後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

昔の2人のマイフレさんからこんな投書を頂きました

2011年05月15日 | 日記・エッセイ・コラム

今朝、別れの言葉・・・ネット社会から実社会へ帰る時の挨拶 という記事を掲載しました。そうしたらご当人のサッチ~さんとその親友のジャンさんから以下のような投書を頂きました。

大変嬉しかったので皆様へもご紹介したいと存じます。

=====サッチ~さんからの投書======

昨日この一つ前の日記に藤山様がお書きになられた「決別の辞」を拝読し、心がほんわりとなりました。
私が藤山様のブログに惹かれる理由の一つは「どうやって生きて死ぬか」の「賢明さと潔さ」がわかりやすく楽しく書かれているからです。

今回のご友人との「決別の辞」もとても素敵な「友人との別れ方」ですね・・・
オチも最高でした(大笑)
心に残り、再度読み返したいと思い、今朝もこちらを尋ねましたところ、昨年の私のつたない「決別の辞」が載っていて驚愕とともに赤面です(汗)
本当に「趣味人」でのことは忘れていただきたいです(笑)

昨日タモリがMCをしている「世にも奇妙な物語」というTV番組でバーチャル社会での出会いと思い込みと勘違いをネタにしたショートストーリーを見て、「リアルとバーチャル」の狭間で不安定になってしまった当時の自分を思い出していたところでした。

藤山様のブログからネット社会での「人との付き合い方」も教えていただいております。

これからもよろしくお願いいたします。

再掲ありがとうございます。藤山様とサッチーさんに遭遇で来た事は
人生の宝物です。今まさに昨年読んだ本、ブラックスワンの流です。運命は自助力でコントロールできるかもという過信は9.11,3.11の重大事件に虚をつかれ混沌が世界を凌駕する。そしてブラック・スワンによって打ち砕かれる。黒い白鳥を利用する方法の導入も辛い哀しい別れも乗り越えられるのが諦めない人の叡知と情熱です。
とほきわかれに たへかねて…島崎藤村の『若菜集』『高楼』から惜別の歌    http://j.mp/ikDa9N《くちびるに歌を持て。心に太陽を持て》ツェーザル・フライシュレン   ・?o・?


今日の散歩・・・花々を見ながら近所の住宅地を歩く

2011年05月15日 | 日記・エッセイ・コラム

キングサリの咲いている自宅の玄関を出て北の方へ歩いて行きました。

途中にナンジャモンジャの並木道があり今日の強風で花吹雪になっています。更に住宅地の中にある林の中の遊歩道を歩いて行くといろいろな花が足元に咲いています。下の3枚の写真は順に、ショカツサイ、アグロステンマ、クレマチス(鉄線)です。近所を歩いて見ると随分と花の手入れを熱心にしている家が多いことに感心します。花の写真をお楽しみ頂ければ嬉しく思います。

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原子力発電を推進した中曽根康弘氏の責任と罪

2011年05月15日 | 日記・エッセイ・コラム

明治維新以来、日本は実に様々な先進技術を欧米から急速に導入して来ました。多くの場合はその技術の導入の中心人物が明確でなく、複数の政治家や会社経営者や技術者が少しずつ違う理由ながら協力しています。

しかし原子力技術は例外で、中曽根康弘氏が中心になって戦後日本の復興の為に導入したのです。勿論、原子力関係の幾人かの学者もその導入を主張しましたが、中曽根氏の貢献は絶大でした。従って原子力発電の導入の責任者は中曽根康弘氏と明確に言う事が出来るのです。

一般的に外国の先進技術を導入すれば日本の経済発展と技術レベルの向上へ大きな貢献をするものです。ですから原発の導入は中曽根氏の功績であり、日本の経済成長へ大きな貢献をしたと評価できます。

しかし今回の福島原発の大事故が起きた後では別な評価をする人々が居ても不思議ではありません。こんな危険な技術を導入した中曽根氏は責任をとって罰を受けるべきと感情的に叫ぶ人が居るかも知れません。

しかし冷静に考えればそれは荒唐無稽な考え方と理解出来る筈です。危険な技術か否かは結果論であり、導入を推進した政治家には罪が無いのです。

その上、その技術を使用して利潤を上げた東京電力株式会社にも刑法上の罪はありません。それが法治国家というものです。

しかしその危険な技術に充分な津波対策もしないで莫大な利潤を上げた東京電力は避難を強いられた人々や風評被害で収入が減少した農民や漁民へ充分な損害賠償をする責任があります。民法上の損害賠償の訴訟が将来、数多くおきるのは当然です。

その上、国策として原子力発電を東京電力へ勧めた政府にも損害賠償の間接的な責任があります。ですからこそ政府は東京電力の賠償資金へ支援をするのです。

東京電力は民法上の責任があり、それを履行しなければ罰を受けます。

日本が成熟した法治国家であるとすれば以上で全てが解決です。

しかし、東京電力が情報を隠蔽し、さらに賠償金の支払いを可能な限り少なくし、支払いも延期するとしたら被害を受けた人々の損害は一層大きくなります。人権も蹂躙されます。ですからこそ我々は東京電力を厳し過ぎるくらいに監視し、意見を発表しなければいけないと信じています。

結論を簡単に言えば、「 原子力発電を推進した中曽根康弘氏には一切の責任はありません。したがって罪は無いのです」、という事になります。

しかし原子力技術は深いところで軍事的な抑止力になる可能性があります。その事については、「全ての先進技術は日本の防衛に寄与する」とう主題で、何回かにわたって日本の国家としての安全・独立と先進技術の関係を連載して行きたいと考えます。この連載は上に書いた記事の続編です。どうぞ続編もよろしくお願い致します。(続く)


中曽根康弘氏は何故、原子力技術導入を推進したか?

2011年05月15日 | 日記・エッセイ・コラム

昭和26年のサンフランシスコ講和会議の調印まで、アメリカなどの戦勝国は日本の航空機産業や原子力産業、そして全ての武器関連産業を厳重に禁止して来ました。

その禁じられて来た産業が昭和26年に解禁になりました。その時いち早く原子力技術をアメリカから導入したのが中曽根康弘衆議院議員でした。社会党の松前議員の熱烈な協力を得て、共産党以外の全ての政党の合意のもとに原子力技術の導入をすすめた中心人物が中曽根康弘氏だったのです。

その中曽根氏が先日のテレビ記者のインタビューで、原子力技術に飛びついた心境とその後の法整備や推進策について率直に話していました。

簡単に言いいますと、「日本がアメリカに負けたのは広島、長崎の原爆によってです。アメリカに追いつき、日本が世界の一流の国になるにはその原子力技術を導入し、その分野で世界一流にならなければいけません」という信念を持っていたのです。原爆へたいする恐怖感で反対されるので「原子力の平和利用」を盛り込んだ「原子力基本法」を成立させたのは、昭和29年でした。日本にはまだ敗戦の荒廃が残っていた時代でした。そして隣の韓国では朝鮮動乱の終り頃でした。

原子力技術は放射線の医学分野での利用にも広く応用されましたが、原子力発電所の建設へも活用されました。さらにプルトニウムの生産に利用される高速増殖炉は原爆の原料も作れます。

種々の原子炉の組立て技術や運転技術は原子力潜水艦の運転や廃船にも活用されます。

要するに全ての科学技術は平和目的にも軍事技術にも使えるのです。科学技術は永遠に両刃の剣なのです。

原発反対運動をしている人々は原発技術は原爆や核兵器へ間接的に寄与すると反対しています。その言い方には少しの真理が含まれているのも事実です。

次回から、「全ての先進技術は日本の防衛に寄与する」とう主題で、何回かにわたって日本の国家としての安全・独立と先進技術の関係を連載して行きたいと考えます。

原子力発電も例外ではありません。その導入部として中曽根康弘氏の写真と、海軍時代の経歴をWikipedea から以下に転載します。

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出生から大学卒業・内務省入省まで

群馬県高崎市に材木商・中曽根松五郎の次男として生まれた。生家は関東有数の材木問屋「古久松」である。敷地は3ヘクタール(3万平方メートル)もあって、そこに住居と工場があり、働いている職人が中曽根の学生時代には150人、住み込みの女中が20人ぐらいは常時いたという[2]

地元の小学校へ進学後、旧制高崎中学旧制静岡高校を経て東京帝国大学法学部政治学科へ進む。

同大学を卒業後、内務省に入省。同期入省組に早川崇小沢辰男大村襄治らがいた[3]

海軍時代

短期現役制度に応募し、1941年(昭和16年)8月に大日本帝国海軍海軍経理学校'にて初任教育を受ける。海軍主計中尉に任官、海軍主計科士官となって連合艦隊に配属されると、第一艦隊第六戦隊の旗艦である巡洋艦青葉に乗艦し、高知県土佐湾沖の太平洋上で猛訓練を受けた。

同年11月20日に転勤命令が下り、広島県呉市の司令部に緊急配属されると、第二設営隊の主計長に任命され、参謀長より、工員2000名に多少の陸戦隊をつけて、敵の飛行場を奪取し、すぐに零戦を飛べるようにしろとの命令を受ける。この時の目的地と物資の量は「蘭印(インドネシア)三ヵ月分、比島(フィリピン)三ヵ月分」だった。それから出航する29日までは、昼間は編成に明け暮れ、夜は積み込みの指揮で、ほとんど寝る暇もなかったという。

29日は予定通り、14隻の船団で出航。中曽根は「台東丸」に乗船。この船にはかなりの刑余者(前科のある者)がおり、大学を出て海軍で短期訓練を受けただけだった中曽根は一計を案じ、全員を甲板に集めた。この中から一番凄そうな親分肌の者を選んで班長にすると、後で自らの部屋である主計長室にその男を呼んだ。そして、やってきた古田と名乗る前科八犯の男と酒を呑み交わし、人心掌握に努めた。

1941年12月7日太平洋戦争に突入すると、最初はフィリピンのミンダナオ島ダバオに敵前上陸することとなる。上陸戦闘は獰猛なモロ族と闘い、アメリカ軍のボーイングB-17爆撃機の猛爆撃を受けた。また明け方近くになると、決まってB-17がやってきたという。

次にボルネオ島のバリクパパンに向かうのだが、途中のマカッサル海峡で14隻のうち、4隻が撃沈される。そしてようやくバリクパパンの湾に入って上陸しようとしたら、オランダイギリス巡洋艦から、いきなり攻撃を受けてしまう。こちらには軽巡洋艦神通がついていたが、船団の中に取り込まれてしまって身動きが取れない状態だった。中曽根が乗船している前後左右の4隻は、あっという間に撃沈されてしまい、さらに接近してきた敵艦から副砲や機関銃で攻撃され、それが船尾に当たり火災が発生してしまう。

消火班長でもある中曽根は飛んでいって火消しを行うが、そこは阿鼻叫喚の地獄絵図になっており、手や足が吹っ飛んでいるもの、血だるまになり「助けてくれ」とうめくもの。そしてどこからか「古田班長がやられている」という声に誘われて行ってみると、古田が誰かに背負われていた。足は砲弾にやられて皮一枚でようやくつながっており、中曽根に「隊長、すまねえ」とだけいうと、すぐに息を引き取った。この戦いで戦死した仲間達の遺体は、バリクパパンの波が打ち寄せる海岸で、荼毘火葬)に付した。中曽根はそのときの思いを俳句にして詠んでいる。

友を焼く 鉄板を担ぐ 夏の浜

夏の海 敬礼の列の 足に来ぬ

当時の経験を振り返り、中曽根はこう語った。

「彼ら、戦死した戦友をはじめ、いっしょにいた二千人は、いわば日本社会の前線でいちばん苦労している庶民でした。美辞麗句でなく、彼らの愛国心は混じり気のないほんものと、身をもって感じました。『私の体の中には国家がある』と書いたことがありますが、こうした戦争中の実体験があったからなのです。この庶民の愛国心がその後私に政治家の道を歩ませたのです[4]

中曽根はその後も主計将校として従軍し1944年10月の「捷一号作戦」(いわゆる「レイテ沖海戦」)には戦艦長門」乗組みの主計士官として参加し、戦闘記録の作成に当たっている。

終戦時の階級は海軍主計少佐であった。


別れの言葉・・・ネット社会から実社会へ帰る時の挨拶

2011年05月15日 | 日記・エッセイ・コラム

ネット社会は架空の社会です。しかし私はそこへ入ったお陰で世の中の広さを知りました。人生観も変わりました。他人の暖かさにも感動しました。幾人かの方々とは実際に交流して頂き、深い感謝の思いが心の底に溜まっています。ネット社会のお陰で私は大きな心の財産を作れたのです。

しかし、このネット社会とも何時かはお別れしする時が必ずやって来ます。その折にはどのような別れの言葉を書いたら良いのでしょうか。時々、そんな感慨を覚えます。

そんな事を考えていたら、丁度一年ほど前に「別れの言葉」を書いてネット社会から去って行った一人のマイフレさんを思い出しました。

サッチーさんという趣味人倶楽部の方が、退会するにあたって書いた挨拶文です。

彼女は幻想的な美しい小説を書きます。以前、このブログで、「サンタクロースは居るんだよ」という短編小説をご紹介しました。

趣味人倶楽部に1年間だけ居たのですが、その感性豊かな文章のために友人も非常に多く出来ました。

しかし、昨年の6月末をもってネット社会から消える決心をしました。

当時、彼女の許しを頂いたので、退会の挨拶文を一年後に再び転載します。

別れは惜しいが、自らネット社会を去り、実社会へ帰る決心をした事が書いてあります。ネット社会の空虚性に飽きたのかも知れません。

この記事の最後に、彼女の親友のジャンさんの作品のイラストを掲載致します。美しいイラストを2度程転載させて頂いた中の一つです。

=====サッチーさんの趣味人倶楽部退会の挨拶文=========

サッチーサッチ~ユリビーバーチルとHN(ニックネーム)を変えて、ここで一年間暮らしていました。

MF(マイフレンド)になってくださった皆様はもちろんですが、伝言でお話してくださった皆様、日記や作品を読んでくださった皆様、コメントや応援メッセージを下さった皆様、創作にファン登録をしてくださった皆様、
ありがとうございました。
ネット初心者で失礼も多々あったとは思いますが、お許しください。言葉の大切さと難しさをあらためて認識しました。
私は世間を、人の気持ちを、よくわかっていなかったのだなと反省しています。
皆様に教えていただいたことを大切に、生きていきたいと思います。最後に今の気持ちを書いて退会することにしました。
 「不安の季節」
 ・・・更年期と思春期は、よく似ていませんか?http://smcb.jp/sosaku/35308
 実家の相続がこじれて、不安な気持ちをここで紛らわせていました。相続は争続になり、まだまだ続きそうです。現実から逃げたい気持ちが、ネットの深海に私を誘います。
夜になると、サイトの中を徘徊してしまい・・・それはまるで、若い頃に繁華街を徘徊していた気持ちと似ています。でも他人の寂しさは救えない・・・自分の寂しさからも逃れられない・・・このままではネット依存症になってしまいそう・・・自分の弱さが怖くなりました・・・甘えたことを言っていないで、果たすべき責任を果たし終わらなければ・・・現実と向き合わなければなりません・・・リアルの世界に戻ります。
作品は「Eエブリスタ」にアップしていきたいと思っています。
HN
(ニックネーム)は季節の花、釣鐘草の「カンパニュラ」です^^ご縁がありましたら、そちらでお付き合いください。
ありがとうございました。http://www.youtube.com/watch?v=yV7lwpw1ZIs&fea..
これからは早寝早起きしようと思ってます^^

=================終わり===============

サッチーさんの実生活が幸多いことをお祈りします。

そして皆様のご健康と平和を、今日もお祈り致します。藤山 杜人

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