後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

ヨットに泊ると楽しい時間の後に苦行の時間が続く

2010年09月19日 | 写真

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しばらくヨットに行っていないと、猛烈に泊まりに行きたくなります。しかし泊まると辛いことが多くて、苦行のようなのです。泊まりに行こう!いや辛いから止めなさい!2つの声が私の心の中で言い争いをしています。

楽しいことは上の写真のようにデッキに座って夜景を楽しみながらビールを飲むことです。涼しい湖の風がほろ酔いの頬をなで、船体を叩く波の音がなんとも心地良く聞えます。空を見上げると一面に散らばっている星がほのかに見えます。周りのネオンサインが明るいので鮮明には見えませんが、神秘的な夜空の高さと広さに心が吸い上げられそうです。航海灯をつけたマストが高くそびえて、宇宙の広大さを引き立てます。至福の時です。それが夕方の5時ころから9時頃まで続きます。

しかしその後は苦行の時間へ一転します。まず狭いキャビンの中を整理整頓します。キャビンの床を丁寧に拭いて、布団を敷きます。そこへ朝まで寝るのです。板の上に寝る。狭い所に寝る。これが苦しい体験です。天井の低い前部寝室に寝ると閉塞感で息が詰まります。そこで天井の高いメイン・キャビンの床に寝るのです。しかし寝心地が悪くて、夜中に何度も起きてしまい、まんじりともせず朝を迎えます。下の写真が狭いキャビンの床に布団を敷いた様子を示しています。

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4時30分になると明るくなります。起き上って布団をキチンと畳んで、前の部屋にしまいます。そしてテーブルを出して、顔を洗い、髭を剃って、コーヒーを淹れます。寝不足なので手が器用に動きません。持参のホットドックをコーヒーで流し込んで出港の準備をします。これら全てが苦行のようです。

出港してセールを出して沖の方まで帆走します。しかし天気もあまり良くありません。しかし一泊した以上は翌日のお昼までは帆走すべきという規則を自分で作ってあります。これも一種の苦行です。下の写真がその様子を示しています。

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趣味は人それぞれでどんな趣味でも良いものです。しかし私の趣味は楽しい時間と苦行の時間の両方があるようにしています。ヨットも山小屋の趣味も両方の時間があります。そのせいか長続きしています。楽しいだけの趣味は私はすぐ飽きてしまいます。しかし世の中には楽しいだけの趣味を長く続けている人もいます。尊敬しています。皆さんの趣味は如何でしょうか?

詰まらいない話で恐縮です。止めます。(終り)


イスラム教はキリスト教と比較すると理解しやすい!

2010年09月19日 | 日記・エッセイ・コラム

キリスト教徒はイエスが神がつかわして人間の為の言葉を伝え、それを書いたものが福音書という新約聖書であると信じています。

イスラム教徒はマホメッド(ムハンマド)が神の啓示を受け、神の言葉を書いたものがコーランであると信じています。

どちらもユダヤ教から派生した宗教なので信じている神は同じ唯一神です。

キリスト教徒はイエスを神からつかわされた唯一人の使者と信じているようにイスラム教徒(ムスリム)はマホメッドを神からの唯一人の使徒と信じています。

しかしイエスの言葉を書いた福音書とマホメッドへの啓示を書いたコーランの内容はとても違います。キリストは人間同士の愛や神と人間の間の愛を中心に人間の救いの道を伝えたのです、キリスト教が愛の宗教と言われるのはその故です。

一方、コーランでは、6つのことを堅く信じて、5つの事を必ず実行することを教えています。1、唯一の神、アッラーを信じます。2、天使を信じます。3、啓典をしんじます。4、使徒(マホメッド)を信じます。5、来世を信じます。6、定命を信じます。の6つのことを信じます。

そして5行とは1、信仰告白をします。2、礼拝をします。3、喜捨をします。4、断食をします。5、巡礼をします。この5つを必ず実行するのがイスラム教徒です。

上に書いた6信5行と福音書の違いを比較すると2者の大きな違いに気がつきます。

福音書には愛の重要性を色々な場面で細かに説明しています。しかし信徒が実行すべき行為は、イスラム教の5行のように具体的に書いていません。

キリスト教には厳しい戒律のある宗派もありましが、一般的には生活を厳しく規制するものがありません。しかしイスラム教では毎日何回もの礼拝と断食と巡礼を必ず実行しなければなりません。これらを実行しなければイスラム教徒ではないのです。

今日の結論を一つだけ書きます。イスラム教は個人の日常の生活の全てをコーランにある通り行うのです。それは会社の中でも工場のなかでも全てに優先するのです。したがって政治と宗教も分離することが不可能なのです。この特徴の善悪を議論してはいけません。ただ虚心坦懐に受け入れて、そして現在の中近東でアメリカが戦争をしている原因を考えてみるのと理解しやすいのではないでしょうか。

最後に、Wikipedeaの「イスラム教」(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%82%B9%E3%83%A9%E3%83%A0%E6%95%99

から引用した写真と説明文を示します。

今日も皆様のご健康と平和をお祈り致します。藤山杜人

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イスラム教の信仰の根幹は、六信五行、すなわち、6つの信仰箇条と、5つの信仰行為から成り立っている。六信は、次の6つである。

  1. (アッラー)

  2. 天使(マラーイカ)

  3. 啓典(クトゥブ)

  4. 使徒(ルスル)

  5. 来世(アーヒラ)

  6. 定命(カダル)

このうち、特にイスラム教の根本的な教義に関わるものが神(アッラー)と、使徒(ルスル)である。ムスリムは、アッラーが唯一の神であることと、その招命を受けて預言者となったムハンマドが真正なる神の使徒であることを固く信じる。イスラム教に入信し、ムスリムになろうとする者は、証人の前で「神のほかに神はなし」「ムハンマドは神の使徒なり」の2句からなる信仰告白(シャハーダ)を行うこととされている。また、ムスリムが取るべき信仰行為として定められた五行(五柱ともいう)は、次の5つとされている。

  1. 信仰告白(シャハーダ)

  2. 礼拝(サラー)

  3. 喜捨(ザカート)

  4. 断食(サウム)

  5. 巡礼(ハッジ)

これに、聖戦ジハード)を6つめの柱として加えようという意見もあるが、伝統的には上の5つである。

これらの信仰行為は、礼拝であれば1日のうちの決まった時間、断食であれば1年のうちの決まった月(ラマダーン、ラマダン)に、すべてのムスリムが一斉に行うものとされている。このような行為を集団で一体的に行うことにより、ムスリム同士はお互いの紐帯を認識し、ムスリムの共同体の一体感を高めている。集団の一体感が最高潮に達する信仰行為が巡礼(ハッジ)であり、1年のうちの決まった日に、イスラム教の聖地であるサウジアラビアマッカ(メッカ)ですべての巡礼者が定まったスケジュールに従い、同じ順路を辿って一連の儀礼を体験する。ーー以下省略ーー


ちひろさんの秋の花々の写真

2010年09月18日 | 写真

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何度もご紹介していますが、ちひろさんのブログから秋の花々のお写真をお借りして上に示します。ちひろさんのHPのアドレスは、http://www.eonet.ne.jp/~hanamusasi/ です。その表紙のブログの項目をクリックすると上の写真が掲載されていますが、もう一つ「デジブック」の項目をクリックすると鮮明で素晴らしい数多くの写真が動画でお楽しめ出来ます。

そして、ブログの方の文章が幸多い毎日の生活をさりげなく描きだしています。少女のように繊細で瑞々しい感情の揺れ動きが短い美しい文章で書いてあります。彼女は高齢の筈ですが、文章は全然年をとっていません。人間はいつまでも若々しくしていられるものです。その実例です。毎日、毎日ご家族を大切に愛しながら、丁寧に時間を過ごしていらっしゃるその生活態度に感動を覚えます。上に示す写真とともに、その文章の方も皆様に広く読んで貰いたいと思います。

お楽しみ頂ければ嬉しく思います。


アメリカの中近東の軍事戦略・・・軍事都市とカタール米軍基地

2010年09月18日 | 写真

1979年のイランの親米のパーレビ国王の追放と、ホメイニ革命以来、アメリカは中近東に大規模な軍事展開をしてきました。その反作用として2001年9月11日のペンタゴンと貿易センタービルの同時攻撃が起きたと考えるのが自然です。

下にサウジアラビア国にアメリカ軍が作ったキング・ハリド軍事都市の衛星写真と米軍基地を提供しているカタールの首都、ドーハの写真を示します。

キング・ハリド軍事都市の八角形の一辺は1kmで直径はやく3kmという巨大な基地で、湾岸戦争やイラク占領作戦ではここから出撃した米軍が重要な役目を果たしたと言われています。

写真の出典は、上がWikipedeaの「キング・ハリド軍事都市」の項目にある写真で、下は同じく、「カタール」という項目の中にある写真です。詳細な説明をお読み頂くとアメリカの中近東の軍事戦略の規模壮大な様子がお分かり頂けると思います。それぞれのURLは、http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AD%E3%83%B3%E3%82%B0%E3%83%BB%E3%83%8F%E3%83%AA%E3%83%89%E8%BB%8D%E4%BA%8B%E9%83%BD%E5%B8%82 と http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%ABです。

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治療を受けない老人の深い理由・・・そして家族の想い

2010年09月18日 | インポート

昨日、「病気の治療をしない老人達の立派な見識」という記事を書き、自分の見識で最後のほうの治療を受けない人も立派ですという私の感じ方を掲載しました。しかし治療を受けない老人の回りの家族は悲しみます。ですから家族の立場からの反対意見を頂けるのではないかと思っていました。趣味人倶楽部の2人の方々からそのような趣旨のコメントを頂きました。転載してご紹介したいと思いますが、かなり個人的な情報が含まれていたのでその趣旨だけをご紹介します。

その一つ、さびーぬさんのコメントでは、7年前に亡くなった御父上の80歳での大動脈瘤の手術の事が書いてありました。そして1年以内に癌が見つかって、2ケ月間治療も出来ないまま亡くなったのです。その御父は幼い頃、両親を失い、祖父母も次々に亡くなり14歳で天涯孤独になったのです。そのような父はきっと両親や祖父のぶんまで長生きしたかったに違いありません。ですから私の記事にある、「見苦しい生への執着を持って、、、」という表現は残された家族にとっては釈然としないというご意見を頂きました。私は即刻謝った上で、文章を訂正しました。さびーぬさんと同じように感じられた方々へのこの場でお詫び申し上げます。

もう一つのコメントは、らいおんはあとさんから頂きました。コメントは、さびーぬさんのコメントへのご感想でした。私の昨日の記事に「ある意味の納得をしました。しかし執着を持たないと言ったら嘘になります。らいおんはあとさんには尊敬していた伯父さんは居ました。素晴らしい生き方をして世界各国を飛び歩いていました。そして30年の病魔との戦いの後で、親族を一人一人枕元に呼んで、はっきりした声で、「90歳までは生きたかった」とおっしゃったそうです。

あんなに素晴らしい生涯を送った伯父にもしたいと事がまだまだあったに違いありません。そんな事を暗示させる文章でした。

病気になった老人の闘病生活を家族は助けます。愛している家族は悲しみます。家族の立場からは病人が徹底的に治療を受けることを祈っています。美しい心から生まれた2つのコメントへ感謝いたします。

さて、ガンの治療を止めようと考えているyuyuさんからはその深い理由をコメントとして頂きましたので以下にご紹介いたします。

=======ガンの治療を受けないyuyuさんの深い理由==========

今回の身勝手な私の日記をご紹介頂いて恐縮致しております。今朝、紹介者の診療所の先生とその後を話して参りました。彼は内科の胃腸科の専門ですから、側面からのアドバイスをしてくれました。自分の父親だったらこう選ぶと親身になって説明です。有難いことです。怪しい以上は、癌であればその種類を知り、其れにあった治療を選ぶと言います。麻酔をかけて、沢山の針を挿して行うため、出血し、その対応に2日の入院は賢明であると。その後は、ホルモン療法が良いとのことでした。

私と家内は、共に、癌に罹った場合、抗癌剤を使わない。手術をしないと約束しておりました。

家内の母親は50代で癌に苦しみました。私は祖母が癌でしたが、同じ50代の若さでした。兄弟に相談して、手術をしないことにしたと聞いていますが、真実は金銭的理由だったと思うのです。当時は保険もなく、兄は大学、下に私、弟、妹がいました。無理もないことでした。兄と重なると学費も倍になると思い、私は受験をしないで何年間か浪人をしました。祖母自身が手術を拒否したのは経費を心配したためだったと思います。

私は手術を恐れるのでもありません。私が癌の手術を受けない理由は、祖母を偲び絶対しないと決心からなのです。その決心をしたのは祖母を背負った時の軽さに驚いた記憶を忘れられないからです。随分昔になりますが、ある時、大学一年の夏休みに帰省しました。祖母が退院すると聞いてです。タクシーから祖母を背負ったのですが、女丈夫の彼女の軽さに哭きました。私の入学を祝う言葉は「すまない。私が病気してお前に苦労かけた」でした。治ること無い祖母に「早く良くなって、早稲田を案内するね」と云うのが精一杯でした。

私は還暦を過ぎてからは儲け物の人生と思う様になって、命を惜しむ心がなくなったのでした。それ以後の活動が華やかになりました。人のために働くことに集中しました。其れが、健康の源にもなりました。海外との文化交流、国内の芸術活動も自分のためではなく人のためでした。長々となりましたが、癌と私の関わりはそのような過去があるからなのです。(終り)

=======癌と私の関わりはそのような過去があるからなのです。=====

ガンの治療を受ける人、途中で止める人、始めから受けない人。それぞれ深い、深い個人的な理由があるのです。何か粛然とするyuyuさんのコメントです。

それだからこそ一層、皆様のご健康と平和を神に祈りたいと思います。藤山杜人


米国はサウジへ5兆円の最新武器を売った・・・これではテロは止まらない!

2010年09月17日 | 日記・エッセイ・コラム

サウジアラビヤという国はアラビア半島の中央の大部分を占めるイスラム教国です。親欧米路線をとっていて国内にはキング・ハリド軍事都市など大規模な米軍基地が幾つも存在しています。

下の地図はWikipedesaの「サウジアラビア」の項目からお借りしたアラビヤ半島の地図です。欧米諸国、特にアメリカと親しくしている国はサウジアラビアの東のアラブ首長国連邦、その北のクエート、です。イラクは米軍の勢力下にあります。逆にアメリカへ敵対している国はイラン、シリア、ヨルダン、パレスチナなどです。

そのような情勢の中でアメリカは6兆円もの最新武器を売る決定をしたのです。

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輸出するものはF15戦闘機84機、攻撃ヘリ・アパッチ70機、多用途ヘリ・ブラックホーク72機、特殊作戦ヘリ36機も含まれています。その結果としてアメリカ国内の雇用も77000人増加するそうです。

サウジアラビアは徹底した保守的イスラム教の国で男尊女卑の王国です。王族と支配階級は親欧米路線のお陰で絶大な権力を持っています。

それに反発したサウジ出身のウサーマ・ビン・ラーデンがテロ活動を続行しているのです。

このアメリカのサウジへの武器輸出はテロの火に油を注ぐ事になるのが必定です。困ったものです。

Wikipedeaの「サウジアラビア」の項目からこの国の概略と軍事情勢の部分を抜粋して付記いたします。(終り)

サウジアラビア:

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%82%A6%E3%82%B8%E3%82%A2%E3%83%A9%E3%83%93%E3%82%A2

1990イラクが隣国クウェートを侵略して湾岸危機が起こると、国土防衛のために米軍の駐留を許可した。聖地メッカのあるサウジアラビアに異教徒の軍隊が駐留することに敬虔なイスラム教徒たちは反発し、後に同国人のウサーマ・ビン=ラーディン反米テロを組織する原因ともなった。2005

にファハドが死去し、彼の異母弟のアブドゥッラーが即位した。

軍事

基本統治法33条によればサウジアラビア軍が守るべき物の優先順位は「イスラム教義」「二聖モスク」(マスジド・ハラーム預言者のモスク)「社会と祖国」であり国民や人権などの防衛は含まれていない。少なくとも建前の上では、国民と国民の権利を守ることを第一とした欧米の軍とは基本理念が異なる。

アメリカ軍と親密な関係を持ち、アメリカ中央軍第3の部隊駐留を認め、キング・ハリド軍事都市など国内にいくつものアメリカ軍基地を持っている。兵站に必要な軍事施設同士の道路交通網などもアメリカによって整備されている。

装備はアメリカ式の物だけでなく世界中から様々な装備を採用しており、運用面で不自由しないのかと思うほど多種多様な兵器を装備している。特に、サウジアラビアしか採用しなかった兵器なども多く、まるで博物館のように多用な兵器を装備している。その背景には、武器購入を通じて緊密な友好関係を結ぶことや、軍首脳と軍需企業との汚職がある。特に、駐米大使を長く務めたバンダル王子(当時国防大臣だったスルタン皇太子の息子)は1982F15の輸入に際してアメリカ議会で強力なロビー活動を展開し、またBAEシステムズとの400億ポンドにのぼる取引でも王子側に10億ポンドの賄賂が渡ったことが明らかになっている。湾岸戦争イラク戦争では後方基地としての役目を担っていた。志願制であり、職業軍人により構成されている。


病気の治療をしない老人達の立派な見識

2010年09月17日 | 日記・エッセイ・コラム

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人間は幸いに生きながらえていると例外なく老人になります。すると多くの老人は何かの病気になります。病院へ行くと色々な検査をして手術をします。昨年夏、前立腺ガンの全切除手術を受けました。その検査段階から武蔵野赤十字病因の泌尿器科部長の田中良典先生と定期的に何度も診察を受けています。ガン細胞が取りきれず、少しずつ増えているようなので3、4ケ月に1度診察を受けています。彼は白黒をはっきり言うタイプの人で説明が明快です。その上根気よく困難な手術を何時間も完遂します。私は心から信頼しています。その彼は現代医学の限界と自分の限界をよくわきまえています。ですから手術を受けるの受けないもご自分の判断が一番重要ですと断言します。高齢者になると体力が無くなり手術の負担が大きいとも説明してくれました。外科医には兎に角やみくもに切ってしまいなさいと強く勧める人が多いのですが、田中先生は他の治療法も丁寧に説明します。そして何もしないで定期的に診察を受けて観察を続行するのも良い場合もありますと付け加えます。

私のネット上での友人にyuyu(尾張裕峯)さんという陶芸家が居て、日本藝術協会を主宰し活躍している方がいます(http://yuhoh.hp.infoseek.co.jp。彼の最近の日記の一部に下記のような文章があります。この決断

・・・・医師はどうしても前立腺ガンの検査のPSAの数値にこだわって見ますから、今度は限りなく癌に近いとの判断です。次は、詳しい検査で再度確認するかどうか私の意志しだいだといいます。
患部に針を挿して、細胞を取って、検査です。入院2日、麻酔をかけて患部に傷をつけるのですから、本人の判断にまかせますと言います。
知人二人のうち一人はある病院で、手術を受けましたが、2年と持たずでした。
私の年ぐらい(76歳位?)になると、何もしないで過ぎすことも選択枝の一つです。
多分、それを選ぶことになると話して本日は帰りました。親から貰った体を傷つけずに終えると云うのが私のモットーです。・・・以下省略

この決断は老人の素晴らしい生き方と思います。私は思わず頭が下がりました。

生に執着をし、あれこれ苦しい治療を受けている最中に全然別な病魔の襲われアットいう間に旅立って行く人もいます。そのような例を見聞きする度に病気との付き合い方は自分の見識で決めるのが良いと思うようになりました。

人間は生きている限り何かを捨てて行かねばなりません。老人になったら単に馬齢を重ねることに執着せず何かを捨てる見識を持ちたいと思うこの頃です。皆様はどのようにお考えでしょうか?

だからこそ一層、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。藤山杜人


今日は終日雨、晴天にあこがれる

2010年09月16日 | 写真

3日前から酷暑の夏が一転、さわやかな秋の日になりました。火曜日、水曜日と輝くような青空が見えましたが、今日の木曜日は夜から激しい雨です。昼も雨。夜になっても雨です。晴天が懐かしくなって3日前の写真を眺めて元気になっています。

霞ヶ浦の昼と午後と夕方の3枚の写真をお送り致します。お楽しみ頂ければ嬉しく思います。

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あなたはこういう人生をご存知ですか?

2010年09月16日 | 日記・エッセイ・コラム

一昨夜はヨットの上でビールを独り飲みながら昼間に一緒にセイリングをしたTSさんの人生を考えていました。

このブログでは信仰篤い神父さん、牧師さん、伝道師さん、そして修道女などの生涯をご紹介して来ました。唖然とするほど立派で素晴らしい人生です。しかし一昨日会った普通のTSさんの人生も素晴らしいと感動しました。自分で料理人ですと言います。洋食の方ですと言います。目下失業中ですとも言います。あせって居ません。ヨットを楽しみながら就職の為の面接に行っているそうです。

若そうにしていますが孫がいるそうです。会社の食堂やレストランで働き子供を育てました。私が料理の腕があると気楽でしょうと言うと途端に真顔になります。気楽なことはありません。限られた材料と予算で美味しいものを作るということは大変な仕事ですと言います。その上仕事がキツクて始発の電車で行って終電で帰ることもしょっちゅうでしたと言います。現在は茨城県の両親の家に住みながら老人の世話をしているそうです。

彼の人生が素晴らしいと気軽に断言する理由があるのです。ヨットに乗って少し荒れる湖を一緒にセイリングすると、その人の性格や本音が見えます。少し身の上話を聞くと人生観が見えて来ます。ヨットの上では「率先実行」が一番重要です。常に風を見て、セイルや舵を調整します。私は悠々と座っていて、つらい仕事は避けています。彼はそのつらい仕事を素早くします。的を外しません。

聞くと渡良瀬湖へ小型ヨットを運んで行って毎週のように楽しんでいます。的を外さない訳です。その小型ヨットをトレーラーに乗せて引くために大型の車を持っています。そしてその車をキャンピングカーに改装しています。話をしていると奥さんの自慢がさりげなく挟まっています。

彼は料理人というキツイ職業を持ちながら家族を愛し、身丈にあった予算で趣味も楽しんでいます。一緒に泊る予定でしたが、強風のお陰で、沖まで快走し、帰港が3時前になりました。何となく家に帰りたそうにしますので一緒の一泊は延期にしました。

彼のキャンピングカーの内部を見せてくれて帰って行きます。出口の南京錠を開け。重い鎖を外し、彼の車を出しました。外に出た彼は車を止めて、また戻って来ます。重い鎖を引っ張って私が南京錠を閉めるのを助けてくれるのです。それで一瞬にして分かりました。彼はどんな職場でも人の嫌がるキツイ仕事を率先して来たのです。弁舌ではありません。周りの人々へ感謝されて来たのです。ああこういう人生もあるのです。そういう人に会ってこちらも何故か幸福感に包まれました。

暗いヨットの上でビールを飲みながら、夜の時間が静かに過ぎて行きます。昼間一緒にセイリングしたTSさんの人生をあれこれ想像しながら。

下に彼のキャンピングカーの写真2枚と、ビールを独り飲んでいる私の目の前の夜景の写真をお送り致します。

今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。藤山杜人

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秋風のセイリング、そしてヨットに一泊して来ました

2010年09月15日 | 写真

昨日はヨット仲間2人と、秋風の中を蝶が舞うように風と一体になってセイリングを楽しんで来ました。東北の風が強く吹いていて6から7ノットで走りました。

いつも同じような写真で恐縮ですが、3枚お送りいたします。

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16世紀までは欧米より中近東の方が圧倒的に文化的優位に立っていた!

2010年09月15日 | 日記・エッセイ・コラム

文明の起源は中国、インド、中近東とエジプトと言います。

ハムラビ法典や楔形文字やヒエログリフ文字が生まれたのも中近東とエジプトです。

三鷹市にある中近東文化センター付属博物館を何度も見ていると中近東とエジプトの絢爛たる文化に圧倒されます。特に文化が栄えたのは750年から1258年まで、508年も続いたアッバース朝という王国の時代でした。その頃のヨーロッパ大陸は暗黒の中世と言われるように貧しい農村が未開拓の深い森の間に散在して居ただけでした。宗教改革前のキリスト教はイエス様の時代の生彩さを失い、堕落したものになっていたのです。

そのヨーロッパがルネッサンスを経て、宗教改革を起こすと、途端にガレリオやコペルニクスなどに代表される科学が発展しました。それがやがて量子力学や相対性理論jへと繋がり、中近東やエジプトのイスラム文化圏を圧倒するのです。

科学の進歩は産業革命をもたらします。近代工業から生まれる武器はヨーロッパ以外の国々の武器より格段に大きな殺傷能力を持っています。ヨーロッパ諸国が世界中に植民地を持つようになりました。

中近東もエジプトのイギリスやフランスの植民地や委任統治領になってしまったのです。現在のイラン(ペルシャ)だけはかろうじて独立を守りましたが、欧米の強い影響はまぬかったのです。

現在のアメリカとイスラム勢力との争いの根源はこの植民地時代の怨念にあると言っても過言ではないと思います。下に中近東文化センターの展示物の写真と、Wikipedeaの「イラン」という項目に出ているアッバース朝時代のらせん形のミナレットの写真を示します。出典は、http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%A9%E3%83%B3 です。

今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。藤山杜人

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===上の出典と同じところからアッバース朝の説明文を抜粋します。===

アッバース朝?????? ???????? al-Dawla al-‘Abbāsīya)は、中東地域を支配したイスラム帝国第2の世襲王朝750年 - 1258年)。

イスラム教の開祖ムハンマドの叔父アッバースの子孫をカリフとし、最盛期にはその支配は西はモロッコから東は中央アジアまで及んだ。アッバース朝ではアラブ人の特権は否定され、すべてのムスリムに平等な権利が認められた。

東西交易、農業灌漑の発展によってアッバース朝は繁栄し、首都バグダードは産業革命以前における世界最大の都市となった[1]。また、バグダードと各地の都市を結ぶ道路、水路は交易路としての機能を強め、それまで世界史上に見られなかったネットワーク上の大商業帝国となった。

アッバース朝では、エジプトバビロニアの伝統文化を基礎にして、ペルシアギリシアインドアラビア中国などの諸文明の融合がなされたことで、学問が著しい発展を遂げ、近代科学に多大な影響を与えた。イスラム文明は後のヨーロッパ文明の母胎になったといえる。

アッバース朝は1258年にモンゴル帝国によって滅ぼされたが、カリフ位はマムルーク朝に保護され、1518年にオスマン帝国スルタンセリム1世によって廃位されるまで存続した。


中近東文化センター付属博物館の紹介(4)出光美術館名品の常設展示

2010年09月14日 | 写真

出光美術館は東京都と門司市にあります。そのホームページは、http://www.idemitsu.co.jp/museum です。

それがどういう事情が知りませんが、中近東文化センター付属博物館にも出光美術館の名品が常設展示してあるのです。特に中国の景徳鎮の大物や伊万里や九谷焼の大皿があるのです。圧倒的です。陶器の趣味の方へ自信をもってお勧めできます。その上、板谷波山の上品な作品も展示されています。常設展です。展示物は時々変わりますが、どうも出光美術館の名品と入れ変えしているようです。

この部分は撮影禁止なので、出光美術館のHPから写真をお借りしました。

一番上の写真は中国の大きな磁器で出光のHPに出ているものが中近東文化センターにありました。

二番目の九谷焼の大皿は展示されて居ませんでしたが、同じような名品がありました。

三番目は波山の上品な作品です。同じものは展示されていませんでしたが3点の波山の作品がありました。

全て重要文化財クラスのものです。なぜそれが中近東文化センターに常設展示されているのか不思議です。

写真をお楽しみ頂ければ嬉しくおもいます。

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イスラム教とイラン(ぺルシャ)の歴史(1)イスラム教徒の世界的分布

2010年09月14日 | 日記・エッセイ・コラム

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中近東文化センターで昔の金貨を見ました。上の写真がそれです。日本では縄文時代や弥生時代の頃から、中近東ではすでに精巧な金貨が流通していたのです。

そして610年、マホメッドがイスラム教を作ってから以後の金貨には王様の肖像が一切無くなり、神を讃える文章だけが刻印されています。

偶像崇拝を禁止した宗教なのです。お釈迦さまも偶像崇拝を禁止しました。それを思い起し、イスラム教へ強い好奇心が湧いてきました。そこでWikipedeaの「イスラム教」という項目を開いて長い文章を昨日から読んでいます。

この一神教はユダヤ教からキリスト教が派生したように7世紀の初めごろマホメッドが神の啓示を受け、つくられた宗教です。ですからこの3つの宗教は親類同士なのです。

教義の理解をした後で、シーア派とスン二派の違いなどを理解しようと勉強しています。頭脳が老化して硬くなっているのでなかなか勉強が進みません。しかし私はキリスト教徒なので、その親類のイスラム教の教義はある程度感覚的に理解出来ます。理解した範囲のことを少しづつ書いて行きたいと思います。間違ったことも書くと思いますが、是非ご指導のほどをお願い申し上げます。

皆様も「イスラム教」http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%82%B9%E3%83%A9%E3%83%A0%E6%95%99 を開いてみてお読み頂ければよいと存じます。

教義の内容に入る前にイスラム教がどれくらい世界に広がっているか見て見ましょう。下の図面は上のURLから転載させて頂きました。世界中の信徒の数は11億人だそうです。キリスト教徒の16億人についで2番目に多い信徒数です。

下の図面の色の濃い所ほど信徒数が多いのです。世界中に広がっています。中国にも昔から回族というイスラム教徒が多数居ます。北京の大学には回族の学生専用の食堂があり、豚肉抜きの料理を出しています。日本には正確な統計はありませんが5万人位居るという話もあります。アメリカ合衆国にも数百万人いるという話もあります。この中でアメリカへ激しく敵対している国々はイラン、シリア、パレスチナ自治区、アフガニスタンのタリバン一派など中近東の国々です。

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9・11同時テロ事件以来、イスラム教徒を悪魔のように宣伝するアメリカ人が居て、日本人もなんとなく避けている雰囲気があります。しかし大部分のイスラム教徒は善良な人々です。一部のテロリスストだけが特別な存在なのです。もっともっと親近感を持って考えるほうが良いと思っています。親近感を持つためには美しいモスクの写真を何度も見るのが良いと思います。そこで、モスクの写真を、「イスラム教」http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%82%B9%E3%83%A9%E3%83%A0%E6%95%99から転載いたしました。お楽しみ頂ければ嬉しく思います。

今日も皆様のご健康と平和をお祈り致します。藤山杜人

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中近東文化センター付属博物館の紹介(3)世界中のコーヒー器具の展示

2010年09月13日 | 写真

昭和37年から東京の郊外の吉祥寺にモカというコーヒー専門店がありました。店主の標(しめぎ)さんご夫妻が、世界中をまわってコーヒー豆の研究をしながら、コーヒー茶碗や器具の収集をして来ました。閉店するにあたりその収集品を中近東文化センターへ寄付しました。

その一式が展示されています。コーヒーがお好きな方々は是非一度ご覧下さい。下に展示品の一部の写真をお送りいたします。

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あなたは「9・11同時多発テロ事件」が何故起きたかご存知ですか?

2010年09月13日 | 日記・エッセイ・コラム

下の写真はWikipedeaの「9・11同時多発テロ」の項目に出て居る写真です。2001年の9月11日、ワシントンの国防省がテロリストの操縦する大型旅客機が突入した直後の様子です。

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私は9・11テロ事件のその後のアメリカ社会への影響を過小に評価していました。

アメリカ人と付き合っているある日本人が9・11事件の事を血相を変えて話しているのを聞いたことがあります。アメリカ人に近い人ほど深刻な事件として説明してくれます。我々日本人は太平洋の向こう、それもアメリカ大陸のあちら側で起きたことなのであまり重大に考えていません。しかし21世紀の世界の平和を考えると、9・11テロ事件が非常に大きな危険信号になっていると思います。

イスラム過激派のテロリストが4機の大型旅客を乗組員、乗客ともにハイジャックして突入したのです。一機は国防省本部のペンタゴンという建物へ、二機は貿易センタービルへ、一機は乗客が蜂起してテロリストを制圧しましたが、墜落し全員死亡しました。

私は何故こんな悲惨な事件が起きたのか原因が分かりません。貴方はご存知でしょうか?もしご存知ならお教え下さい。

私はこの疑問を解くために少しずつ調べています。1915年に始まった第一次世界大戦以前からの西洋諸国の植民地政策が事件の根源のような気がします。しかし直接的にはイスラエルの無理な建国や「湾岸戦争」が引き金になっているようです。下にWikipedeaの「湾岸戦争」の項目にあるその戦争の写真を示します。

これからしばらく皆様とご一緒に中近東の歴史を考えて行きたいと思います。どうぞ宜しくお願い申し上げます。

今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。藤山杜人

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