町田市の小田急線の鶴川駅からJR横浜線の淵野辺駅へ抜ける道路の真ん中位の所に「図師」という変わった名前の信号のある交差点があります。鶴川駅から走って行って右側へ曲がると水田や雑木林の続く田舎道になります。根気良く走って行くとT字路になり道が左右に別れます。それを左手の道へ曲がると細い道になり山の間の谷戸をうねうねと行きます。里山に迷い込んだようで心細くなります。その頃に道の左に良く整備された大きな無料駐車場がいきなり現れます。兎に角、そこに車を停めて、あとは都立小山田緑地の案内板にしたがって雑木林の中の小道を登ります。やがて吊り橋があって、ホウノキの大きな花が咲いています。交通が不便で、分かりにくい所にある緑地なので散歩をしている人が少ないようです。
雑木林が好きな人が設計した緑地のようで、緑豊かな木々の下に心地よい遊歩道が延々と続いています。写真をお楽しみ頂ければ嬉しく思います。
明治維新で江戸幕府が無くなり、薩長土肥の明治政府が出来あがりました。欧米諸国と同じような憲法と議会を整備し、近代国家になるのです。
しかしあまりにも急な政治体制の変革の為に、政府は憲法の制定や議会の準備まで手が回りません。
封建時代の武士だった薩長土肥出身の政府幹部には、自由とか民権の重要性が理解されて居ません。その上、高額の租税を全国の人々から徴収しようとします。
社会は混乱し、地方での打ちこわしや犯罪が増加し、それを地方のリーダー達が自主的に防いで安全な生活を守らないければなりません。そんな中で明治10年には西郷隆盛による西南戦争さえ起きたのです。社会は混乱を極めていました。
明治元年から23年の総選挙に続く第一回の帝国議会の開会まで、中央政府の統制が行きとどかず、地方地方で自治的に安全な生活を守ったのです。
このような社会混乱の中に個人の自由と民権の拡大を主張する運動が起きたのです。運動に参加したのは地域のリーダー達でした。豪農や豪商たちでした。教養のある知識人達でした。その運動は板垣退助の自由民権の主張に刺激されて全国に広がって行ったのです。
このような明治初期、23年間の地方における自由民権運動の歴史を学校教育では殆ど教えません。板垣退助が自由民権運動を指導したという事だけで終わります。地方地方の自由民権運動は歴史の闇に忘れられて行きます。
ところが町田市には市立の自由民権資料館があるのです。何故、町田市にあるのでしょうか?簡単に言えば明治初年の神奈川県と現在の東京都の三多摩地方で自由民権運動が非常に盛んだったからです。そしてその中心は現在の町田市にあったからです。当時、東京の三多摩地方は神奈川県に属していたのです。東京23区の外側で自由民権運動が盛んに行われていたのです。
江戸の近辺の人々は心情的に薩長土肥があまり好きではなかったのかも知れません。そして近藤勇の門弟や関係者が自由民権運動に多数参加していたのです。いろいろな事情や原因が複雑に関係しながら自由民権運動が燃え上がって行ったのです。
現在の あきる野市五日市で活躍していた自由民権運動家は「日本帝国憲法草案」まで作成し、発表したのです。
このような地方の活き活きした歴史の断面を明快に展示してあるのが町田市立自由民権資料館です。普通の図書館には無い貴重な本や資料を蒐集しています。神奈川県と東京23区の外側の明治の歴史書が丁寧に集めてあります。
図書室だけでなくビデオも自由に見られます。当時の自由民権家の写真や手紙などが展示してあります。展示が明快です。自由の重要さを21世紀の私へ力強く語りかけています。
こういう博物館には必ず優秀な学芸員が居るものです。私は新撰組の活動が明治初期の自由民権運動へ繋がっていると思い、学芸員の説明をお願いしました。
出て来てくれた方は杉山 弘さんという学芸員でした。私の質問を注意深く聞き、新撰組が直接自由民権運動に関係するという考えの誤りをいろいろな視点から説明してくれました。そして同志社大学人文科学研究所が2004年に出版した「幕末から明治へー時代を読み解く」という本を貸してくれました。そして鶴巻孝雄著「新撰組と武州多摩の人びと」という論文のコピーをとって下さいました。近藤勇がどのような政治感覚を持って京都へ行ったかについてはもう少し調べてから別に記事として書いて見たいと思います。
学芸員の杉山 弘さんへ感謝の意を表して終りと致します。下に町田市立自由民権資料館の写真を示します。
それはそれとして、
今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。藤山杜人