稲穂が重くたれる黄金色の水田を見ると、稲作する人々の苦労がしのばれる。家庭菜園や庭の雑草取りを忌み嫌い、一生逃げ回っている身にとって稲を作る人々を尊敬したくなる。水は何処から引いて来るのだろう? この写真の石空川(いしうとろかわ)から引いてくるようだ。
石空川は水量豊か。釜無川の支流で甲斐駒、地蔵岳からの清流である。一番上にある水田から水路をえんえんと遡ってみた。2Kmくらい雑木林を分け入り、細道をたどると、この写真のように遂に石空川と水面が同じの取り入り口に到達した。江戸時代に村人がセメント無しで土石堤で作った取り入り口である
現在は写真のような立派な鉄製の開閉弁を上下に動くようにつけてある。4月から9月の末までの半年間は弁を完全に開いて水を多量に水路に入れる。冬期には水路の凍結を防ぐ程度に水を流し、雪も解かす。流量の調節を続ける。年中、気が抜けない。
苦労が絶えぬという。
2Kmくらい雑木林の中をはしる水路の写真である。2Kmの間の傾斜を同じに作る。そして傾斜を可能な限り大きくし、常に急流の水流が絶えないように作る。急流だと落ちてくる小枝や落葉が流れ去り、水路が詰まらない。また冬季は急流だと凍らないし、雪も解かせる。水量は少ないが冬季も急流で流す。これも大変な苦労。
江戸時代はセメントが無かったので水路の土手は台風などで簡単に崩れたに違い無い。村人総出で修理したのだろう。稲を作るには水路の掘削と堤の保全や管理に苦労が多い。都会の人々は田植えの済んだ水田の美しさや秋の黄金色に実る一面の水田の風景を楽しむが、陰の苦労を知らない。
雑木林の中を2Kmくらい流れてやっと一番上の水田へ到達する。
此処までが大変な土木工事だが、この後の田の高さの調整や田の間の水路支流の保守など多くの苦労がある。村人同士が仲良く協力しないとうまく行かないと思う。水田は少しずつ高さを変えて広がっている。
稲穂の横にはセンメントで固めた水路が縦横に走り、豊かな水量の清流が音高く流れている。稲刈りをする数日前に刈る田だけ水を止め乾かす。このような水路を自分で作ることを空想してみよう。いかに大変な土木工事かが理解できる。米を作るのは高度な文化と理解できますね。弥生時代から現在へ続く稲作文化です。(終わり)