後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
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原発再稼働は日本人の人格権をおかす可能性があるので差し止めるという判決を考えよう!

2014年06月22日 | 日記・エッセイ・コラム

福井地方裁判所民事第2部は5月22日に大飯原発運転差止の判決を出しました。

以下にその解説記事を「まさのあつこ」さんのブログから転載します。

URLは、http://seisaku-essay.cocolog-nifty.com/blog/2014/05/post-2d1d.htmlです。

以下をお読みになっていろいろが考えが湧いて来ると思います。

私自身は原発再稼働に賛成する確たる根拠も理解出来ませんし、逆に反対すべき明確な根拠も持てません。

日本には裁判所の民事事件の判決を無視する文化もありますから、この判決で全てが決まらないと想像できます。しかしこの判決は考えるべき新しい「人格権」の概念を提示しているので深く考えるべきと思い、以下に転載いたします。

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「大飯原発運転差止請求事件判決要旨全文を読む」まさのあつこ著

大飯原発運転差止請求事件判決要旨全文を読んだ。
http://www.news-pj.net/diary/1001

四大公害病」を書いて以来初めて、美しい判決文に接することができて心が震えた。判決に忠実に、箇条書きで要約した(「 」内は要旨のままの引用。太字は筆者。忙しい方は太字だけでもお読み下さい。)。

判決(要旨)は、

 原子力発電を「ひとたび深刻な事故が起これば多くの人の生命、身体やその生活基盤に重大な被害を及ぼす事業」と言い表して、「はじめに」で、この訴訟における裁判官としての考え方を明確に明らかにした。

○この事業に関わる組織には高度の信頼性が求められる。
人格権は憲法上の権利であり(13条、25条)、我が国の法制下においてはこれを超える価値を他に見出すことはできない
○人格権の根幹部分に対する具体的侵害のおそれがあるときは、人格権そのものに基づいて侵害行為の差止めを請求できる。

 次に、「福島原発事故について」として、原告と認める範囲を導き出している。

○原子力委員会委員長(事故当時)が福島第一原発から250キロメートル圏内に居住する住民に避難を勧告する可能性を検討した。
○チェルノブイリ事故によって、ウクライナ共和国とベラルーシ共和国が、今なお広範囲にわたって避難区域を定めており、避難区域は最小限のもので足りるとする見解は疑問である。
○250キロメートルという数字が過大であると判断することはできない。

 次に、原子力発電所に求められるべき安全性については、二段階で導き出している。

(1)安全性と信頼性は極めて高度なものでなければならず、万一の場合にも放射性物質の危険から国民を守るべく万全の措置がとられなければならない
 大きな自然災害や戦争以外で、この根源的な権利が極めて広汎に奪われるという事態を招く可能性があるのは原子力発電所の事故のほかは想定し難い。
 その存在自体が憲法上容認できないというのが極論にすぎるとしても、少なくともかような事態を招く具体的危険性が万が一でもあれば、その差止めが認められるのは当然である。

 そして、この裁判の肝はここだ。

(2)「上記のように人格権の我が国の法制における地位や条理等によって導かれるものであって、原子炉規制法をはじめとする行政法規の在り方、内容によって左右されるものではない。したがって、改正原子炉規制法に基づく新規制基準が原子力発電所の安全性に関わる問題のうちいくつかを電力会社の自主的判断に委ねていたとしても、その事項についても裁判所の判断が及ぼされるべきであるし、新規制基準の対象となっている事項に関しても新規制基準への適合性や原子力規制委員会による新規制基準への適合性の審査の適否という観点からではなく、(1)の理に基づく裁判所の判断が及ぼされるべきこととなる。」

 つまり、「ひとたび深刻な事故が起これば多くの人の生命、身体やその生活基盤に重大な被害を及ぼす事業」は、原子炉規制法や、その基準やそれに基づく電力会社の自主判断、さらには原子力規制委員会による新規制基準への適合性の審査の適否ではなく、裁判所が憲法に基づいて判断をするのであると、述べている。

 このように裁判所としての考え方をこれ以上になく、厳格に明らかにした上で、

○「原子力発電所の特性」とは「原子炉の冷却を継続しなければならず、その間に何時間か電源が失われるだけで事故につながり、いったん発生した事故は時の経過に従って拡大して行く」ものだと判示。

そして、被告の主張に沿って、一つひとつ判断を加えていく。

○大飯原発には「冷却機能の維持」に欠陥がある。なぜなら「1260ガルを超える地震によってこのシステムは崩壊し、非常用設備ないし予備的手段による補完もほぼ不可能となり、メルトダウンに結びつく。この規模の地震が起きた場合には打つべき有効な手段がほとんどないことは被告において自認している」

○大飯原発には1260ガルを超える地震は来ないとの確実な科学的根拠に基づく想定は本来的に不可能である。

○「閉じ込めるという構造」については、「核燃料部分は堅固な構造をもつ原子炉格納容器の中に存する。他方、使用済み核燃料は」「使用済み核燃料プールから放射性物質が漏れたときこれが原子力発電所敷地外部に放出されることを防御する原子炉格納容器のような堅固な設備は存在しない。」

 「以上にみたように、国民の生存を基礎とする人格権を放射性物質の危険から守るという観点からみると、本件原発に係る安全技術及び設備は、万全ではないのではないかという疑いが残るというにとどまらず、むしろ、確たる根拠のない楽観的な見通しのもとに初めて成り立ち得る脆弱なものであると認めざるを得ない。」

一方で、被告(関西電力)の主張については

「被告は本件原発の稼動が電力供給の安定性、コストの低減につながると主張するが、当裁判所は、極めて多数の人の生存そのものに関わる権利と電気代の高い低いの問題等とを並べて論じるような議論に加わったり、その議論の当否を判断すること自体、法的には許されないことであると考えている。このコストの問題に関連して国富の流出や喪失の議論があるが、たとえ本件原発の運転停止によって多額の貿易赤字が出るとしても、これを国富の流出や喪失というべきではなく、豊かな国土とそこに国民が根を下ろして生活していることが国富であり、これを取り戻すことができなくなることが国富の喪失であると当裁判所は考えている。

また、被告は、原子力発電所の稼動がCO2排出削減に資するもので環境面で優れている旨主張するが、原子力発電所でひとたび深刻事故が起こった場合の環境汚染はすさまじいものであって、福島原発事故は我が国始まって以来最大の公害、環境汚染であることに照らすと、環境問題を原子力発電所の運転継続の根拠とすることは甚だしい筋違いである。

 と、経済を国民の命の上に置こうとした被告を激しく断罪している。

 そして結論、

「以上の次第であり、原告らのうち、大飯原発から250キロメートル圏内に居住する者は、本件原発の運転によって直接的にその人格権が侵害される具体的な危険があると認められるから、これらの原告らの請求を認容すべきである。」

福井地方裁判所民事第2部
 裁判長裁判官 樋口英明
    裁判官 石田明彦
    裁判官 三宅由子

これら3名の裁判官による判決は、国民がこの3年間に心の中で思っていた生存のための本能的な権利意識とでもいうべきものを代弁してくれたと思う。ただただ、この訴訟を提起した原告の方、弁護士の方、裁判官に感謝したい。・・・・以下省略


今日のミサ、洗礼式、そして初聖体の写真です

2014年06月22日 | 写真

現在のローマ法王のフランシスコ教皇は教会を開放しなさいと強くおっしゃっています。

どんな宗教でも儀式は秘密にしておきたいという雰囲気があります。それは信者だけの儀式にしたいという感情なのでしょう。

その気持ちも分かるので私はミサ中の写真の掲載には躊躇を感じます。しかしキリスト教になじみの少ない日本では公開した方が良いとも思えます。その方が皆様になじみを感じてもらえると思います。

そこで以下に今日のミサの写真をお送り致します。

一番上の写真はカトリック小金井教会へ時々来て、ミサを上げてくれるイエズス会の住田省吾神父さまです。イエズス会は日本へキリスト教を伝承したザビエルがイグナチヨ・ロヨラと共に約500年前に創設したカトリックの修道会です。現在、世界中でイエズス会員が活躍しています。東京の上智大学もイエズス会の運営している大学です。

二番目の写真はある信者が洗礼を受けている様子を写した写真です。デン主任司祭さまから額にビンの水を注いでもらっている様子を示しています。

カトリックの洗礼はミサの度に随時行われています。洗礼を希望し、教理を勉強するとこのように簡単な洗礼式を受け、洗礼名を貰います。今日の受洗者は一人だけでした。

三番目の写真は以前に洗礼を受けた3人の子供がディン主任司祭から、初めて聖なるパンを戴く、初聖体の儀式をしている様子です。

それはそれとして、今日のミサ中に、

皆様のご健康と平和をお祈りしてまいりました。後藤和弘(藤山杜人)

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昨日、世界遺産に決まった富岡製糸工場とカトリック富岡教会の思い出

2014年06月22日 | 日記・エッセイ・コラム

昨日、世界遺産に決まった群馬県の富岡製糸場は明治5年に始まりました。この製糸場は日本の殖産興業と富国強兵の引き金を引いた場所なのです。

この工場を2年前の2012年4月7日に訪問し、富岡に一泊し翌日の復活祭にカトリック富岡教会のミサに出ました。家内と一緒の小さな旅でしたが感慨の深いものでした。

そこでその思い出をたどりながら、富岡製糸工場とカトリック富岡教会の様子を書いてみたいと思います。

繭から生糸を取り出す自動機械をヨーロッパから輸入し、絹糸の大量生産を始めた工場を作ったのがフランス人のブリュナです。

そしてブリュナを含めて13人のフランス人が定住して富岡製糸場の操業を指導したのです。そこで技術を学んだ日本人の女工さんが各地に散って行き、数多くの製糸場を作ったのです。

この13人のフランス人の功績は残念ながら今日の新聞に出ていません。そこで2012年4月7日に私が複写した彼らの写真を下に示します。

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写真の後列の右から2人目の白服の男がブリュナです。ブリュナの出身地はフランスでも生糸の産地として有名だった所でした。

前列の女性は彼の妻と日本人に生糸の大量生産方法を教えたフランスの女工です。

下の写真はブリュナと妻が4年近く住んでいた工場長のの官舎です。工場に隣接してあります。明治5年に完成した木造の西洋式建物です。

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ブリュナ以外のこれらフランス人のことも忘れないようにしたいと思います。

当時、彼等は時々、赤いブドウ酒を飲んでいました。それを日本人が見て人の血を飲んでいると噂して、女工さんのなり手が集まらなかったそうです。彼等、フランス人達の苦労が偲ばれます。

世界遺産の富岡製糸場を訪問したら是非、彼等に感謝しながら、創業時の明治時代の雰囲気をご想像して頂きたいと思います。そうすると何故この工場が世界遺産に決定したかがご理解頂けると存じます。

さて翌日は2012年の復活祭です。カトリック富岡教会の復活祭のミサに出ました。

感動したことが2つありました。一つは主任司祭の猪俣一省神父様の優しさです。旅人としていきなり参加した私共を温かく迎え入れて下さいました。

もう一つはフィリッピンの人々の篤い信仰心です。60名程の参加者の半分以上はフィリッピン人や外国人でした。下に写真を示します。

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そして下がミサの様子です。

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ミサのあと別室で復活祭を祝う昼食会がありました。日本人もフィリッピンの人々も一つの家族のように楽しげにしています。私共はイースターエッグを一個ずつ頂いて早めに失礼して来ました。

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カトリックという言葉は「普遍」という意味だそうです。イエス様の教えは国境や民族の壁など問題ではありません。人間にとって普遍的な教えなのです。普遍的に重要な教えなのです。真理なのです。そんなことを実感させる復活祭のミサでした。

下に2012年4月8日に撮った写真を沢山掲載します。

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それはそれとして、今日はこれからミサに行って、

皆様のご健康と平和をお祈りしてまいります。後藤和弘(藤山杜人)