このブログの1月23日の記事で山浦さんのことをご紹介しました。その記事は、明治維新後の翻訳文化の根本的な間違い・・・山浦玄嗣著「イエスの言葉」-ケセン語訳ーを絶賛する!です。
その山浦さんの病院は大船渡市にあり、あの大津波に襲われました。1階は泥水と瓦礫の山で、2階だけがかろうじて浸水しませんでした。大浦さんも奥様も逃げ遅れて病院にいましたが無事でした。
大津波の後の大浦さんの活動の様子を、NHK教育テレビが昨日の午後1時から2時まで放映しました。(昨年5月に放映したものの再放送です)ご覧にならなかった方々のためにその画面を私のカメラで写しました。以下に示します。上に示した「明治維新後の翻訳文化の・・・・・」という記事をクリックしてお読み頂いた後に下の写真をご覧頂ければ大変嬉しく思います。
さて以下に、私は何を書くべきでしょうか?くどくど書くのは止めます。
津波を生き残った山浦さんの決心だけをまず書きます。
山浦さんは、「津波に襲われて、家も財産もなくなってしまった全ての人々の苦しみは、この俺が引き受けた!」というような意味のことを語っています。勿論、こんなに詳しく喋っていません。「津波に襲われて・・・」は私が勝手に書いた文章です。
山浦さんは、「ようがす。俺がひぎうげだ」と言うような短い一行です。
「俺が引き受けた」という言葉の意味は深長です。イエス様が俺を使って引き受けてくれるという意味なのかも知れません。
山浦さんは泥だらけの1階を急いで清掃にし、部屋の間仕切りを取りはらって、大きな部屋にして避難してきた患者や近所の人々をみんな受け入れたのです。そして泥水に浸かった薬棚から汚れていなかった薬を探し出し、早速、奥さんとともに診察活動を始めたのです。足りないものは製薬会社から取り寄せ、無償であげました。
近所の電気屋さんがジーゼル発電機を探して来て設置してくれました。水道屋さんは簡易水道をつけてくれました。
急造した大きな部屋に避難した患者や近所の人が、また立派だったのです。お互いに助け合い、山浦さんを勇気づけ、支援したのです。山浦さんはテレビでその患者さん達を誉めたたえています。感謝しています。
私が見ると、山浦さんも人々を大切にしたのです。自分の親のように親切にしてあげたのです。それこそ豊かで温かい人間同士のきずななのです。
このテレビではっきり分かったのですが、彼はカトリックの信者です。しかし私は確信します。彼は患者に絶対にキリスト教の宣伝はしなかったと確信しています。その代わり、患者を大切にし、患者へ気仙地方の方言で話しかけ、尽くしたのです。
大津波の後、大部屋へ収容された人は絵に描いてあります。その絵は下の写真に写っています。彼の手の上にあります。ぼんやりしていますが50人前後の人が見えます。
しかしこの中にカトリックの信者は1人か2人しかいなかったと私は想像しています。カトリック大船渡教会のミサの写真を見ると数人の信者しか参列していません。その事から想像すると山浦さんの患者にはカトリック信者がほとんどいなかったと言っても大きな間違いがありません。
山浦さん仏教徒だろうが無宗教の人だろうが分け隔てなく大切にしたのです。診察と治療に尽くしたのです。
これこそが本物のクリスチャンなのです。
今日はミサの間、山浦さんの活動をイエス様が助けて下さるようにお祈りしました。神様が助けて下さるようにお祈りしました。精霊が助けて下さるようにお祈りしました。(終り)
・手の上にある絵は彼が描いた大部屋に避難している患者の様子です。彼はテレビにこの患者達の態度が立派だったと褒め称えたのです。そして感謝するのです。
・上の左の写真はケセン語の訳された福音書です。大船渡市にあるイー・ピックス出版という会社から出版され、前のローマ法王、ヨハネ・パウロII世に拝謁し、献本しました。右の写真は診察中の山浦さんです。
・左の写真は高台にあるカトリック大船渡教会です。津波はこの高台の足元の街を完全に流し去ったのです。右はミサの風景です。数人の信者の前で山浦さんが福音書をケセン語で朗読しています。ケセン語は流れるように、美しい響きを持っていることが分かりました。
・上の写真は山浦さんの住んで居た大船渡市の惨状を示しています。桜が咲いていますから大津波の30日位後に撮った写真と想像できます。瓦礫の山はまだ手つかずの状態です。
・大津波の直後の山浦さんの病院の周囲の様子です。
・上の右の写真は高台にあるカトリック大船渡教会の麓の街は完全に瓦礫の原になったことを示しています。
大津波から間もなく1年がたとうとしています。東北地方の復興は遅々として進んでいません。東北地方の復興を根気よく支援し続けるようにとお祈り申し上げます。(終り)