イエスと行動を共にしていた弟子達でさへ、イエスが神の子であると強く信じて居なかったと新約聖書に書いてあるのです。その部分では、弟子たちの人間的な疑問をとても率直に書いてあります。私自身も、時々、フッとそんな疑問を感じる瞬間もあります。ですから新約聖書はとても身近に感じられ、強い共感と親近感が湧いてきます。
弟子達はこの世の常識で考えて、イエスを信じられないのです。それでいろいろイエスに質問をします。信仰というものを合理的に理解しようとしている弟子たちにいらいらしながらイエスは神を見る方法を説いています。
以下に示した、ヨハネによる福音書のある部分を読むと、きっと皆様は弟子たちの気持ちに共感されれと思います。
このような箇所が新約聖書のあちこちにさり気なくちりばめてあるのです。その故に私は新約聖書に強い親近感を持っているのです。
今日のミサで朗読した「ヨハネによる福音書」(ヨハネ14・1-12)は以下のように書かれています。
そのとき、イエスは弟子たちに言われた。
「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたを私のもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。わたしがどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている。」
トマスが言った。
「主よ、どこへ行かれるのか、わたしには分かりません。どうして、その道を知ることができるのでしょうか。」
イエスは言われた。
「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとへ行くことができない。あなたがわたしを知っているなら、私の父も知ることになる。今から、あなたがたは父を知る。いや、既に父を見ている。」
フィリポが、
「主よ、わたしに御父をお示しください。そうすれば満足できます」と言うと、
イエスは言われた。
「フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのだ。なぜ、「わたしたちに御父をお示しください」と言うのか。私が父の内におり、父がわたしの内におられることを、信じないのか。わたしがあなたがたに言う言葉は、自分から話しているのではない。わたしの内におられる父が、その業(わざ)を行っておられるのである。わたしが父の内におり、父がわたしの内におられると、わたしが言うのを信じなさい。もしそれを信じないのなら、業(わざ)そのものによって信じなさい。はっきり言っておく。わたしを信じる者は、わたしが行う業(わざ)を行い、また、もっと大きな業(わざ)を行うようになる。わたしが父のもとへ行くからである」 (以下略)
日本は江戸末期の開国と明治維新の動乱、そして1945年の敗戦と、激しい社会変化を乗り越えて豊かな国へと成長して来ました。
しかしその日本も、東日本大震災と大津波、そして続いて起きた福島原発の事故で、大きな試練に立たされています。日本人の精神文化も深い影響を受けています。この世のはかなさを深く認識し、思慮深い人間になりました。それはそれで良い事です。しかしその一方で、困難に敢然と立ち向かう勇気は持たなければいけないと信じます。
その為に昔の開国のいきさつや、敗戦後の事をもう一度思い出したいと思います。
嘉永6年、1853年7月8日、アメリカ海軍のペリー艦隊4隻が浦賀、久里浜へ姿を現したが国難の始まりでした。蒸気外輪巡洋艦、サスケハナとミシシッピーの2艦と、帆船、サラトガとプリマスの合計4艦で、計100門の大砲で武装しています。
4艦で合計100門の大砲を東京湾の中で発砲したのです。独立記念日の祝砲とか、儀礼的な発砲であると称して江戸の人々を脅かしたのです。全て空砲でしたが、夜も打ったといいます。その恐ろしい、大きな爆発音で江戸中が大混乱になりました。「ジョウキセンたった4はいで夜も眠れず、、」という「ざれ歌」の意味は、「蒸気船4はいの大砲の音の恐ろしさで夜も眠られず、、、」という意味です。
それ以来、日本は欧米列強の脅威に勇気を持って立ち向って来たのです。
下の写真5枚は、ペリー提督が一回目の来航で初めて上陸した、久里浜の海岸にある記念碑や記念館の様子を写したものです。(撮影日時:2008年6月14日午後1時頃)
日米和親条約と下田条約に従って、タウゼント・ハリスが初代の駐日米総領事として下田の玉泉寺へ着任したのが安政3年、1856年です。
1867年に大政奉還があり、明治政府が出来ました。
それから約80年、日清戦争、日露戦争、第一次世界大戦、満州事変、日中戦争、第二次世界大戦と戦争が続きました。
そして1945年、日本は完膚無きまでに破壊され、敗戦を迎えるのです。その戦争の降伏式は1945年9月、戦艦ミズリー号の甲板上で挙行されました。そのとき掲揚された軍艦旗は90年前にペリー提督が使用した軍艦旗だったのです。
1945年の末に、貧しい映画館でみたニュース映画では、暗殺未遂によって怪我した足を引きずる重光外務大臣の姿が悲壮に見えました。その降伏式を見下ろしてはためいていたのがペリー提督の旗艦だったポーハタン号(2415トン)の軍艦旗であると気がついた日本人は居なかったと言われています。それは日本人へは秘密だったのです。
1945年の敗戦後の日本は焦土と化し、食料が欠乏し、産業が壊滅状態でした。そのように困難な状況でも日本人は決して希望を失いませんでした。
少しずつ、一歩、一歩と努力しました。学校制度が変わり、新制の中学生になった私は復興へ貢献しなさいと毎日教えられました。欧米に追い付き、追い越せ!という言葉を毎日、誦文のようにとなえていました。
そして新幹線が出来、東京オリンピックが開催されたのです。
その頃の日本人の努力と元気さを思い出すと、今回の大震災や原発事故を必ず乗り越えられると思います。日本人はイザという危機に面すると大きな力を発揮する国民なのです。敗戦後の復興に参加し、日本の成長を見て来た我々の年代の人々は信じています。日本は再び必ずや復興する事を。
今日も皆様のご健康と、そして一日でも早い東日本の復興をお祈り致します。藤山杜人