私はカトリックの洗礼を受けました。1971年に、35歳の時受洗しました。キリスト教が好きなのかも知れません。それでこのブログでもキリスト教の事をいろいろ書いてきました。自分は立派な信者でないのでキリスト教の宣伝をする資格はありません。
しかし自分の好きなキリスト教に関連した光景の写真や文章をこのブログへ何度も掲載して来ました。下の写真は長崎のある公園にある26聖人の像です。
このようにキリスト教に関係した写真や文章を掲載すると、時々批判的なコメントを貰います。この非難の趣旨はいろいろですが、最大公約数的に纏めてしまう事が出来ます。
要するに、仏教は平和的で良いがキリスト教は戦闘的、攻撃的であり悪い宗教ですという主張です。私自身は祖父が曹洞宗のお寺の住職だったので一緒にお経も読みました。大人になってからは般若心経や観音経の勉強もしました。ですから私は佛教的キリスト教徒なのです。仏教の良さもある程度なら理解している心算です。
そこでこれからが私の言いたい事です。まず宗教には良い宗教も、悪い宗教も無いのです。信じて居るその人が悪人か善人かの違いがあるのです。悪人が自分の宗教を自分の欲望のために利用するのです。そうするとその悪人が利用した宗教が悪い宗教となるのです。それだけの事です。
キリスト教を作ったイエス様は汝の敵を愛せと教えました。また仇は7の7たび、許せと教えました。罰は神が下すもので人間が他人を罰してはいけないとも教えました。しかし中世にキリスト教の聖職者が堕落して魔女裁判をし、何十万人の魔女を火あぶりにしました。
その事をイエス様は悲しんでいます。そんな事をした神父やその同調者はイエス様とは何のかかわりも無い人なのです。不信人者なのです。
一方、お釈迦さまはすべての生き物を殺す事を禁じました。殺生を禁じたのです。それは人間にとって一番重要な教えです。虫や魚も、そして他人も殺してはいけないのです。実に平和的な教えです。ところが歴史的に考えると仏教の信仰国のタイ、ミャンマー、ベトナムのようなアジアの諸国の王朝の間では戦争が絶えなかったのです。戦争に参加した人々はお釈迦さまの殺生を禁じる教えを踏みにじっていたのです。戦争の間は仏教徒では無いのです。
日本の戦国時代も同じことです。当時の日本は敬虔な佛教国でした。それにも拘わらず、地方地方の武装集団がお互いに血を血で洗うような殺戮を繰り返していたのです。
仏教が善くて、キリスト教が悪いと言う議論ほど好戦的、戦闘的な議論は有りません。それを主張する人の心情が戦闘的なのです。その事に気がつかないで外国人が悪で、日本人が善だと考えることが戦争の種になるのです。
自分がどの宗教が好きかと考え、それを他言しないのは善です。しかし、もし貴方がどの宗教が良いか、悪いかと考えだしたら、それこそが危険信号です。
その考えを進めて行くと、イエス様の教えを、そしてお釈迦さまの教えを踏みにじることになります。争いの火種になるのです。現在起きているイスラム教徒やキリスト教徒と自称する人々の間の争いや戦争は、宗教に関係の無い人々がしているのいです。イスラム教にもキリスト教にも何の関係も無い人々が己の欲望に負けて争っているのです。日本人も全く同じです。自分だけが偉いと思う心が争いの種になります。
人間とは儚くて、愚かな存在なのですね。(終り)