後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

南米、リオのカーニバル(謝肉祭)と「灰の水曜日」との関係

2012年02月23日 | 日記・エッセイ・コラム

イエス・キリストは、ローマ提督、ピラトによって十字架刑にされました。2000年程前の出来ごとです。しかし3日後に復活して生き返りました。そして弟子達と会い、話をして、天国へ登り、神の右の座に着きました。

このイエス様の復活を祝うのが復活祭です。春先の大きなお祭りです。今年は4月8日(日曜日)です。その前の40日間が四旬節として歌舞音楽を控え、断食や節食をしてイエス様の処刑を悼みます。カトリック圏では騒がしい音楽やお笑いがテレビやラジオから消えます。静かな番組になります。禁欲的な生活を送る40日間なのです。

その四旬節の始めの日が、「灰の水曜日」です。

この禁欲的な40日の前に大いに肉を食べ、ワインを飲み、バカ騒ぎをして断食や節食の期間へ突入する準備をします。それがカーニバル、あるいは謝肉祭と呼ばれるお祭りなのです。

この謝肉祭が行われるのはカトリックの国々です。特にスペインやポルトガルの植民地だった南米では大きなお祭りとして毎年行われます。

しかし、よくよく考えてみるとイエス様は飽食や、欲望のままに酒を飲むのを喜ぶでしょうか?「汝、肉慾に生きるな」と教えました。ですからカーニバルはキリスト教とは関係の無いお祭りだと私個人は理解しています。

しかし、たて前は建て前です。ですから全てのカーニバルのお祭り騒ぎは、「灰の水曜日」の前に終了しなければいけません。

一般的に、お祭り騒ぎは私も大好きです。ですからカーニバルも好きです。しかし私の言いたいことは、それはキリスト教と殆ど関係の無い観光事業なのだという事です。それで人々が幸せを感じるなら大いに祭りを盛りたてれば良いのです。

今年のリオのカーニバルは2月20日に終わりました。そのリオのカーニバルの写真をお送りいたします。南米の人々の熱気と歓気が感じられますね。ここまで手の込んだ、そして大規模なお祭りは一つの特色あるローカル文化になっています。

写真をお楽しみ頂ければ嬉しく思います。尚、写真の出典は、http://www.jiji.com/jc/d4?p=smb005&d=d4_int です。

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灰の水曜日・・・欧米人の原始宗教性と土俗信仰

2012年02月23日 | 日記・エッセイ・コラム

昔の日本には「インテリ」という知識階級が厳然として存在していました。分かり易く言えば、旧制の学校制度で大学を卒業した人々がインテリということになっていました。

そのインテリ達の宗教観によるとキリスト教は高等宗教で、神道やアイヌ民族の宗教は原始宗教だと言うのです。そして仏教は神の啓示を受けていないから宗教ではなく哲学の一つですと言うのです。そしていかにも日本人の宗教は原始的で、進歩が遅れていると言うのです。日本人の宗教は劣っているとも言いたげです。

私がキリスト教の信者になってみると上に書いたような宗教の理解は間違っているように感じられるのです。信仰を持たない無宗教のインテリ達の頭だけで考えるから間違ったのかもしれません。

私の感じ方を先に書けば、キリスト教にも原始宗教的な信仰が色濃く含まれているということです。土俗的な性質も含まれているのです。

そして原始宗教と高等宗教の優劣はありません。優劣を考えることほど愚かなことはありません。

その上、仏教も、それを信仰の対称とする人がいる限り、それは立派な宗教なのです。

明治維新以後の日本のインテリや知識階級は、なにやら西洋崇拝があまりにも強すぎたと私は感じています。

昨日夜は「灰の水曜日」のミサに行って来ました。そのミサの内容を実例にしてキリスト教に含まれる原始的な信仰内容をご説明したいと思います。

まず昨夜の教会の鐘楼の写真です。

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ライトアップされた鐘楼を見て、私の信仰心が少し強くなりました。

一般的に言えば、鐘の音を聞かせ、高い塔を見せて信仰心を強めさせようというのは原始宗教的な感じがします。少なくとも私にはそのように感じるのです。高等宗教なら聖書だけで充分な筈です。

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上の写真はベールを被った女性信者の頭に神父さんが灰をかけているところを写したものです。「人間は土から生まれて、土に返る」ことを体に刻み込んで、忘れさせないようにしているのです。このように何か特別の物質を体につけたり、振りかけたりして信仰心を強めるやり方は何故か土俗宗教的に感じられます。少なくとも私にはそのように感じられるのです。なお、「灰の水曜日」の意味は、桜花の華やかさと儚さ・・・そして今日は灰の水曜日という題目の記事で説明しました。

そして神父さんに灰をかけて貰って、「厄払いが出来た。悪霊が寄りつかなくなる」と感じたら、土俗信仰のようです。

灰の水曜日のミサでは、何時ものミサのように「イエスの体」(の一部)と神父さんが言いながら小さなパン片を信者一人一人は渡します。「イエスの体」(の一部)を食べた信者は、また一段と信仰心が強くなります。カトリックでは、「イエスの体」(の一部)を食べるのは冗談ではなく、本当にイエスの肉体の一部を食べる気分なのです。

話は飛びますが、ある未開部族では死んだ家族の骨を焼いて、粉にして食べてしまうという土俗的な風習があるそうです。時々、私はそれを思い出します。本当に愛していれば、そうするのです。

それはそれとして、キリスト教の原始宗教的に感じる部分がまだまだ沢山あります。数多くの守護聖人への信仰は多神教的な性格に感じられます。

最後に一つだけ例を書きます。それはマリア様の像を偶像崇拝のように崇拝する傾向があることです。南ヨーロッパの田舎道をドライブしていると、道端に小さな祠があってマリア様の像が立っています。道行く人々が拝んで、旅の安全をお願いするのです。私は車を走らせながらマリア様へ交通事故が起きませんようにとお祈りします。

日本にも道端に道祖神や御地蔵さんが立っています。昔は馬頭観音が立っていました。それと同じような感じがします。

さて上のように書くと、それはカトリックに限ったことでプロテスタント宗派には無いと主張する人がかならず居そうです。

プロテスタント宗派では聖書に書いてある奇蹟物語を軽視します。科学的に数式で証明できない事実は排除したいのです。しかし合理的に都合良く説明できる部分だけを信仰の対象にすれば、それは宗教でなくなります。

聖書には不思議な事、神秘的な事が沢山書いてあります。その全てを信ずるほうが良いような気がします。ですからカトリックとプロテスタント宗派の違いは50歩、100歩なのです。本質的な相違は無いと感じているのが私の立場です。

結論を言えば、キリスト教は高等宗教で神道は原始宗教だと峻別し、その優劣を考えることは間違っていると感じられるのです。この感じ方は信仰を持ってみないと理解出来ない感じ方かもしれません。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。

後藤和弘(藤山杜人)