昔の日本には「インテリ」という知識階級が厳然として存在していました。分かり易く言えば、旧制の学校制度で大学を卒業した人々がインテリということになっていました。
そのインテリ達の宗教観によるとキリスト教は高等宗教で、神道やアイヌ民族の宗教は原始宗教だと言うのです。そして仏教は神の啓示を受けていないから宗教ではなく哲学の一つですと言うのです。そしていかにも日本人の宗教は原始的で、進歩が遅れていると言うのです。日本人の宗教は劣っているとも言いたげです。
私がキリスト教の信者になってみると上に書いたような宗教の理解は間違っているように感じられるのです。信仰を持たない無宗教のインテリ達の頭だけで考えるから間違ったのかもしれません。
私の感じ方を先に書けば、キリスト教にも原始宗教的な信仰が色濃く含まれているということです。土俗的な性質も含まれているのです。
そして原始宗教と高等宗教の優劣はありません。優劣を考えることほど愚かなことはありません。
その上、仏教も、それを信仰の対称とする人がいる限り、それは立派な宗教なのです。
明治維新以後の日本のインテリや知識階級は、なにやら西洋崇拝があまりにも強すぎたと私は感じています。
昨日夜は「灰の水曜日」のミサに行って来ました。そのミサの内容を実例にしてキリスト教に含まれる原始的な信仰内容をご説明したいと思います。
まず昨夜の教会の鐘楼の写真です。
ライトアップされた鐘楼を見て、私の信仰心が少し強くなりました。
一般的に言えば、鐘の音を聞かせ、高い塔を見せて信仰心を強めさせようというのは原始宗教的な感じがします。少なくとも私にはそのように感じるのです。高等宗教なら聖書だけで充分な筈です。
上の写真はベールを被った女性信者の頭に神父さんが灰をかけているところを写したものです。「人間は土から生まれて、土に返る」ことを体に刻み込んで、忘れさせないようにしているのです。このように何か特別の物質を体につけたり、振りかけたりして信仰心を強めるやり方は何故か土俗宗教的に感じられます。少なくとも私にはそのように感じられるのです。なお、「灰の水曜日」の意味は、桜花の華やかさと儚さ・・・そして今日は灰の水曜日という題目の記事で説明しました。
そして神父さんに灰をかけて貰って、「厄払いが出来た。悪霊が寄りつかなくなる」と感じたら、土俗信仰のようです。
灰の水曜日のミサでは、何時ものミサのように「イエスの体」(の一部)と神父さんが言いながら小さなパン片を信者一人一人は渡します。「イエスの体」(の一部)を食べた信者は、また一段と信仰心が強くなります。カトリックでは、「イエスの体」(の一部)を食べるのは冗談ではなく、本当にイエスの肉体の一部を食べる気分なのです。
話は飛びますが、ある未開部族では死んだ家族の骨を焼いて、粉にして食べてしまうという土俗的な風習があるそうです。時々、私はそれを思い出します。本当に愛していれば、そうするのです。
それはそれとして、キリスト教の原始宗教的に感じる部分がまだまだ沢山あります。数多くの守護聖人への信仰は多神教的な性格に感じられます。
最後に一つだけ例を書きます。それはマリア様の像を偶像崇拝のように崇拝する傾向があることです。南ヨーロッパの田舎道をドライブしていると、道端に小さな祠があってマリア様の像が立っています。道行く人々が拝んで、旅の安全をお願いするのです。私は車を走らせながらマリア様へ交通事故が起きませんようにとお祈りします。
日本にも道端に道祖神や御地蔵さんが立っています。昔は馬頭観音が立っていました。それと同じような感じがします。
さて上のように書くと、それはカトリックに限ったことでプロテスタント宗派には無いと主張する人がかならず居そうです。
プロテスタント宗派では聖書に書いてある奇蹟物語を軽視します。科学的に数式で証明できない事実は排除したいのです。しかし合理的に都合良く説明できる部分だけを信仰の対象にすれば、それは宗教でなくなります。
聖書には不思議な事、神秘的な事が沢山書いてあります。その全てを信ずるほうが良いような気がします。ですからカトリックとプロテスタント宗派の違いは50歩、100歩なのです。本質的な相違は無いと感じているのが私の立場です。
結論を言えば、キリスト教は高等宗教で神道は原始宗教だと峻別し、その優劣を考えることは間違っていると感じられるのです。この感じ方は信仰を持ってみないと理解出来ない感じ方かもしれません。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。
後藤和弘(藤山杜人)