私はフィリピンに行ったことはありませんがフィリッピンの人々に深い感謝の念を持っています。
その理由は家康によってマニラに追放されたキリシタン大名高山右近の一行約100人を熱狂的に歓迎してくれたからです。私はいいかげんなカトリックの信者ですが、今から丁度400年前のフィリッピンの人々から受けた恩義を絶対に忘れません。
フィリピンの人々が好きです。以下の文章をご覧ください。
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高山右近のマニラでの熱狂的な歓迎と死
右近ら一行やく100名を乗せた船は、一路、マニラ(フィリピン)へと向かった。
誰はばかることのない航海であった。「ボートピープル」「難民」となった彼らだが、大海原を静かに進む船からは、いつも讃美歌と祈りの声が聞こえていた。
順風で行けば一〇日ほどの航程である。しかし老朽船の船脚(ふなあし)は遅く、また逆風・暴風にさまたげられて、航海は一か月以上に及んだ。
この間に、四人の者が死んだ。なかには、在日三二年、聖人のほまれの高かった六四歳のクリタナ師も含まれていた。
ある日、水夫たちの不注意で、船室が水浸(みずびた)しになってしまった。しかし右近は、誰をも咎めることなく、ぬれた書物を孫たちと一緒に一枚一枚ていねいに乾かした。
マニラが近くなったとき、モレホン師は先にマニラに入って、右近らの到着をマニラ総督に伝えた。
マニラ総督ファン・デ・シルバは、すでにグスマン著『ゼズス会(イエズス会)東洋伝道史』を読んで、右近たちのことを知っていた。彼はすぐに右近らの歓迎を計画、受け入れ体制を整えてくれた。
右近たちが港に入ってきたとき、熱狂したマニラ市民は岸壁を埋め、一発の礼砲を合図に歓迎の砲声が響き渡った。その中を右近たちが上陸した。
総督は彼らを官邸に招き、涙を流して労をねぎらった。右近らは、日本の武士流の礼儀正しさで、深い感謝を表した。
ジュスタをはじめ婦人たちも、離れてつつましく控えながらも、熱い涙を流さぬ者はなかった。総督は彼らを馬車に乗せて町を案内したが、道は歓迎の市民で埋まり、聖堂の鐘が鳴り渡った。
聖堂に着くと、彼らは馬車を降り、感謝の祈りをささげた。
・・・・以下省略。原文は、http://www2.biglobe.ne.jp/remnant/takayama.htm に御座います。
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以下の花々の写真と解説http://www2.tbb.t-com.ne.jp/atc/Philippines/philippine_plants.html から引用致しました。原典の著者へ深く感謝いたします。
フィリピン、ムンティンルパ(Muntinlupa)市 に咲いていた花と木です。 ムンティンルパ市 は、フィリピン首都圏の最南の都市でマニラから南に30Km、ハイウエイを車で40分位のところにあります。 北はタギグ(Taguig)市 、北西はニノイアキノ国際空港があるパラニャーケ(Paranaque)市 、西はラスピニャス(Las Pinas)市 、南西はカビーテ(Cavite)州のサン・ペドロ(San Pedro)とラグーナ(Laguna)州 、 東はラグナ湖に接していて、フィリピンのエメラルドとも呼ばれています。
日本では、ヒット曲「あゝモンテンルパの夜は更けて」で知られているため「モンテンルパ」と言われることが多いようです。
ムンティンルパ市のオフィシャル・ウエブサイト(Official WebSite)
上はアラマンダの花です。
上はゴールデン・シャワーの花です。
上はハイビスカスの花です。
上はオルソシホンの花です。
上はドナナ・オーロラの花です。
上はプルンバ-ゴの花です。