横山美知彦さんは家内が戦争中に疎開した群馬の山里の下仁田町の小学校で同級生でした。時々、終戦前後の山里の思い出の記を送って下さいます。 なんとなく静かな味わいの深い小品なので皆様へもご紹介して来ました。 一昨日も下の2つの短い文章を送って下さいました。
当時の日本の暮らしぶりが偲ばれるので皆様へもご紹介したいと思います。
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「箱 膳」
今、放映中のNHK.TVの朝ドラの「花子とアン」の実家の山梨の家での食事の場面で「箱膳」が出て来る。
何とも懐かしいシーンだ。今は何処でも多分見ることは出来ないが、終戦前
後の私の祖父の家では「箱膳」の習慣が残っていて、朝食の時その風景を眼
にすることが出来た。
町内の私の家では、丸いちゃぶ台を家族が囲い食事をしていて、「箱膳」の
習慣はなかったが群馬の田舎ではまだ残っていた。
TVを見ていて、その場面に懐かしさを感じるとともに、日本の古き良き素
晴らしい文化にひと時浸ることが出来たことに懐かしさを感じた。箱膳内に
は各自の食器が入れられて、仕舞われており、めいめい出して来て三度三度
使う。
食事が終わると、ご飯茶碗にお湯やお茶を注ぎ、僅かに残した漬物で椀の中の残り物を箸で丁寧に洗い落とし、それを捨てることなく、他の椀や皿を綺麗に洗い、自分の所持している布で拭く。最後にそのお湯を何の抵抗もなく飲みほす。食器は自分の「箱膳」に優しくしまう、そして何事も無かった様に座を離れる。これが毎日の事であり、楽しみのひと時なのだ。
「箱膳」はそんなに高級な物ではなく、近所の大工さんが作ったごく有り触れた物と推察する。
「箱膳」とは違うが、三年前に比叡山で、伝道師の修行で同じような経験をして来た。それぞれ膳が用意されており、係りの修行僧の見ている中での食事は誠に厳しいものだった。食器から音を出さぬよう、漬物は口の中で静かに噛み、音を出さぬよう指導された。これは難しい、いろいろ考え私は飲み込むことで何とか音を出さずに済ましたが、何処かで音がすると、係りの僧から怒号が放たれた。同僚もそれぞれ苦労した様だ。作法も、それぞれ器を手に取り、中の食べ物を口に運ぶ。次の物を口にするには必ず手に持った器を一旦膳に置き、別の器を手にして中の物を口にする。決してご飯茶碗に他の食べ物を入れ食べることはしない様指導された。
現代の食事風景とはかなり違う。合理性を考えると現代の方がとも思うが、あわてず、ゆっくり味わうには時間がかかっても、個々に口に入れる方が良い様に思う。
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「子供の遊び」
私の小学生の昭和24~5年頃は、家の裏の細い道を上ると一面が麦畑だっ
た。その後、川の水を引く工事と石垣を積むことで水田となり、現在は中学の校舎や運動場に変わってしまって、昔の面影はない。
麦の穂が出そろい、夏が近づく頃は、畑一面が黄金色になり見事な小麦が刈
り入れを待つばかりになる。
この小麦で楽しいことが出来た。畑の隅の穂の何本かを手で扱いで両手で揉
むと、小麦のふっくらした粒が残る。その粒を口いっぱいにほうばる。そし
て噛む。終戦後は地方でも食糧が自由にならず、子供達も口を動かすこと
は、三度の食事(それもひもじい)以外はなかった。初めはやや硬く抵抗が
あるが、小麦の粒がやがて噛み砕かれ、小麦の甘みが口いっぱいに広がる。
夢中に噛んでいる内に粘りが出て来る。これが「グルテン」(タンパク質の
混合物)であり、うどんやパン作りに欠かせない物なのだ。
うどんを作る時、家庭では時間がないとやらないが、近所で収穫した小麦粉
と水、若干の塩を加えある程度固まったところで、茣蓙のたたんだ中に入れ
て、足で踏む。つまり小麦粉内のグルテンを押し出し、腰のあるうどんに仕
上げる為の作業なのだ。これは子供達が小麦の粒を丁寧に噛んで、最後に
残ったチューインガム状の物とほぼ同じなのだ。
このグルテンは、外国産の小麦には国内産ほどなく、外国産はうどんには向かない。パン類には何とか合う様だ。
今は何処でも小麦を作る農家が少なくなり、うどんもパンも外国産を使う様
になってしまった。国内産では少量で高く、採算が合わないのだ。
自然の中の子供の遊びながら、半ば後ろめたさを感じながらの楽しみでは
あったが、今の子供たちは、こんな経験はないだろう。残念なことだ。
こどもの日を迎え幼き日の出来事を、ふと思い出した。(終わり)
下に箱膳と麦畑の写真をお送りします。
写真の出典はhttp://mizuechan.seesaa.net/article/103042014.htmlです。
この麦秋の風景は一昨日、山梨県北杜市武川町の柳沢で撮りました。