今日は曇りながら気温が10度にも上がり、温かいので清瀬市の金山緑地公園を散歩してきました。
歩きながら考えるともなく考えていました。日本人ほど教養としてキリスト教をよく勉強している国民はいないと思います。キリスト教の歴史から宗教改革の事など詳しく知っています。いろいろな宗派の違いも知っています。特にマルチン・ルターの宗教改革などについては学校で習います。旧教の堕落や免罪符の売買についても習います。そして日本中に実に数多くのミッション・スクールがあり、キリスト教のことを更に詳しく習います。ミッションスクールでは礼拝やミサへ生徒を参加させます。
しかし卒業するまでに洗礼を受ける生徒はあまりいないそうです。
何故、ミッションスクールへ通学していながら洗礼を受けないのでしょうか?洗礼を受けないのが悪いと非難しているのではなく、不思議に思っているだけです。
散歩しながら理由を2つ思いつきました。
一番大きな理由は、日本人は慎み深く、遠慮深いからと思います。自分は人間として立派でないからとても洗礼を受ける資格が無いと思うのです。そして先生が洗礼を勧めても遠慮してしまうのです。この性向は日本人の美徳です。神の前に立てば、自分はそんなに立派でない人間だと考えるのです。その考えは慎み深い考え方です。
神様はガッカリなどしません。そのように考える人々を大切にしてくれます。愛してくれます。
もう一つの理由は洗礼を受けると万事について窮屈な人生を送らなければいけないと思うからです。誰でも窮屈な人生より、自由な人生が好きなのです。窮屈な人生は不幸です。
キリスト教の洗礼を受けると先祖代々のお墓もお参りに行けない。親類の集まる法事にも出席出来ない。神社の境内では遊んではいけない。などと狭量なことを考える日本人がいるようです。
それでは無理して洗礼など受ける気になれません。
しかし先祖代々の墓を大切にし、親類同士の付き合いを大切にすることは日本人の美徳なのです。美徳は大いに発展させるべきです。そうしても神様は怒りません。神様の抱擁力は無限大なのです。
私の祖父は曹洞宗のお寺の住職でした。孫の私もそのお寺の本堂で祖父と一緒にお経を唱えました。それは幼い頃の楽しい思い出です。
中年になってカトリックの洗礼を受けました。しかし従来通り、お墓参りもしますし、仏式のお葬式にも参列します。人間としての義理を大切にするのが日本人の美徳なのです。
このブログは、神父様もキリスト教の信者も読んでくれています。しかし私のお寺との付き合いを止めなさいと注意を受けたことは一回もありません。
洗礼を受けると人間はますます自由になります。魂の自由を感じることが出来るのです。この世のいろいろな事への執着から少しだけ自由になれます。少しだけですが、その違いは驚くほど大きいものです。
清瀬市の金山緑地公園を散歩しながらこんなとりめもない事を考えていました。私の考えは間違っているかも知れません。
下にもう少し写真をお送りいたします。それにしても今年は春が遅いですね。
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