後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

今日の散歩・・・都立小山田緑地、今日はその本園を散策です

2011年05月24日 | 日記・エッセイ・コラム

4日前に、一人で行った町田市の都立小山田緑地があまりにも良かったので、今日は、家内を案内して、もう一度行きました。アクセスの方法などは4日前の記事、今日の散歩・・・里山の奥にある小山田緑地 に書いてあります。午後から急に晴天になったので多摩市の尾根道を東西に走る、眺めの良い道のドライブを楽しみながら行ってきました。

前回は梅木窪分園の山に登りましたが今日は本園の雑木林の中を散策してきました。この緑地は広大で、他に大久保分園と山中分園もあります。いろいろな季節に何度か散策に行ってみようと思っています。今日行った本園は遊歩道が整備され、子供の遊び場もあり、池もありで良く整備された公園でした。写真でお楽しみ頂ければ嬉しく思います。

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斑目原子力安全委員長の学者バカを笑う・・・その会話能力の欠如

2011年05月24日 | 日記・エッセイ・コラム

海水を注入すと再臨界の「可能性がゼロではない」と言ったと本人が断言していました。

全ての自然現象は、その起きる可能性はゼロでは無いのです。ですから学者同士が雑談するときにもよく「その可能性はゼロでは無い」という言葉を頻繁に会話の間にはさみます。これは学者村でしか通用しない外国語のようなものです。

それを炉心が爆発するかしないという修羅場に直面している役人や政治家へ言うことは非常識過ぎるのです。可能性がゼロでなければ役人や政治家は海水注水を止めます。それを想像する能力が斑目さんには欠如して居たのです。会話能力が貧弱過ぎたのです。

学者同士の会話はこのように危険な誤解を生じるという典型的な実例です。そんな事も理解していなかった斑目さんは行政へ直接アドバイスする原子力安全委員長を辞職すべきです。

可能性がゼロではない!と叫ぶ代わりに海水をガンガン注入しろ!と叫ぶべきでした。戦争の前線で負ける可能性がゼロでは無いと言う指揮官が居てはいけません。そんな事は誰でも分かっています。それを言明すれば負けると断言したと誤解されます。斑目さんは学者として優秀でしょうが首相へ進言する立場は即刻止めるべきなのです。

前に原子力安全委員長をしていたある学者が中曽根さんを批判していました。中曽根さんが原子力の平和利用を日本へ導入したと言ったと批判して居ました。「我々学者は原子力利用の研究を中曽根さんより早く始めていた」と主張していたのです。

中曽根さんの重要性を完全に無視して、自分達だけが偉いと言わんばかりの発言にこちらまで顔が赤くなりました。

原子力安全委員会は学者バカの集団なのです。これでは役人や政治家に敬遠されても仕方がありません。困ったものですね。個人的な感想を書いて見ました。(終わり)


近藤勇の政治変革への提案と、多摩地方有力者への京都情報の送信

2011年05月24日 | インポート
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新撰組の近藤勇組長を、武士道をつらぬいた男と称賛したり、反対に、無分別な暴れ者と見下げたりする人々がいます。しかしそのどちらも単純すぎる評価であり、近藤勇の実像からは遠く離れた間違った理解です。

だいいち、彼が京都から郷里の有力者17人を送付先として送った数多くの手紙には武士道とか武士という言葉が一回も出て来ません。京都の政治情報が書いてあるだけです。

幕末の京都は将来の日本の政治構造を決める重要な場所だったのです。天皇の意向で日本の将来が変わるからです。尊王攘夷か、開国自由貿易か、公武合体か、欧米流の新政府を作るか、いろいろな考えの志士が集まって闘争を続けて居たのです。薩摩、長州、会津、土佐の志士たちが争っていたのです。日本の将来を決めるのは江戸ではなく京都だったのです。

一方、近藤勇は武士出身ではないが剣術の才能があり、門弟が数百人も多摩地方に居ました。漢学の教養もあり知性も高かったので多摩の名主や豪農や豪商との付き合いも深く、彼等は幕末の政情不安定さを非常に心配していました。政変が起き、自分達の既得権が灰尽する事を恐れていたのです。そんな折に江戸幕府は浪士隊を募集したのです。

近藤勇は京都へ行って、政局の動向を直接見て、多摩地方の有力者へ送ろうと決心したようです。門弟をつれて新撰組として京都へ行ったのです。剣術が出来る集団です。幕府側は敵対する長州側との武力闘争に新撰組を使います。それが蛤御門の変であり池田屋事件です。最終的には鳥羽伏見の戦いで江戸幕府軍として参加し、負けて、幕府軍とともに船で江戸へ帰ってきます。甲府へ出撃しますが、また負けて、流山で捕まり斬首されるのです。

近藤勇の江戸幕府改革構想は彼が書いた建白書にあります。江戸の将軍が京都へ引っ越して、天皇と手を取り合って(公武合体し)、外国を締め出し(攘夷)、海岸の防備を強化し、江戸幕府が中心になって富国強兵に努力すべしというものでした。

残念ながら歴史はそのようにならず、函館で副隊長の土方歳三は戦死し、新撰組は壊滅しました。

近藤勇の人間性は悪ではありません。百姓として生まれ、剣術士の千葉周作に認められその養子になり、江戸と郷里の多摩地方を行ったり来たりしながら数百人の門弟を育て、多摩地方の名主や有力者と親交を深めていたのです。彼は剣術を得意として居ましたが、一方では郷土愛に燃えていた男だったのです。郷土の将来が心配だったのです。だれが彼を見下げたり、軽蔑することが出来るでしょうか?郷土愛と剣術の故に彼は流山の露と消えたのです。悲劇です。人生はそのように危険なものです。

以上に書いた事は全て、下にご紹介する鶴巻孝雄さんの研究論文を私なりに理解した範囲で書いた文章です。鶴巻孝雄さんの研究論文は実に実証的で、論理の構築も緻密です。ああ、本物の学者だ、と感動を覚える論文です。是非、URLをクリックして全文をお読み下さい。この論文の存在と重要性を教えて下さったのは町田市立自由民権資料館の学芸員の杉山 弘 さんです。杉山さんへ感謝の意を表します。

それはそれとして、

今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。藤山杜人

参考文献:鶴巻孝雄著、「幕末・新撰組・近藤勇研究」―多摩にもたされた新撰組情報―近藤勇書簡を読むーhttp://www006.upp.so-net.ne.jp/tsuru-hp/bakumatsu/bakumatsu-top.htm