後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

私の奇妙な趣味をご紹介します

2012年02月02日 | 日記・エッセイ・コラム

奇妙な癖と言うべきか、趣味と言うべきか分かりませんが、私の趣味は墓地を徘徊することです。流石に夜は気味悪いのでしませんが、家内が出かけた時にはよく行きます。家内は墓地は怖いと言って、好きではありません。

今日は午前中から家内は文学の講読会へ行ったので、早速お寺の裏の墓地を散歩して来ました。時間に余裕があるので、五日市街道の立川市に入ったところにあるお寺まで車で行ってきました。

大抵のお寺には駐車場があり、お墓の参拝者は自由に出入り出来るように門がいつも開いています。まず下の写真のような本堂の前に行ってご本尊様へ合掌します。

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・その裏には墓地が広がっています。墓地への入り口には下の写真のようにお地蔵さんが並んで墓地を守っています。

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・お地蔵さんの前で、今日はこの墓地に眠る全ての人々の冥福をお祈りします。入っても良いですかとお聞きします。返事が無いときは入って良いということと信じています。

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・墓地の中を散策します。日清戦争や日露戦争、そして太平洋戦争亡くなった人々のお墓は特に大きく作ってあります。遺族の悲しみが偲ばれます。

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・見上げると墓地の端には大抵ケヤキの大木が聳えているものです。

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・墓地の外側はこのように広い畑になっていて、その向こうに奥多摩の山並みが見えます。

何故、私は墓地が好きになったのでしょうか?

理由をよく考えると2つあるようです。

墓地は静かです。生前に騒々しく活躍した人も、静かな人生を送った人もみんな等しく静かに眠っているのです。幼くして亡くなった人も、中年の働き盛りに亡くなった人も、老人になり天寿をまっとうした人もみんな、みんな等しく一緒に眠っているのです。そのような様子を見ると深い安堵感に包まれます。心が安らぎます。私は仏教徒ではありませんがお釈迦様の慈悲の心が感じられるのです。

もう一つの理由は個人的な理由です。私の父方の祖父が兵庫県の田舎のお寺の住職だったのです。毎年、夏になると家族と一緒にそのお寺に数日間泊まります。祖父や祖母は、年に一回しか会えない私と2人の弟を可愛がります。

全ての人が檀家になっている下のの小川へサワガニを取りに行きます。村人が親切にしてくれます。住職さんの孫達ですから大切にしてくれます。

そのは幼い私共の桃源郷だったのです。それは昭和15年、16年、17年、18年、19年の夏の日の楽しい思い出です。

近所のお寺に行くたびに、幼かった頃の楽しい思い出が湧き上がってくるのです。

昔、祖父が住職をしていたお寺は取り壊されて跡形も無くなってしまいました。高天秀嶽大和尚がその祖父の戒名です。

墓地を徘徊する趣味には、自分でもよく分からない理由が他にもまだありそうです。しかし上に書いた2つの理由は自分で納得しています。

ところで、あなたは 奇妙なご趣味をお持ちではありませんでしょうか?お知らせ頂ければ嬉しく思います。(終わり)


青い鳥を求めて故里を旅立つ人々・・・観音崎の無縁仏の墓地

2012年02月02日 | 日記・エッセイ・コラム

観音崎公園の大きな駐車場から岬の突端まで遊歩道があり、左に碧く光る浦賀水道が見渡せます。歩いて行くと気持ちが晴れ晴れする散歩道です。しかし突然暗い、恐ろしげな墓地が左下にあります。周囲をびっしりと椿の木が囲んでいるので、そこだけ暗黒の穴があいているようです。その穴の底は4畳半位の墓地になっていて、粗末な墓石が30ケ程立っています。墓石の群れの前にはいつも花が供えてあります。

「何時も」と書きましたが数年おきくらいに観音崎へ行く度に美しい花が供えてあるので、何時もと書きました。

説明板があり、幕末から明治にかけて砲台を作る工事のために働き、不運にも観音崎で死んだ人々の墓と書いてあります。観音崎には当時100個くらいの砲台があったと言われています。故郷に帰ることも出来ず、出稼ぎ先の観音崎で死んで行った人々のお墓です。小さな粗末なお墓を作るのがせいぜいだったのです。

いつも写真を撮ろうとしますが、あまりにも痛々しくて写真なんか撮ることが出来ません。観光に来て、もの珍し気に写真を撮れば、眠っている人々の感情を害すると思います。フト、墓地の向こうを見やると下のような浦賀水道が見えます。

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この写真を観音崎の無縁仏の人々の鎮魂のためにお供え致します。合掌。

歩きながら何故人々は青い鳥を求めて古里を旅立つのかと考えていました。青い鳥をつかんだ人、つかめなかった人。そして残るのは古里から遠く離れた所にある墓だけです。その墓さえ無い人々も多いのです。

突然、青い鳥を求めて八丈島を出て行った人々のことを思い出しました。彼らのその後の運命はどうなったのでしょうか?

私の知人で八丈島の郷土史家の「ながれ」さんが自分のブログで書いています。

=======八丈島から旅立った人々と、その後========

出百姓 開拓 移民 2http://nangare.blog94.fc2.com/blog-entry-75.html

明治に入ると開拓や移住が始まります。
北は北海道の名寄から南は沖縄の南大東島まで。
主なものは
 明治十九年(1886年) 鳥島 アホウドリの捕獲。全滅し世の顰蹙をかいます。現在も再生事業が行われているのは周知の事実です。

 明治三十二年(1899年)当時無人島だった南大東島を開拓。

 明治三十五年(1902年)北海道北名寄(現下川町)へ開拓移住。

 大正六年(1917年)サイパン

 大正七年(1918年)サイパン テニアンへ移住。この後、北大東島、ブラジル、台湾等。昭和に入り満州。

調べていくうちに北海道へ行ったのを今回初めて知りました。早速、下川町にお尋ねしましたところ下川町教育委員会より「下川町史」の八丈島民移住関係のコピーが送られてきました。それによりますと「八丈島からは明治三十五年24戸入植し今日の素地を作ったが次々と現地を離れ大正七年には一戸も無し」となっておりました。現在下川町には八丈島関係の、菊池、浅沼等の苗字の人はないそうです。10年程前に八丈島から九十才くらいのお婆さんが「ここで生まれました懐かしいので来ました」と尋ねてきた事があったというエピソードが書き添えてありました。その人も二年位で皆さん下川町を後にしたと言っていたとの事でした。香川県、岐阜県、福井県民も同時期に入植し、こちらはそのまま現地に留まり今日にいたっているそうです。どうして八丈島の人だけが現地から離農したのか、想像するに自分達が思っていたよりずっと寒かったのではないでしょうか。暖かい所で育った八丈島民にとって極寒の地は耐えられなかったのではないかと思います。最低気温の上位の殆んどが下川町のある上川郡ですから。====以下省略====

みんな、みんな、古里の島を旅立ってしまったのです。青い鳥をつかんだ人。つかまなかった人。お墓を作った人。作れなかった人。

日本という国は明治維新以来、世界の一流国になろうとして隆盛をきわめました。しかし静かに目を下に向け人々の運命をみると国の繁栄の陰にある人々の悲劇が見えてきます。そして、いずれは多くの人々の墓も無縁仏になってしまうのです。

お釈迦様の「死んでも墓は作らずに骨を野原に捨てよ」という遺言を思い出します。

そんな観音崎への散歩道でした。観音崎という地名が私の心のなかにこだまのように響く散歩でした。

下に神戸市にあるある墓苑の無縁仏の墓石の写真を示します。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

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Wikipedeaの無縁仏(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%84%A1%E7%B8%81%E4%BB%8F)よりお借りした写真です。