この本の紹介ほど難しいものは無いので、皆様へ是非ご一読をお勧めしたい。

(終わり)


秋の雑木林の散歩ー南北朝の戦いを偲びつつ、

2008年09月24日 | 日記・エッセイ・コラム

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東京都府中市は律令国家、むさしのくに の国府のあった古い町である。その北地区に都立浅間山公園があり、雑木林が山を覆っている。今日は、爽やかな秋風に誘われて雑木林の中の散策へ出かけた。

雑木林の中はほの暗く、見上げると緑豊かな樹冠の間から秋空が見える。まだツクツク法師蝉が夏を惜しむかのように鳴いている。

雑木林に魂を吸い取られたような気分で尾根づたいに歩いていた。尾根の南端、人見街道の近所に来て南北朝の戦いのことを思い出した。

この山の南下に広がる、人見ケ原では北朝方の足利尊氏軍と南朝方の新田義興・義宗兄弟軍が1352年に死闘を繰り広げたところである。地侍の人見四郎も加わったとも言われている。尾根の南端には人見四郎の墓もたっている。

思えば、1336年から1392年までの南北朝時代は、日本の歴史で特異な時代である。天皇が同時に2人居たのだ。足利尊氏と北朝に組する地方の武将と、南朝方へ忠誠を誓う武将たちと壮絶な戦が続いた。

このブログでも以前、4月3日掲載記事で取り上げたが、岩手県北部の八戸南部藩の南部師行は、南朝側の北畠顕家の部下として足利尊氏を討つため京都・大阪方面へ2度も遠征した。しかし2度目には足利軍に負け、1338年泉州石津(現在の堺市)で死ぬ。

散策の帰り道は、南北朝の動乱の時代の武士や農民の気持ちなどを偲びつつ歩いた。このような内戦の無い時代に生まれたことを感謝せずには居られない。

(終わり)

撮影日時:9月24日午前11時前後、撮影場所:東京都府中市、都立浅間山公園にて


夫婦の義理(1)ヨットへ一緒に行く

2008年09月24日 | 日記・エッセイ・コラム

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1961年にオハイオ州で結婚式をあげた。当時のアメリカではどんな場面でも夫婦は、腕を組んでいた。公園でも映画館でも。あまりの徹底ぶりに驚いて、友人のアメリカ人に訳を聞いた。答えによると、それは夫婦の義務で、そうしていないと、「離婚交渉中」と見られるのだそうだ。そんな所で新婚を過ごしたので、夫婦の義務として、遊ぶときも一緒にするようになった。夫婦の義務を義理と読み替えて。

そのお陰で老妻も4回に一度はヨットへ一緒に行く。ヨットは妻にとって地獄。日焼けはするし、暑いし、寒いし、作業は厳しいし、危ないしで大変だ。夏にはパラソルを開いて乗っている。そんなヨットは皆無なので、他のヨットが少し近づいてきて、不思議そうに見て離れて行く。

義理で20年行っているので、ヨットのことを覚えて、あれこれコメントする。セールが少したるみ過ぎているとか、もっと風上へ登れるとか。知っていることを言われていささか不愉快だが、義理で来てもらっているので我慢して、言われる通り修正する。

風が弱い時はキャビンの中で波音を聞きながら寝ている。揺り籠のように波が船を動かしている。

夫婦の義理で良く一緒に遊ぶが、それが一方にとってはつらい思いをしていることも多い。そんなことなどを、「夫婦の義理」という随筆シリーズとして書いて見たいと思う。(続く)