近代科学は人々の生活を豊かにする一方で、戦争の技術、特に兵器の殺傷力を格段に増加しました。
科学や技術とは本質的いに両刃の剣なのです。使う人がその事を深く理解して科学的成果を利用しないと非常に危険な事になります。
このように考えると、科学技術者が原子力の研究をし、平和的な目的で使うとする行為や努力は悪と言えないというのが欧米一般のものです。
話は変わりますが、アメリカの多くの州ではピストルを持つことが法律的に許されています。ピストルを使う目的を決めるのは人間なのです。自宅へ強盗に入る者を撃つのは当然です。しかし金品を盗るためにピストルを使うのは悪です。
さらに言えば欠陥製品のピストルを撃つと火薬が暴発して自分の手を怪我します。そのようなピストルを使わないようにするのも使う人の責任です。
このように道具を使う人の目的によって結果が変わるので、それを使う人の責任を重大に考えるのが欧米の伝統的な文化と言えます。
しかし日本では道具へも善悪の判断をし、ピストルを禁止します。それも優れた民族文化です。物にも精神性を認めるのです。大木を神宿ると信仰する文化の一部とも考えられます。ピストルには悪霊が宿るのかも知れません。
この文化的な違いを認めると今回の原発事故の責任論は比較的に明快になります。
欧米流に言えば原発技術を開発した研究者や技術者には一切罪は無いのです。
4月8日に、私の友人の原発推進論者の意見を末尾に付記したような題目で掲載しました。
彼は原子力エネルギーこそが人類の未来を幸福にすると信じていました。現在も信じています。上記の記事に続く4月9日と10日の二つの原発推進論の文章をみると彼の信念は変わっていません。彼は純粋な科学者なのですから、当然です。
彼は原子力利用の基礎研究者であり、原発を建設した現場技術者ではなかったのです。
原発を建設した現場技術者こそには、原発の危険性を見抜き、投資家や経営者へ充分説明したか否かという倫理的な責任があります。
現場技術者が経営者へ充分説明しても利潤優先の経営者がその意見を取上げなかったとしたら経営者の責任は重大です。罪も重いのです。
しかし当時、改進党だった中曽根議員を中心にした多くの国会議員が原発推進論者でした。そのような情勢のなかで当時の通産省の幹部官僚も原発推進者になったのです。従って原発導入の中心的な役割をしたのは当時の中曽根議員を中心にした国会議員と通産省の官僚の集団と言っても大きな間違いはありません。この政治家・官僚集団が全国の電力会社へ原発導入を促したとしたら、電力会社としては従うのが当然です。電力会社は歴史的には国有会社のような時代が長かったのです。
それでは中曽根さんに代表される政治家・官僚集団を悪人として断罪できるでしょうか?
彼等は日本を豊かにし、幸せな国にする為には原発を抜きにしては不可能だと信じていたのです。たとえ一部の人々に権益拡大という悪い動機があったとしても、悪意と善意を分離することは不可能に近いのです。
したがって原発導入を進めた「政治家・官僚集団」の責任は明白でも、彼らだけを悪人として断罪する事が難しいと思います。
それにしても以上の論点には原発事故が起きた場合の一般の人々への被害の甚大さへの視点が欠落しています。なぜ欠落したまま原発がどんどん建設されて行ったのでしょうか? 続編ではその問題を考えてみたいと思います。
今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し合えます。 藤山杜人