後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「正論かも」さんとの対話

2011年05月03日 | 日記・エッセイ・コラム

「正論かも」さんから幾つかのご質問を頂きました。不勉強な私なので正確なお答えは出来ません。しかし私の個人的な感じ方を書いて見ようと思います。どうもあんまり出来の良い答えではありませんが、ご笑覧下さい。

(1) キリスト教にどうしても分からないことが2点ほどありまして、質問させて頂きます。

 その一つです。 藤山様もお書きのように「悪い事をすると罰を与える怖い神」です。アダムとエバの(禁断の果実)、ノアの箱舟と洪水、バベルの塔、ソドムの町とロトの妻、エジプトのすす・ひょう・イナゴ などの物語を見れば納得します。
 その時代というのは、多くの人達が文字を読めないとか、貧しくて原始的な生活をしていたものと想像されます。貧しさが故に、無知が故に、犯罪などもおこっていた場合もあったのだと思われます。 お釈迦様が仏の道を説かれた<人を見て法を説け> のように、当時の人達には、怖い神の話を説き、悪を戒めたのでしょうか。

答え:私は原始的な人間社会でも犯罪は現在よりも多いとは思っていません。しかし裁判制度が現在のように整備されていないので、長老やの世話人が悪い事をした人を戒め、罰を与えていたのだろうと想像しています。その時、怖い神の罰も話して戒めていたと思います。

(2) 又、<ユダヤ教もイスラム教も旧約聖書とほぼ同じような内容の書を聖典としています。つまりこの3つの宗教は親類なのです。> 

ところが、宗教間の争いは今でも続いております。リビアに地上軍が降りられないのは、宗教の問題があるからですよね。

愚かな事を書いているのかもしれませんが、<罰が下る>という指向性が宗教でも思想でも、その中にあれば、人を罰する(攻撃する)ことに必然性が生まれてくるように思われるのです。 私には、悪いことをしなくてすむ社会が理想だとどうしても思えるのです。

答え:親類同士の仲がいったん悪くなると他人同士より激しい憎悪をもって争います。3つの宗教は特に同じ地域で布教する事になったので益々争いが激しくなったのかも知れません。神の罰を重視する指向性は攻撃的な宗教になったのかも知れません。

しかし人間の間や部族間、あるいは国と国の争いは宗教より根源的な人間の本性で、宗教はその争いの道具に使われているのかも知れません。いろいろなものの見方がありますね。

(3)二つ目のことを書かせて頂きます。女性の服装についてです。 テレビなどでもそうですが、道行く女性も肌の露出が多いですね。

イスラム圏の女性の服装・・・ ヒジャブ、ブルカ、ニカーブ、チャドル、ブルキニ・・など殆んど肌は露出しません。インドはチュリダー、サリー・・これも殆んど肌は露出しません。

仏教圏・・・タイなどの敬虔な仏教国では肌の露出の高い服装は場所によってはNGですね。 日本は伝統的には和服で着物や浴衣で肌は露出しません。

赤道に近い地域の人々などでも肌を出しません。しかし女性が人前で肌を露出しても平気なのは、大雑把にいえばキリスト教圏が多いと言えるのではないかと思っています。

 肌を露出することがいけないと言っているのではないのですが、もう少しその意味を考えた方が良いのではないのかなとは思っております。 女性解放の一環と見る向きもあるようですが。

答え:同感です。カトリックは肌を出す事はいけない事ですが、プロテスタント圏では自由です。どうしてなのか考えています。女性の解放と肌を見せる事は関係ないと思います。無思慮な女性解放運動家の間違いと思います。

(4) 話は全然変わりますけれども、先生は、魯迅の研究をされていた丸尾常喜先生をご存知ですか。 日高市にお住まいの頃、お伺いしたことがありました。2008年にお亡くなりになりましたが、とっても残念です。 ご存知かもしれないと思いまして、書かせて頂きました。

 答え:魯迅は尊敬しています。作品も少し読みました。仙台の東北大学の医学部に留学していたので、私も含めて仙台の人は魯迅を尊敬しています。

丸尾常喜先生の事は今回調べて略歴を知りました。東大で魯迅の研究を一生していた方ですから人格も立派な方と信じています。その方とお会いし、話をされた事は素晴らしいご経験だと思います。本当に良かったです。

以上で、とりとめも無い答えを終りと致します。失礼致しました。(終り)


原子力発電のための法律が出来た1950年代と2011年の世界情勢を比較しよう!

2011年05月03日 | 日記・エッセイ・コラム

人々の考え方や、社会は時代とともに大きく変わります。世界情勢も変わります。原子力を用いた核爆弾や原子力発電についての人々の考え方も時代と共に変わるのが自然です。時代が変われば法律も改正するのが正しい民主主義ではないでしょうか?

1954年当時、原子力の平和利用として、発電施設を作るために原子力基本法が出来ました。その法律も時代に合わなくなります。改正したほうが良い部分は変えるべきではないでしょうか?

当時としては、原発の開発は日本にとって最善の選択だったかも知れません。しかし2011年になってみると、それが最善の選択とは言えないかも知れません。

そいう観点でもう一度原発を考えなおそうというのが私の主張したい事なのです。

今朝の掲載記事、に続いて時代の変化によって原子力を取り巻く世界情勢がどのように変わったか?そして日本人の考えがどのように変わったかという問題を取り上げて行きたいと思います。皆様からのコメントをお待ちしています。よろしく御願い申し上げます。


危険な原子力発電を導入した人々の責任と罪(2)殺伐とした時代に出来た原子力開発関連法

2011年05月03日 | インポート

日本がまだ戦後の貧困で殺伐としていた時代の1954年に、原子力開発関連法が出来たのです。その時代背景を考えないと何故今回の福島原発の事故が起きたのかが深く理解出来ないと思います。そこで廻りくどいようですが我が国の原子力開発の歴史を考えてみる事にしました。

1954年当時、アメリカとソ連は激しい冷戦関係にあり国際的にも緊張していました。やっと独立国家になった日本が国際舞台で認められる為には原子力開発レースに勝利する事が重要だったのです。少なくとも、そのように信じて関連法を作っていった一群の政治家が居ました。改進党の中曽根康弘、稲葉修、斎藤憲三、川崎秀二らでした。日本中が貧困に喘いで、殺伐とした時代でした。原子炉の危険性へ留意する権力者など誰も居ませんでした。

勿論原子力開発へ反対人々も居ましたが、その運動は反映されなかったのです。当時は現在のような個人の自由も個人の尊厳も認められていない権力構造の社会だったのです。

1945年、敗戦後、日本ではアメリカから原子力や航空機に関する研究が全面的に禁止されていたのです。しかし1952年にサンフランシスコ講話条約が発効したため、原子力や航空機の研究は解禁されることとなりました。

その結果を受けて日本では原子力発電に関する2つの大きな法体系が出来たのです。

(1)その一つは外国から輸入した商用原発を数多く作るための原子力基本法に関連する法体系です。

(2)もう一つは国家予算を使用して発電をしながら核燃料を増殖できる「高速増殖炉」の開発の為の法体系です。

この関連の法体系は、動力炉・核燃料開発事業団(略して、動燃と呼ぶ)の設置と運用、そして増殖炉である「常陽」と「もんじゅ」の建設、稼働を可能にするいろいろな法律群です。

この2つの法体系の第一の法律群をもとにして作られたのが福島原発です。合法的に作られ、稼働していました。原発は全て外国から輸入された商用の発電施設です。

第二の法体系によって開発され、現在故障している高速増殖炉の「常陽」と「もんじゅ」です。この2つは国家予算で開発され研究中の施設です。

以上の様な原子力発電の歴史を見ていると、その開発と実用は戦後日本の国家的な悲願であったと考える事が出来ます。

今回は一旦ここで終了して、原発の危険性を当時の日本人はどのように考えていたかという考察をして見たいと思います。尚、下にもう少し詳しい参考資料を2つ付けてあります。出典はWikipedeaです。 (続く)

今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。藤山杜人

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参考資料(1)原子力発電施設の輸入、設置、稼働に関する法体系の成立

日本における原子力発電は、1954年3月に当時改進党に所属していた中曽根康弘稲葉修齋藤憲三川崎秀二により原子力研究開発予算が国会に提出されたことがその起点とされています。続いて、1955原子力基本法が成立し、原子力利用の大綱が定められたのです。そして基本法成立を受けて1956原子力委員会が設置されました。

19566月に日本原子力研究所茨城県那珂郡東海村に設置されました。1957年には、電気事業連合会加盟の9電力会社および電源開発の出資により日本原子力発電株式会社が設立されたのです。日本で最初の原子力発電が行われたのは196310月26で、東海村に建設された実験炉で初発電を行ったのです。

これに引き続いて全国の電力会社がつぎつぎと原子力発電所を作って行ったのです。

参考資料(2)高速増殖炉開発に関連する法体系の整備

動力炉・核燃料開発事業団動燃)は、1967原子燃料公社を母体に発足した、高速増殖炉および新型転換炉の開発を専門とする事業団である。核燃料サイクルの中核施設で、高レベル放射性廃棄物および使用済み核燃料再処理工場を持つ。1998核燃料サイクル開発機構として改組された後、200510月には日本原子力研究所と統合され、独立行政法人日本原子力研究開発機構に再編された。

1960代の高度経済成長期に、日本エネルギー問題の活路を原子力発電に求めた。しかし、原子炉開発の技術力の無い当時の日本にとっては、国産の原子炉は遠い目標に過ぎず、安価な海外の原子炉を輸入した方が経済面においても負担が少ないため、国内の電力会社は、出来合いの輸入原子炉を次々と取り入れていた。さらに、燃料である低濃縮ウランの製造には軍事機密が多く、これも海外からの輸入に頼るほか無かった。

エネルギー資源の乏しい日本は、発電しながら燃料を増やすことが出来る、高速増殖炉に着目した。実現すれば、ウランの利用率は60倍に向上し、準国産エネルギーとして利用できる。しかし、当時原子力開発を行っていた日本原子力研究所(原研)は組織が不安定な状態に陥っており、原子炉の提供会社から原子炉の試験運転を規制される程であった。そこで発足されたのが同事業団であり、高速増殖炉「もんじゅ」の開発など、最先端の原子炉開発にあたっていた。

高速増殖原型炉「もんじゅ」のナトリウム漏洩事故や東海再処理施設アスファルト固化処理施設の火災爆発事事故などの不手際のため動力炉・核燃料開発事業団動燃)は1998に解体され、核燃料サイクル開発機構として改組された。その後、200510月に核燃料サイクル開発機構は原研と統合され、日本原子力研究開発機となった。