北海道には4万年前の石器時代から人が住んでいました。本州北部と同じ文化圏で縄文時代までは同じような土器を使って煮炊きをしていました。
その土器が本州の古墳時代の頃に土器の模様が竹筆で擦ったような模様になって擦文文化時代になります。
そして13世紀になると北方のオホーツク文化と鎌倉時代の日本文化が混然と流入しアイヌ文化が出来上がったのです。
しかし北海道に住んでいる民族は石器時代からアイヌ文化時代になっても同じ北方民族だったのです。大規模な民族移動は無かったのです。アイヌ文化の特徴はそれまで使っていた土器が無くなったことが特徴です。
そして日本から入手した鉄鍋を囲炉裏にかけて料理し、木製の食器とスプーンや箸で食べるようになったことが特徴です。それまで煙道のついた竈を止めてしまって囲炉裏の裸火を煮炊きに使うようになったのです。
その北海道民族の風貌はどのようだったでしょうか。幸いにも、大森貝塚の発見で有名なエドワード・モースが昔からの衣装を着ていたアイヌ人の写真を撮影しています。ボストンの近くのセイラムという港町にあるピーボディー博物館に展示してあるそうです。以下にその写真を3枚示します。アイヌ人の右後ろに立っているのがエドワード・モースです。
写真に写っている人々はお風呂に入りません。散髪屋や美容院にも行きません。それで汚いように見えますが意外に清潔で悪臭も無かったと言います。少し人間愛を持って見つめると彼らの喜怒哀楽に満ちた人生が想像出来ます。いかがでしょうか?
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最後の写真は稗や粟のような雑穀を栽培するための畑を耕している様子です。縄文時代から彼等は雑穀のおかゆを食べていたという説もあります。
このような写真を見ていると、少年の頃、一人のアイヌ人の友人がいたことを思い出すのです。
終戦後に、いろいろな事情でアイヌ人が北海道から私の住んでいた仙台市に移住して来たのです。仙台の郊外の雑木林を切り開いて生活していました。私はそのアイヌ人と仲良くなったのです。
仲良くなったのですが、ある時フッと消えてしまいました。二度と会えません。悲しみだけが残りました。78歳になっても、その頃の事をよく思い出します。
終戦後の小学5、6年のころ、仙台市の郊外に住んでいました。その頃、学校の裏山にある開拓の一軒にアイヌ人家族が住んでいました。
同じ年ごろの少年がいたのでよく遊びに行きました。トタン屋根に板壁、天井の無い粗末な家の奥は寝室。前半分には囲炉裏(いろり)があり鉄鍋がぶら下がっています。
それで全ての料理を作り食事をしています。父親は白い顔に黒い大きな目、豊かな黒髪に黒髭。母親も黒髪で肌の色はあくまでも白いのです。
少年は学校に来ません。いつ遊びに行っても、1人で家の整理や庭先の畑の仕事をしています。無愛想でしたが歓迎してくれているのが眼で分かります。夕方、何処かに、賃仕事に行っていた両親が帰って来ます。父親が息子と仲良くしている和人へほほ笑んでくれました。それ以来時々遊びに行くようになります。アイヌの一家はいつも温かく迎えてくます。いつの間にか、アイヌの少年と一緒に裏山を走り回って遊ぶようになりました。
夏が過ぎて紅葉になり、落ち葉が風に舞う季節になった頃、ある日、開拓の彼の家へ行きました。無い。無いのです。忽然と家も物置も消えているのです。白けた広場があるだけです。囲炉裏のあった場所が黒くなっています。黒い燃え残りの雑木の薪が2,3本転がっています。
アイヌ一家になにか事情があったのでしょう。さよならも言うこともなく消えてしまったのです。これが、私がアイヌと直接交わった唯一回の出来事でありました。60年以上たった今でもあの一家の顔を鮮明に覚えています。
第二次大戦後までは純粋なアイヌの家族が日本人に混じって東北地方にもひっそりと生きていたのです。
一説によると日本共産党が戦後にアイヌ人を助けるために本州への移住を進めていたそうです。でもその真偽もさだかではありません。
それはそれとして、
今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。
後藤和弘(藤山杜人)