後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

やさしかったSHさんの追悼と鎮魂の祈り

2011年05月01日 | 日記・エッセイ・コラム

今日は正午からSHさんの告別式が所沢市営斎場でありました。2ケ月だけの入院で突然旅立ちました。末期のガンだったそうです。享年78才。

優しさは一番重要な人徳と信じています。そのやさしさに溢れるSTさんでした。

もう45年も前の事です。私は本郷にある大学から大岡山の大学へ転勤になりました。若い頃に、まったく知らない大学へ転勤になったのです。怖かったです。緊張していました。こわごわ、そしておそるおそる大岡山を訪ねて行きました。その初めて行ったとき穏和な微笑みで迎えてくれたのがSHさんでした。その上、新しい職場に戸惑っていた私を勇気づけ、全ての面倒を見てくれたのです。いつもユーモアある小話をしながら私の相談に乗ってくれました。

夜には自由が丘や渋谷へよく連れて行ってくれて、一緒にビールを飲んでくれました。私は彼の為に何もしないのに、彼は好意と誠意を私へ送ってくれるのです。無償の好意です。何故か優しい兄を持ったような感じでした。5年間いつも同じように穏やかに接してくれました。

当時、STさんは大岡山の大学で助手をしながら金属の物理研究をしていました。その成果が実り、やがて工学博士の称号をとりました。そして国立の長岡高等工業専門学校の教授として迎えられたのです。

大岡山では彼と私は向かい合わせのデスクでした。仕事に疲れて一緒にお茶を飲みながら雑談します。ユーモア感覚があり、少しの間の雑談でも笑いが出て、疲れが飛んで行くのです。

長岡の高等工業専門学校へ去ってからも時々一緒に飲みました。長岡の学校へ招待してくれた事もあります。近所の温泉で一夕、飲んだことも楽しい思い出でした。本当の人格者でした。

長岡の学校でも学生の世話を本当に親身になってしていました。学生が可愛いのです。長岡の学校には定年まで20年務めたのです。

浜松に庭のある一戸建ての家を新築して住んでいましたが何年か前に東京の東久留米市の親の介護のために引っ越してきました。電話で、そのうち一緒に飲みましょうと話しあったのが最後になってしまいました。友達がいの無い私が、怠けて東久留米まで行かなかった事が悔やまれます。残念です。

今日、初めてお会いした奥様が、「藤山さんのブログを楽しみにして、よく読んでいましたよ」とおっしゃって下さいました。その事を知らなかったです。知らなかった自分が無性に悲しいのです。彼は最後まで私に好意を持っていてくれたのです。でも私は何もしなかったのです。

今日の告別式では昔、大岡山の研究室でSHさんが親切に世話をしていた当時の学生さんが何人か来ていました。私もよく一緒に飲んだ学生さん達だったのです。SHさんが眠っている棺の前で話をしました。SHさんが誰にでも優しくて、清らかな人格だった事を懐かしみながら話をしました。SHさんはニコニコ笑いながら聞いてくれているようです。そして49日の間はこの世にとどまり、奥様や2人のお嬢様や親類の方々の回りを飛んでいてくれる筈です。昔の学生さんの周りも飛んでくれます。このブログも読んでくれるかも知れません。

棺を送り出す前に、参列者が美しい花々をSHさんの体の周りにいれます。何度も入れます。私も真っ白い菊の花を入れた後、白い百合の花も入れました。沢山の花々に埋もれてSHさんは静かに別れて行きました。彼の生前の優しさへ感謝しながら、鎮魂の祈りを何度も致しました。

今日は蓮の花の写真で彼の冥福を祈ります。

Hasu17l1


散歩の場所として都立、きぬた公園をお薦め致します

2011年05月01日 | 写真

先日、世田谷美術館に行った折に、都立、きぬた公園をグルグル散歩して来ました。若葉が美しく、芝生が青々と茂っています。真ん中に谷戸川という小川が流れています。

環状8号線道路と東名高速道路の交わる大きな交差点の北西の角に広がっています。北端の世田谷美術館の隣には有料駐車場があり、南端の東名の高架下には美術館専用の無料駐車場があります。

兎に角気持ちの良い散歩の場所です。お薦めいたします。下はその風景です。

034 026 036


私が今日の新聞で感動した2つの記事

2011年05月01日 | 日記・エッセイ・コラム

どのような新聞をどのように読むかは人それぞれです。昔は朝日新聞を読んでいました。でもついて行けない記事が多くなったので、なんとなくしんどくなって止めました。最近は読売新聞を読んでいます。巨人ファンの家人が居るのでそのような成り行きになっています。

野球音痴の私はスポーツ欄は素通りして、国際ニュース欄を丁寧に読みます。

今日は6ページ目に感動的な記事が2つありました。

「日本人の遺骨探す中国人」という記事と、「前法王「聖人」への道」と題した記事です。

ハルビン市に住んでいる石金楷さんという53歳の男性が終戦の時亡くなった日本人の遺骨を探して丁寧に埋葬しようとしているという話です。何故、戦後生まれの中国人が日本人に恩義を感じ、尊敬し、遺骨を探すのでしょうか?

実は、石金楷さんには14歳年上の義理の兄が居たのです。兄は日本人の残留孤児でした。その兄が両親に孝行し、弟を可愛がり、家族の生活を支えたのです。

その物語が感動的な小説のように書いてあるのです。読売新聞の瀋陽支局に勤務する比嘉清太記者の文章です。現地に在住しているだけあって石金楷さんと親しくなり、彼の本音を詳細に聞きだしています。周囲の中国人の意見も丁寧に聞いています。とても読みこたえのある感動的な記事と思いました。

もう一つの記事は前のローマ法王のヨハネ・パウロ2世がカトリック教会の福者という名誉的な称号が与えられたという内容の記事です。死後6年でこの称号を与えられるのは異例の速さで、マザーテレサよりも2週間早いという記事です。

福者になれば、次は聖人の称号がいずれ与えられます。

日本には26人の聖人がいます。カトリックの信仰を捨てないで磔の上で火あぶりの刑を受けた26人です。聖者は日本だけでなく信仰に命を捧げた人々で世界中に居ます。

ヨハネ・パウロ2世はいずれその世界中の聖者の仲間に入るのです。めでたい事です。嬉しいニュースです。何故嬉しいかと言いますと、私はヨハネ・パウロ2世を尊敬し、とても好きだからです。日本に来てくれて長崎まで巡礼の旅をしました。日本語でミサを上げました。

それでけでなくヨハネ・パウロ2世は仏教やイスラム教との和解と会話を進めたのです。仏教国に住んで、カトリックの信仰を持っている私にとってそれは大変大きな慰めになりました。

そのような前のローマ法王のめでたい記事なのです。

以上は全く私の個人的な興味で書いた事です。ご興味の無い方々にとっては申し訳ありまませんでした。(終わり)


キリスト教の旧約聖書と新訳聖書の相互関係はどうなっていますか?

2011年05月01日 | 日記・エッセイ・コラム

012_2

数日前に、「正論かも」さんから、質問がありました。「旧約聖書と新約聖書の関連性はどの様になっているのでしょうか?」という質問です。キリスト教の信者であることを自称している私にとっては虚をつかれたような質問です。困惑しました。どのように答えるべきか数日考えました。

旧約聖書や新約聖書は検索するといろいろな説明があります。難しい神学的な説明から、それぞれの聖書がどのような内容や構成になっているかという平易な説明もあります。そして旧約聖書は神と人間の古い契約の書であり、新約聖書は神と人間の間の新しい契約の書であると書いてあります。

勉強家の「正論かも」さんはそんなことは既にご存知と思います。2つの聖書の内容も構成もご存知と思います。

そこで信者としての私が2つの聖書をどの様に考えているかという話をする事にしました。

(1)私は2つの聖書のどちらも重要であり、信仰はこの2つの聖書を信じる事を基本をとしています。それでは何故2つとも重要なのでしょうか?

(2)旧約では私が信じている神の事が書いてあります。悪い事をすると罰を与える怖い神です。そしてその神が天地を創造した事が書いてあるのです。キリスト教の信仰はこの神が全知全能で、全ての天地と生き物を創った事を信じる事です。そのような事が書いてあるので旧約聖書はキリスト教では非常に重要な書です。

ついでに言えばユダヤ教もイスラム教も旧約聖書とほぼ同じような内容の書を聖典としています。つまりこの3つの宗教は親類なのです。

(3)新訳聖書にはイエス様が教えた事が書いてあります。イエス様は旧約の神が人間を救うために地上へ送ってくれたのです。そのイエス様の愛を基本にした教えをいろいろな例え話を用いて説明しています。

そしてイエス様は反対勢力の人々に捕まって十字架の上で死刑にされてしまう事も具体的に書いてあります。3日後に生き返って、人々へ話しかけてから、天上に登って、神の右の座に着いた事も書いてあります。その事実を信じるのがキリスト教なので新約聖書も大変重要な書物です。

(4)上の説明では、「正論かも」さんは満足なさらないでしょう。旧約と新訳の関連性が書いていないから満足されないでしょう。

旧約聖書には後世にもし救世主(キリスト)が現れるとしたら、どのようにして生まれるかが書いてあります。その約束通りの誕生物語がマリア様の処女懐胎であり、貧しい馬屋での出産であり、東方の三博士の訪問なのです。

新約聖書に書いてあるイエスの誕生のときの物語は科学的に証明される性質のものではありません。

イエス様が本物のキリスト(救世主)である事を主張し、証明するために新約聖書に、いろいろ書いてあると解釈することも出来ます。このように旧約と新訳は密接に呼応し合っているのです。対話が出来あがっているので。

(5)イエス様が本当の救世主、すなわちキリストであるという信仰がキリスト教なのです。ですから密接に呼応し合っている旧約聖書と新約聖書の両方を同じように重要な書と信じているのです。

(6)ユダヤ教でもイスラム教でもイエス様を救世主とは信じていません。しかし数多い預言者の一人として受け入れています。

(7)蛇足を書きますと、旧約聖書は長過ぎて読むのが大変です。それに対して新約聖書は短い上に、実に分かり易い文章です。物語にダイナミックなストーリー性があって興味津々に読めます。何度よんでもニヤリとしてしまう個所もあちこちにあります。

上に書いた事は神学を勉強したこともない無学の私が書いた事ですから大きな間違いがあると思っています。しかし無学の一信者が2つの聖書をどのように思っているかを率直に書いたものです。「正論かも」さんのお答えになっていたら幸いです。

それはそれとして、

今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。藤山杜人

020