後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

武川米の水田へ水路を作る体験をしてみませんか?

2008年09月11日 | うんちく・小ネタ

066 稲穂が重くたれる黄金色の水田を見ると、稲作する人々の苦労がしのばれる。家庭菜園や庭の雑草取りを忌み嫌い、一生逃げ回っている身にとって稲を作る人々を尊敬したくなる。水は何処から引いて来るのだろう?         この写真の石空川(いしうとろかわ)から引いてくるようだ。

9_073 石空川は水量豊か。釜無川の支流で甲斐駒、地蔵岳からの清流である。一番上にある水田から水路をえんえんと遡ってみた。2Kmくらい雑木林を分け入り、細道をたどると、この写真のように遂に石空川と水面が同じの取り入り口に到達した。江戸時代に村人がセメント無しで土石堤で作った取り入り口である

9_075 現在は写真のような立派な鉄製の開閉弁を上下に動くようにつけてある。4月から9月の末までの半年間は弁を完全に開いて水を多量に水路に入れる。冬期には水路の凍結を防ぐ程度に水を流し、雪も解かす。流量の調節を続ける。年中、気が抜けない。

苦労が絶えぬという。

9_071 2Kmくらい雑木林の中をはしる水路の写真である。2Kmの間の傾斜を同じに作る。そして傾斜を可能な限り大きくし、常に急流の水流が絶えないように作る。急流だと落ちてくる小枝や落葉が流れ去り、水路が詰まらない。また冬季は急流だと凍らないし、雪も解かせる。水量は少ないが冬季も急流で流す。これも大変な苦労。

9_072 江戸時代はセメントが無かったので水路の土手は台風などで簡単に崩れたに違い無い。村人総出で修理したのだろう。稲を作るには水路の掘削と堤の保全や管理に苦労が多い。都会の人々は田植えの済んだ水田の美しさや秋の黄金色に実る一面の水田の風景を楽しむが、陰の苦労を知らない。

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雑木林の中を2Kmくらい流れてやっと一番上の水田へ到達する。

此処までが大変な土木工事だが、この後の田の高さの調整や田の間の水路支流の保守など多くの苦労がある。村人同士が仲良く協力しないとうまく行かないと思う。水田は少しずつ高さを変えて広がっている。9_009_2

稲穂の横にはセンメントで固めた水路が縦横に走り、豊かな水量の清流が音高く流れている。稲刈りをする数日前に刈る田だけ水を止め乾かす。このような水路を自分で作ることを空想してみよう。いかに大変な土木工事かが理解できる。米を作るのは高度な文化と理解できますね。弥生時代から現在へ続く稲作文化です。(終わり)


外国体験のいろいろ(64)オハイオ・ホンダ工場、そして屈辱と栄光の体験

2008年09月11日 | 旅行記

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@日本人がアメリカで受けた屈辱

日本でオリンピックが1964年に開催され、それに続いて大型工場の生産が軌道にのり、奇跡的な経済成長をとげた。

しかし、それ以前にアメリカに行った日本人は、日米の生活レベルの差の大きさにガク然とした。自国の貧しさが身にしみた。その上、外貨制限のため、極端に少ないドルしか持って行けない。路頭に迷う恐怖感を感じながら、旅の空の毎日をやりくりした。

当時の日本にはスーパーもファミリーレストランも無く、戦後の駅前食堂だけが土ぼこり舞う広場に有った。自家用車も高速道路も無い国から行くと、アメリカのハイウェイを走る大型車の列を見て深い感慨にとらわれる。1964年以前に訪米した日本人がよく書いている。「こんな豊かな国とまともに戦争をしようとした軍人指導者や政治家は酷く愚かだ。徹底的に負けたと屈辱を感じる」

この屈辱感には複雑な原因が絡まっている。賢い戦略を取れない軍部や政治家を持った恥。客観的に国力を考えようとしない国民。科学技術の大きな遅れ。独創性の無さ。そして食うや食わずの在米生活。日本人は劣等な人種ではないか?そんな思いが脈略もなく心を乱す。

1960年から1962年にオハイオ州立大学の大学院にいる間、このような屈辱感を感じながら大学へかよった。

@オハイオ・ホンダ工場のお陰で栄光をうける

隔世の感である。1988年から1990年にオハイオ州立大学で働いた。州都のコロンバス市の近郊にマリオンという街があり、ホンダの大規模な乗用車工場が生産を続けていた。経営は大成功し、本田宗一郎さんも度々来ていた。

大学の同僚教授や学生を連れて工場見学へ行った。緑輝く牧場に囲まれた工場は隅々まで清潔で、色々な人種が混じって働いている。組み立てラインでは車台がユックリと流れ、工員がキビキビと正確に部品を取り付けている。

帰ってきた同僚教授や学生が言う。「こんなに清潔な工場は初めて見た」、「こんなに楽しそうに働いている工員を見たことが無い」、「人種差別が無い。違った人種が見事なチームワークを作っている」、「自由と平等とはこういう工場管理なんだね」、「ミスターホンダは工員とも直接握手するそうだね」、「こんな立派な会社なら研究費をくれるかも知れないね。仲介してくれないか?」

ホンダ工場には何の関係もない筆者だが、何か大いなる栄光の余波に包まれたような体験を味わう。

@研究費を貰うために本田宗一郎氏へ会いに行く

所属していた学科の主任教授と相談し、アメリカホンダの社長のN氏へ手紙を書く。それがアメリカ流だという。そしてしばらくして社長へ電話する。社長秘書が出る、「連絡を待ってました、この案件は日本の本社に連絡してありますので、最終的には本田宗一郎氏に会って頂いてから決定します。どうぞ本社のこの窓口へ連絡して下さい」と言う。

本田宗一郎氏とお会いした顛末は「外国体験のいろいろ(17)」として2007年12月7日にこのブログに掲載してある。研究費は貰えなかったが本田氏から1時間にわたり個人的なお話をお聞きした。

1960年と1988年。その間28年間の日本の様変わりは大きかったと思う。昔の深い屈辱感がウソのように霧散してしまう。

上にある写真は州都、コロンバス市のホームページから転載した市の中心部。高層ビルが6棟見えるが1960年当時は2棟しか無かった。中央にある、尖ったビルにはディッシュラーヒルトンホテルがあり、そこでカルフォルニアシャンペン・カナッペとウェディングケーキだけの質素な披露宴をしたことを思いだす。あの頃は本当に貧しい新婚生活を送ったものである。

それにしても日本は豊かになったと深く感じ入る。(続く)