(上の富良野の写真の出典は、 http://turnthetide.blog.so-net.ne.jp/2012-02-18 です。)
私の人生観は日本という国家が戦中、戦後に与えてくれたものです。恥ずかしいのですが、決して独自の勉強や信仰で作り上げた立派なものではありません。
老境にいたって初めて、日本という国とはそんなに確固たる存在なのか疑問に思うようになりました。
その思いは何度か北海道を旅して感じたことです。北海道は日本ではないと直感したのです。北海道は地形、気候、植物相、野生動物が本州とは違う異国なのです。
そこで帰宅後いろいろ北海道について調べてみました。違うのです。本州や九州、四国とはあまりにも違うのです。
そんなことを「ロマンかき立てる北海道」と題で連載記事にして書き進めて行きたいと思います。
まず第一回の今日は北海道が本州以南とは違った独自の歴史を持っていることをご紹介いたします。
約4万年前の石器時代から縄文時代までは本州とほぼ同じ文化でした。
しかしその後は、本州の弥生時代や古墳時代のような文化は存在しませんでした。
代わって続縄文時代が本州での古墳時代の頃まで続いたのです。
その後は北海道のオホーツク沿岸地方はオホーツク文化時代とそれ以外の北海道では擦文文化時代が鎌倉時代のはじめまで続いたのです。
擦文文化時代とは、その時代の土器に竹筆で擦ったような模様がついていたのでそのような名がついたのです。
そして鎌倉時代の始めからは独自のアイヌ文化が成立し、そのアイヌ文化時代が明治維新まで続いたのです。ですから我々がアイヌ文化をもったアイヌ人が昔、昔から北海道に住んでいたと考えたら、それ大間違いなのです。
そのような特異な北海道の歴史については北海道教育委員会のHPで明快に説明してあります。そのURLは、http://www.dokyoi.pref.hokkaido.lg.jp/hk/bnh/maizou.htmです。
以下にこのHPの抜粋を示します。
下の抜粋文の中で、アンダーラインが引いてある言葉をクリックすると実に明快で多彩な歴史的情報が開きます。是非、ご覧下さい。
=====北海道教育委員会のHPの抜粋文========
北海道には、弥生時代や古墳時代という時代区分がなかった?
北海道は、本州と津軽海峡を挟み、気候も寒冷であるため、本州とはちがう独自の文化を育みました。本州でいう弥生時代、古墳時代の頃は、北海道は「続縄文時代」や「オホーツク文化期」(北海道史年表参照 PDF)を迎えていました。
北海道に住むあなたの町にも、そのころの時代の遺跡があると思います。平成23年度に市町村で行われた発掘調査の概要を別ページで紹介しています。
北海道立埋蔵文化財センターでは、色々な遺跡の様子や土器、石器、木製品、土偶などを展示公開しています。
北海道立埋蔵文化財センターに、土器などを見に出かけませんか。
=========以下省略===============
縄文時代の不思議な遺跡としてやく4000年くらい前に作られたストーンサークルがあります。
以下に北海道の森町にあるストーンサークルの写真を示します。
写真の出典は、http://aomori-jomon.jp/essay/?p=715です。
このストーンサークルの詳細は写真の出典に出ていますので、是非ご覧下さい。
ついでに秋田県大湯で見つかった日本最大のストーンサークルの写真を下に示します。
上下の写真の出典は、http://www.kensoudan.com/firu-kita-y/ooyu2.htmlです。
話はそれましたが、私が想像している仮説をここで提起したいのです。
「縄文文化は主にアイヌ人の祖先が担っていて、弥生文化は南方や朝鮮、中国からの渡来、移住した人々が担っていた」という仮説です。
この仮説が正しいとすると弥生遺跡や古墳が北海道に存在しないことも無理なく説明できます。
この仮説の最大の疑問点はアイヌ人が土器を焼かなかったという事実です。縄文時代や続縄文時代の北海道では数多くの多彩な土器が作られていました。
その文化が擦文土器に変化して、アイヌ文化成立とともに消えてしまったのです。擦文土器は本州の土師器の影響を受けたことが特徴です。後にこの土器は衰退し、煮炊きにも鉄器を用いるアイヌ文化にとって替わられました。
このようなことが本当に起きたのでしょうか。自分で上の仮説を立てながら、それを半分疑っています。
しかしこのように自分で仮説を立てて考えてみると歴史が理解しやすいのです。
大和朝廷が宮城県の多賀城まで領有するまでは、北海道と東北地方の北部は続縄文時代とそれに続く擦文文化時代だったと理解できます。
その頃の人々は日本という言葉も知らず、国家と言う概念も無かったのです。
あるのは大和朝廷に従う人々と従わない蝦夷という区別でした。当時はまだアイヌ人という言葉すらなかったのです。
これで分かったことは私の人生観は明治維新後の国家目標に深く影響を受けていたことです。国家目標は時代によって変わります。しかし最近の日本人の人生観は国家とは関係の無い個人的なものになっているのです。隔世の感です。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。
後藤和弘(藤山杜人)