昭和26年のサンフランシスコ講和会議の調印まで、アメリカなどの戦勝国は日本の航空機産業や原子力産業、そして全ての武器関連産業を厳重に禁止して来ました。
その禁じられて来た産業が昭和26年に解禁になりました。その時いち早く原子力技術をアメリカから導入したのが中曽根康弘衆議院議員でした。社会党の松前議員の熱烈な協力を得て、共産党以外の全ての政党の合意のもとに原子力技術の導入をすすめた中心人物が中曽根康弘氏だったのです。
その中曽根氏が先日のテレビ記者のインタビューで、原子力技術に飛びついた心境とその後の法整備や推進策について率直に話していました。
簡単に言いいますと、「日本がアメリカに負けたのは広島、長崎の原爆によってです。アメリカに追いつき、日本が世界の一流の国になるにはその原子力技術を導入し、その分野で世界一流にならなければいけません」という信念を持っていたのです。原爆へたいする恐怖感で反対されるので「原子力の平和利用」を盛り込んだ「原子力基本法」を成立させたのは、昭和29年でした。日本にはまだ敗戦の荒廃が残っていた時代でした。そして隣の韓国では朝鮮動乱の終り頃でした。
原子力技術は放射線の医学分野での利用にも広く応用されましたが、原子力発電所の建設へも活用されました。さらにプルトニウムの生産に利用される高速増殖炉は原爆の原料も作れます。
種々の原子炉の組立て技術や運転技術は原子力潜水艦の運転や廃船にも活用されます。
要するに全ての科学技術は平和目的にも軍事技術にも使えるのです。科学技術は永遠に両刃の剣なのです。
原発反対運動をしている人々は原発技術は原爆や核兵器へ間接的に寄与すると反対しています。その言い方には少しの真理が含まれているのも事実です。
次回から、「全ての先進技術は日本の防衛に寄与する」とう主題で、何回かにわたって日本の国家としての安全・独立と先進技術の関係を連載して行きたいと考えます。
原子力発電も例外ではありません。その導入部として中曽根康弘氏の写真と、海軍時代の経歴をWikipedea から以下に転載します。
出生から大学卒業・内務省入省まで
群馬県高崎市に材木商・中曽根松五郎の次男として生まれた。生家は関東有数の材木問屋「古久松」である。敷地は3ヘクタール(3万平方メートル)もあって、そこに住居と工場があり、働いている職人が中曽根の学生時代には150人、住み込みの女中が20人ぐらいは常時いたという[2]。
地元の小学校へ進学後、旧制高崎中学、旧制静岡高校を経て東京帝国大学法学部政治学科へ進む。
同大学を卒業後、内務省に入省。同期入省組に早川崇や小沢辰男、大村襄治らがいた[3]。
海軍時代
短期現役制度に応募し、1941年(昭和16年)8月に大日本帝国海軍の海軍経理学校'にて初任教育を受ける。海軍主計中尉に任官、海軍主計科士官となって連合艦隊に配属されると、第一艦隊第六戦隊の旗艦である巡洋艦青葉に乗艦し、高知県の土佐湾沖の太平洋上で猛訓練を受けた。
同年11月20日に転勤命令が下り、広島県呉市の司令部に緊急配属されると、第二設営隊の主計長に任命され、参謀長より、工員2000名に多少の陸戦隊をつけて、敵の飛行場を奪取し、すぐに零戦を飛べるようにしろとの命令を受ける。この時の目的地と物資の量は「蘭印(インドネシア)三ヵ月分、比島(フィリピン)三ヵ月分」だった。それから出航する29日までは、昼間は編成に明け暮れ、夜は積み込みの指揮で、ほとんど寝る暇もなかったという。
29日は予定通り、14隻の船団で出航。中曽根は「台東丸」に乗船。この船にはかなりの刑余者(前科のある者)がおり、大学を出て海軍で短期訓練を受けただけだった中曽根は一計を案じ、全員を甲板に集めた。この中から一番凄そうな親分肌の者を選んで班長にすると、後で自らの部屋である主計長室にその男を呼んだ。そして、やってきた古田と名乗る前科八犯の男と酒を呑み交わし、人心掌握に努めた。
1941年12月7日に太平洋戦争に突入すると、最初はフィリピンのミンダナオ島のダバオに敵前上陸することとなる。上陸戦闘は獰猛なモロ族と闘い、アメリカ軍のボーイングB-17爆撃機の猛爆撃を受けた。また明け方近くになると、決まってB-17がやってきたという。
次にボルネオ島のバリクパパンに向かうのだが、途中のマカッサル海峡で14隻のうち、4隻が撃沈される。そしてようやくバリクパパンの湾に入って上陸しようとしたら、オランダとイギリスの巡洋艦から、いきなり攻撃を受けてしまう。こちらには軽巡洋艦神通がついていたが、船団の中に取り込まれてしまって身動きが取れない状態だった。中曽根が乗船している前後左右の4隻は、あっという間に撃沈されてしまい、さらに接近してきた敵艦から副砲や機関銃で攻撃され、それが船尾に当たり火災が発生してしまう。
消火班長でもある中曽根は飛んでいって火消しを行うが、そこは阿鼻叫喚の地獄絵図になっており、手や足が吹っ飛んでいるもの、血だるまになり「助けてくれ」とうめくもの。そしてどこからか「古田班長がやられている」という声に誘われて行ってみると、古田が誰かに背負われていた。足は砲弾にやられて皮一枚でようやくつながっており、中曽根に「隊長、すまねえ」とだけいうと、すぐに息を引き取った。この戦いで戦死した仲間達の遺体は、バリクパパンの波が打ち寄せる海岸で、荼毘(火葬)に付した。中曽根はそのときの思いを俳句にして詠んでいる。
友を焼く 鉄板を担ぐ 夏の浜
夏の海 敬礼の列の 足に来ぬ
当時の経験を振り返り、中曽根はこう語った。
「彼ら、戦死した戦友をはじめ、いっしょにいた二千人は、いわば日本社会の前線でいちばん苦労している庶民でした。美辞麗句でなく、彼らの愛国心は混じり気のないほんものと、身をもって感じました。『私の体の中には国家がある』と書いたことがありますが、こうした戦争中の実体験があったからなのです。この庶民の愛国心がその後私に政治家の道を歩ませたのです[4]」
中曽根はその後も主計将校として従軍し1944年10月の「捷一号作戦」(いわゆる「レイテ沖海戦」)には戦艦「長門」乗組みの主計士官として参加し、戦闘記録の作成に当たっている。
終戦時の階級は海軍主計少佐であった。
昨日この一つ前の日記に藤山様がお書きになられた「決別の辞」を拝読し、心がほんわりとなりました。
私が藤山様のブログに惹かれる理由の一つは「どうやって生きて死ぬか」の「賢明さと潔さ」がわかりやすく楽しく書かれているからです。
今回のご友人との「決別の辞」もとても素敵な「友人との別れ方」ですね・・・
オチも最高でした(大笑)
心に残り、再度読み返したいと思い、今朝もこちらを尋ねましたところ、昨年の私のつたない「決別の辞」が載っていて驚愕とともに赤面です(汗)
本当に「趣味人」でのことは忘れていただきたいです(笑)
昨日タモリがMCをしている「世にも奇妙な物語」というTV番組でバーチャル社会での出会いと思い込みと勘違いをネタにしたショートストーリーを見て、「リアルとバーチャル」の狭間で不安定になってしまった当時の自分を思い出していたところでした。
藤山様のブログからネット社会での「人との付き合い方」も教えていただいております。
これからもよろしくお願いいたします。