今日は日曜日なのでミサへ行きました。以前に「気楽に教会へ行ってみよう!」という記事を掲載しました。そこでキリスト教のことを知らない「単なる見物人」になったつもりで見学することにしました。
入り口の机の上には聖歌集や色々なパンフレットが有りました。面倒くさいので「聖書と典礼」という数ページのパンフレットだけを取って入りました。内容はミサで読む、旧約聖書や新約聖書のある部分が抜き出してあります。
ミサが始まり、信者や司祭様が順番に読んで行きます。最後のマタイの福音書にある下のような部分を読んでいました。
「---はっきり言っておく。徴税人や娼婦たちのの方が、あなたたちより先に神の国に入るだろう。なぜなら、(洗者)ヨハネが来て義の(正しい)道を示したのに、あなたたちは彼を信ぜず、徴税人や娼婦たちは信じたからだ。---」
(徴税人は税務署の役人でなく、その徴税の下請けをし、私腹をこやした人々で、江戸時代の十手持ちが居酒屋や小売店を廻って小遣い銭をせびって嫌がられていたのに似ている。)
聞きながら、親鸞のことを思い出します。彼は言う、「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」
この世の卑しい職業や人間の判断する悪行はお釈迦様から見ると問題ではない。信心の深さが問題なのだという解釈も出来る。(親鸞の他力本願の考えはもっと深いようだ)
今日のミサはキリスト教と仏教の類似をいろいろ考え、またその根本的な相違を考えながら出席してきた。
キリスト教をしらない人々が見物のためにミサへ入りこんだら、聖書の朗読の文章を見て、仏教との類似をいろいろ考えると飽きない。でも、飽きたら静かに出てくれば良いのだ。ミサの式次第を神経質に追いかけたり、聖歌を一緒に歌おうなどと気を遣わない。そうするとミサが楽しくなる。
筆者はそのようにしてキリスト教へ近づいて行った。真面目に教義の勉強会などへあまり出席したことがない。気楽になることが一番で、イエス様もそれをお望みのことと信じている。(終わり)