後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

1964年頃の日本の貧しさを絶対に忘れない!

2014年06月05日 | 日記・エッセイ・コラム

現在は2014年です。東京オリンピックの開催されたのは50年前の1964年でした。その頃の日本が現在よりはるかに貧しくてひどい生活をしていました。

時々その頃の生活を思い出して日本人の努力のお蔭で豊かになった現在の生活へ感謝することはいろいろな意味で重要です。日本の過去50年の歴史を知ることが出来ます。深い感謝の念が湧いてきます。現在の幸せに体が震えます。

そこで小金井市教育委員会、編集・発行CD「写真でたどる昭和の小金井」から1964頃の小金井市のあちこちの写真を以下に示します。

まずJR中央線の小金井駅の北口の写真です。

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この未舗装の北口広場は現在綺麗に舗装された北口ロータリーに様変わりして、中央線も高架になり綺麗な駅になっています。

上の写真の左に懐かしいフランス車のルノーが写っています。

ルノーは水冷4気筒の後部エンジンで観音開きのドアでした。1962年から数年間、東京の小型タクシーとしてずいぶん乗った記憶があります。実に独創的な車で、形はカブトムシ型ですが流れるようなスタイルで、サスペンションは独立懸架、加速性も良く、流石、水冷4気筒と感動して、タクシーに乗るときはルノーを探して乗ったものです。

そして下は1964年に小金井市の本町5丁目へ引っ越してきたころの近所の写真です。

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この写真は1963年に小金井市本町小学校西交差点から北に向かって撮影した写真です。

私達一家が小金井市のこの近所に引っ越してくる前の年の風景です。道路は砂埃の舞い上がる土の道で、交差点には信号機が一切付いていませんでした。

道の左手に酒、味噌、醤油、野菜などを売るよろず屋の三晃酒店が一軒あるきりでした。

その周囲には畑になっていて野菜が伸びています。この道の奥の左側には現在は消防車庫になった火の見櫓があり、その向こうは当時としては贅沢な鉄筋コンクリート4階建ての公務員住宅が並んでいました。

引っ越してから食料品はこの三晃酒店から買っていました。仲良くなりずいぶん長い間のお付き合いでしたが現在は廃業してしまい有りません。

下の写真が現在の同じ場所の写真です。道路の左にある果物の看板のある八百屋さんが昔の三晃酒店の跡地です。

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日本の高度成長の結果、土の道は完全舗装され信号機も付きました。道路の両側から畑が消え、住宅や商店が綺麗に並んでいます。泥や土埃が完全になくなり清潔な街路になりました。

その後、この通りで繁盛していた田中肉屋、つくし堂菓子店、伊東本屋、オリト電気屋、お茶屋、写真屋、クリーニング屋、などの個人商店が20年以上前から一軒一軒と消えて行きました。跡地に「フレッシュのさとう」と「サンドラッグ」の大型店と山梨中央銀行小金井本町店のみが残りました。

日本の経済の高度成長とともに個人商店が消えて行ったのです。淋しいかぎりです。しかし我々の生活レベルは格段良くなったのも事実です。

次に下の写真は小金井街道の桜町病院入口近くの写真です。

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隣組の人々が一緒にドブ掃除をしています。少女が面白がって見物しています。当時は下水が無かったので 道路わきのドブへ雨水も生活排水も流していたのです。道の端には土が溜まり、梅雨時はぬかるんで長靴で歩いていたのです。

下は同じ場所の現在の様子です。

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昔あった商店が跡形もなく消えて、美しい歩道と街路樹があります。

さて小金井市は昭和45年、1970年まで水田があり米の生産地だったのです。

小金井市の南半分を西から東へ流れる野川の周辺は広い水田地帯になっていたのです。

下にその頃の水田の写真を示します。水田の右に写っている土の道は現在、舗装道路になっていて武蔵野公園に行くとき車でよく通る道です。

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下の写真は現在の様子です。水田跡は東京都立武蔵野公園の広場になっています。 天気の良い日は少年野球の練習所になっています。午前中は若いお母さんたちが 幼児を遊ばせている広場です。

雨が続くと下の写真のように水が溜まり、昔、水田だったことを思い出させてくれます。

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さて十年一昔と言いますが50年とはこの一昔を5つも重ねてことになります。

この50年間いろいろなことがありました。上のような今昔の写真を見ているといろいいろな事や場面が走馬灯のように浮かび上がります。

今日は朝から梅雨のしずくが続いています。昔のことなどを思い出して楽しんでいます。

このような今昔の大きな変化は日本の津々浦々で起きたのです。

皆様の住んでいらっしゃる土地の50年間の変化は如何でしたでしょうか?まだ生まれていなかった方々も多いと思います。それにしても日本は変わったものです。様変わりです。(終わり)


お葬式の常識と非常識・・・お葬式のありかたのいろいろ

2014年06月05日 | 日記・エッセイ・コラム

高齢になるとお葬式に出る機会が多くなるものです。若い時は仲人を頼まれたりして結婚式に出る機会も多かったのですが最近はさっぱりです。

どちらも人生の節目として大切なものです。そこで最近よく出るお葬式で見たり聞いたりした人々のこの儀式に関する考え方を比較検討してみたいと思います。

ネットでお葬式を検索するとお葬式にどれくらいお金をかければ良いかという相談と、それに対する常識的な回答が沢山書いてあります。

また香典はいくらくらい包めば非常識のそしりを受けないかという相談も多いのです。そしてお坊さんへのお礼金はいくらぐらいが常識かなどという金銭的な心配が多いことに気がつきます。

金銭的なことも非常に重要ではありますが、お葬式に対するいろいろな考え方を知っておくこともとても大切なことと信じています。

なによりも故人とのお別れの仕方は、故人と遺族の両方の心を深く理解して、もっとも適切な方法と心情でお別れをするべきと、かねがね思っています。

そこで以下にお葬式のいろいろの考え方を記してみたいと思います。

(1)宗教抜きの家族葬で故人と別れる形式。

故人も遺族も宗教を信じていない場合はこの形式が適切です。

花を美しく飾った祭壇に故人の写真やお体を置き、故人の好きだった音楽などを流しながら、家族と親密だった友人と一緒に故人の思い出を語り合い、みんなで食事を楽しみながら故人とお別れするのです。

祭壇の飾りつけは葬儀社に頼むのが普通のようです。

この場合注意すべきことは遺骨をお寺の墓地に入れる場合です。予め住職さんへ宗教抜きの家族葬をすることを報告し円満に了解を得て置くことが常識的なことです。樹林葬や遺骨を海に散骨する場合には問題ありません。

(2)普通の仏教式のお葬式をして故人と別れる形式。

通夜と告別式にお坊さんを招んでお経を上げてもらい、故人をあの世に送って貰う儀式です。

この形式の本質は故人に戒名を与え、戒を授け、出家させ、お釈迦さまの弟子にしてから引導を渡し、あの世に送るという考え方です。生きている間に出家したお坊さんたちはこの儀式は必要ありません。

日本のお葬式の多くはこの精神でとり行われれています。故人とその家族が仏教を少しでも信じている場合にはこの形式が適切です。

この場合、遺骨をお寺の墓地に入れる時のことを考えて、そのお寺の住職か、少なくとも同じ宗派のお坊さんに来てもらうことが常識です。

(3)神道のお葬式をする場合。

神道のお葬式の式次第や神主さんの役割などは。「神道葬式」を検索すると具体的な情報が沢山出ています。

参会者は榊を供え、しのび手で柏手を打ちます。音のしなうように両手を打つのです。

ここで一番重要なことは人間は死ぬと八百万の神々の一人になってその家の先祖の神々の一員に加わり、残された家族を見守り続けるという考え方です。

故人の体から霊を独立させて、その家の神棚の祭壇に住まわせる儀式が神道のお葬式の精神なのです。お体を埋葬するお墓はお寺とは無縁の場所が適切です。

公共の多磨墓地や小平墓地に行くと小さな鳥居の立っているお墓がいくつもあります。村落の共同墓地にもお寺とは直接的な関係の無い場所もあるようです。

(4)キリスト教のお葬式。

教会の中で行うことが多いようです。この場合、神父さんか牧師さんが神に祈って故人を神の足元に招んで下さるようにしてあの世に送り出します。

帰天という言葉があるようにキリスト教では人間の家はもともと天にあると信じられています。ですから死ぬことはその家に帰ることなのです。何も心配が要らないのです。

故人のお墓はそれそれの宗派のキリスト教の墓地に置くか、あるいは宗教抜きの墓地におきます。もちろん樹林葬や散骨でもかまいません。

最後にお葬式に関して絶対にしてはいけない非常識な行いを書いて終わりにします。

故人との別れで悲しみに打ちひしがれている遺族がどの形式のお葬式をするかは全く自由であるべきです。どんな形式でも非難すべきでないのです。

お経をあげないて、戒名をつけなかったから、故人は成仏できないと非難する人が居るそうです。お釈迦様はそんなことで差別など絶対にしないのです。

お葬式の形式を批判的に論じてはいけません。どんな場合でも人の死に寄り添い、遺族には限り無い同情を送るのが良いと私は信じています。

下に昨日撮ってきた小宮山公園の雑木林の中の道の写真を示します。人々はこんな道をたどって旅立つのでしょうか。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。

 後藤和弘(藤山杜人)

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