現在は2014年です。東京オリンピックの開催されたのは50年前の1964年でした。その頃の日本が現在よりはるかに貧しくてひどい生活をしていました。
時々その頃の生活を思い出して日本人の努力のお蔭で豊かになった現在の生活へ感謝することはいろいろな意味で重要です。日本の過去50年の歴史を知ることが出来ます。深い感謝の念が湧いてきます。現在の幸せに体が震えます。
そこで小金井市教育委員会、編集・発行CD「写真でたどる昭和の小金井」から1964頃の小金井市のあちこちの写真を以下に示します。
まずJR中央線の小金井駅の北口の写真です。
この未舗装の北口広場は現在綺麗に舗装された北口ロータリーに様変わりして、中央線も高架になり綺麗な駅になっています。
上の写真の左に懐かしいフランス車のルノーが写っています。
ルノーは水冷4気筒の後部エンジンで観音開きのドアでした。1962年から数年間、東京の小型タクシーとしてずいぶん乗った記憶があります。実に独創的な車で、形はカブトムシ型ですが流れるようなスタイルで、サスペンションは独立懸架、加速性も良く、流石、水冷4気筒と感動して、タクシーに乗るときはルノーを探して乗ったものです。
そして下は1964年に小金井市の本町5丁目へ引っ越してきたころの近所の写真です。
この写真は1963年に小金井市本町小学校西交差点から北に向かって撮影した写真です。
私達一家が小金井市のこの近所に引っ越してくる前の年の風景です。道路は砂埃の舞い上がる土の道で、交差点には信号機が一切付いていませんでした。
道の左手に酒、味噌、醤油、野菜などを売るよろず屋の三晃酒店が一軒あるきりでした。
その周囲には畑になっていて野菜が伸びています。この道の奥の左側には現在は消防車庫になった火の見櫓があり、その向こうは当時としては贅沢な鉄筋コンクリート4階建ての公務員住宅が並んでいました。
引っ越してから食料品はこの三晃酒店から買っていました。仲良くなりずいぶん長い間のお付き合いでしたが現在は廃業してしまい有りません。
下の写真が現在の同じ場所の写真です。道路の左にある果物の看板のある八百屋さんが昔の三晃酒店の跡地です。
日本の高度成長の結果、土の道は完全舗装され信号機も付きました。道路の両側から畑が消え、住宅や商店が綺麗に並んでいます。泥や土埃が完全になくなり清潔な街路になりました。
その後、この通りで繁盛していた田中肉屋、つくし堂菓子店、伊東本屋、オリト電気屋、お茶屋、写真屋、クリーニング屋、などの個人商店が20年以上前から一軒一軒と消えて行きました。跡地に「フレッシュのさとう」と「サンドラッグ」の大型店と山梨中央銀行小金井本町店のみが残りました。
日本の経済の高度成長とともに個人商店が消えて行ったのです。淋しいかぎりです。しかし我々の生活レベルは格段良くなったのも事実です。
次に下の写真は小金井街道の桜町病院入口近くの写真です。
隣組の人々が一緒にドブ掃除をしています。少女が面白がって見物しています。当時は下水が無かったので 道路わきのドブへ雨水も生活排水も流していたのです。道の端には土が溜まり、梅雨時はぬかるんで長靴で歩いていたのです。
下は同じ場所の現在の様子です。
昔あった商店が跡形もなく消えて、美しい歩道と街路樹があります。
さて小金井市は昭和45年、1970年まで水田があり米の生産地だったのです。
小金井市の南半分を西から東へ流れる野川の周辺は広い水田地帯になっていたのです。
下にその頃の水田の写真を示します。水田の右に写っている土の道は現在、舗装道路になっていて武蔵野公園に行くとき車でよく通る道です。
下の写真は現在の様子です。水田跡は東京都立武蔵野公園の広場になっています。 天気の良い日は少年野球の練習所になっています。午前中は若いお母さんたちが 幼児を遊ばせている広場です。
雨が続くと下の写真のように水が溜まり、昔、水田だったことを思い出させてくれます。
さて十年一昔と言いますが50年とはこの一昔を5つも重ねてことになります。
この50年間いろいろなことがありました。上のような今昔の写真を見ているといろいいろな事や場面が走馬灯のように浮かび上がります。
今日は朝から梅雨のしずくが続いています。昔のことなどを思い出して楽しんでいます。
このような今昔の大きな変化は日本の津々浦々で起きたのです。
皆様の住んでいらっしゃる土地の50年間の変化は如何でしたでしょうか?まだ生まれていなかった方々も多いと思います。それにしても日本は変わったものです。様変わりです。(終わり)