後藤和弘のブログ

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中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

才能があるために不幸になる人々の多さ・・・危険な人生

2012年02月16日 | 日記・エッセイ・コラム

あなたには何か才能がありますか?こう聞かれると困る人が多いと思います。無いと答えるのも口惜いし、あると言える程の才能も無いし、心が迷うのが普通です。

才能と言っても、いろいろな種類の才能があります。多くの知識を暗記出来る才能。生活に必要な食べ物や道具を上手に作り出せる才能。秀逸した料理の才能。経済活動に優れていて金儲けが得意な才能。音楽を上手に演奏する才能。感動的な絵画を描ける才能。いろいろなスポーツに優れているという才能。他人との会話が上手で好感を与える才能。数学が得意で数式を言葉のように使える才能。科学的な研究能力に優れているという才能。その他いろいろあります。

今日のテーマは「才能があるために不幸になる」という事です。これをもう少し正確に言うと「中途半端な才能を持っていると不幸になる」と言い変えるべきです。

「中途半端な」という言葉の意味(定義は)は、「誰が見ても抜群であるという状態では無い」という意味です。才能を生かして、始めから簡単に生計を立てて行けるのなら、それは中途半端な才能では無く、本物の才能なのです。

ところが人間には慾がありますから自分の持っている「中途半端な才能」を本物で、抜群の才能と間違うのです。その結果、いくら努力しても生計が稼げなくて、落ち込んでしまい不幸になるのです。自分だけでなく回りの家族も不幸にしてしまいます。

それ位なら中途半端な才能はスッパリと諦めて会社に就職して、月給を頂く人生を選んだほうが幸せになれます。

何故、こんなテーマで書いているのでしょうか?それは最近、2度、府中の森プロムナードコンサートというクラシックの音楽会へ行ったからです。入場料はワンコインで500円です。そして考え込んでしまったのです。これで彼らの生計は成り立って行くのでしょうか?

音楽会の様子は、上野由恵さんのフルートとユン・イサン(尹伊桑)氏とムンクの叫び と、パイプオルガンと声楽を聞いてきました にあります。下に写真を示します。

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フルート奏者、ピアニスト、オルガン奏者、オペラ歌手2人の5人の創りだす音楽を聴きながら、感動しながら考えていました。

彼等は皆、東京藝術大学を卒業して、ヨーロッパで何年間も本格的な修業をしています。本物の才能があるのです。しかし彼らの生計は決して楽ではなさそうです。贅沢な生活ではなさそうです。それはインターネットで彼らのことをいろいろ調べるとそこはかとなく分かるものです。入場料500円は例外ですが、高額の報酬があるような演奏会に招かれるのは稀に違いありません。

それに比べるとテレビで活躍しているお笑いタレントやおしゃべりだけのタレントの収入を想像してみると、どうもクラシックをしている人々は不遇過ぎるような気がします。

話はそれましたが、「中途半端な才能の故に不幸になる」という主題に戻します。

東京藝大を卒業してもソロ演奏者として成功しなかった人が沢山居るのです。上に紹介した5人のように華々しい活動をする事も出来ず、学校の音楽教師になったり、音楽塾を開いて生涯を過ごします。あるいは音楽を諦めて一介のサラリーマンとして生涯をすごす人もいるでしょう。

さらに少しの才能を信じて、いろいろな芸術系の学校を受け、受験に失敗する人が何万人と居るのです。なまじ中途半端な才能があったために親の欲目で不幸な受験をするのです。

受験に失敗して、そのことを一生心の悲しみとして背負って、不幸な人生を送る人も居ます。

ここまで書けば、私がこの記事で書きたい結論がお分かりになると存じます。

そうです。「自分の才能の限界を知り、それを常に意識していれば不幸にはならない!」と言いたいののです。そのことを強く、何度も自分の心に言い聞かせる事があなたが不幸に落ちることからを救ってくれるのです。限界を知る。限界を信じる。努力はするが他人は怨まない。全ては自分に才能が無いためなのです。

何故、このように断言できるのでしょうか?自分が過去に科学研究をしていた時に不幸な感じを何度もしました。今、振り返って思うと、自分の中途半端な才能を過大に評価したときに不幸になっていたのです。老境に入って過去の不幸が自分の才能の過大評価によってもたらされてと明快に判ったのです。老いなければ理解の出来なかった自分の愚かさにやっと気が付いたのです。

蛇足ながら、上の写真に写っている5人のクラシック音楽家は不幸でしょうか?幸せでしょうか?私は「みんな幸せだ」と断言できました。彼らは演奏の合間に、少しずつ話をします。曲目の簡単な説明やヨーロッパでの修業時代に感じたことなどを話します。自分の才能の話はしませんが、彼らはみんなそれぞれ自分の限界をわきまえているのです。立派です。好感が持てます。

もっと感動することがあります。誰でも府中の小さな藝術劇場でクラシックを演奏する人は、はじめにひどく緊張しています。「このような地方で自分の音楽が受け入れてくれるのだろうか?」と心配します。始めの1曲はお互いの挨拶のような感じです。拍手があると演奏家は安心して、2曲目を精魂込めて演奏します。万雷の拍手です。やっと演奏家の顔が喜びで輝きます。安心して、肩から力がとれて自由闊達な演奏になります。初めに万雷の拍手を貰った時の演奏家の幸せそうな様子を見るとそれが幸福な人生なのだと私も納得します。

全く蛇足ですが、「中途半端な才能を持っても、心の持ちかたで幸せな人生を送ることが出来る」と結論できます。賢明な皆様にはとうにご存知の当たり前のことを書きました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。

後藤和弘(藤山杜人)