後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

強い北風の中、ジブだけでセーリングして来ました

2010年09月24日 | 写真

曇りで風の強い日でしたが、2人の嬉しいお客さんが来てくれました。クルーザーヨットに乗る楽しさを深く分かっているお客さんです。今年の夏の前に、東京湾で一緒に大型ヨットに乗って、知り合ったYMさんとTSさんです。熱心にヨットの構造から、走り方まで学ぼうとしています。

その上、集合してから2時間半も修理をしてくれました。YMさんはスクリュー軸からの水漏れを解決してくれました。TSさんはボルト・ナットが外れてダイナモがエンジン本体から脱落しかかっている危険な状態を修理してくれました。そして自働操舵装置の固定軸の受け木をネジ止めし防水剤まで塗ってくれました。最後にメイン・シートが入るマストの穴を電動ドリルと電動ヤスリで削って、シートが擦り切れないように滑らかな穴にしてくれました。

その後で、12時30分に出港しました。沖にでると北風がビュービュー吹いています。ディンギーを持ってて、いつもセイリングをしているTSさんが今日はジブだけですねと言います。

YMさんもTSさんも自分から率先していろいろしてくれますので全てを安心して任せます。私は楽なセーリングです。しかし強風なので大きくヒールします。突風も来ます。YMさんとTSさんが頑張ってくれます。しかし沖では波も荒く、ますます風が強くなりましたので帰港しました。

6.7ノットが最高速度でした。楽しいセイリングをして、修理までしてくれたYMさんとTSさんへ感謝し、午後3時に解散しました。次回は10月4日からの週に、またしましょうと約束しました。変わり映えのしない写真ですがお送りいたします。冷たい北風がビュービュー頬をなでているとご想像下さい。失礼しました。

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世界を支配する帝国としてのアメリカを内側から支えるもの

2010年09月24日 | 日記・エッセイ・コラム

アメリカの世界制覇は21世紀も続くと言われています。歴史上、ローマ帝国も強大でしたが、世界帝国としてのアメリカはそ以上の広がりを有しています。

それを内側から支えているものはいろいろありますが、今日は激しい自由競争を中心にした個性教育を取り上げ、ご紹介したいと思います。制度そのものは日本と似ていますが、実際の学校の内容は雲泥の差があるのです。以下にその大きな違いを、私の体験にもとずいて描き出してみたいと思います。

@アメリカの学校における個性教育が強い社会を作る 

日本の学校で個性教育の重要性が叫ばれていますが、個性教育の具体的内容の議論が少なく、抽象的な理想論だけがまかり通っているようです。

アメリカの学校でも集団で生徒を教育しているので、表面的には日本と同じです。ところが教育の仕方や重点の置きかたが決定的に違うのです。

日本の学校では総平均点のみが重要視されています。また暗記力を重視し知識の多さだけをもって成績を決めがちです。知識の暗記は個人の独創性を殺すという事実を日本では無視しているのです。

一方アメリカの学校では総平均点の他に、科目毎の優等賞、絵画コンテスト、ボランテア賞、スポーツでのマネージャー賞などなど色々な賞を与え、優れた個性を引き出そうとしています。したがって生徒間の競争が多種多様になり、決して知識の暗記能力を比較することはありません。 

多様な自由競争が一番重要視されます。これは知識の暗記のみを重視する日本の学校には受け入れられない教育方法です。

このような学校内の教育の重点の置き方が非常に違うだけでなく入学試験のあり方の相違も重要です。

@アメリカの大学には入学試験が無い・・・大学の高い教育効果

日本ではあまり知られていませんが、アメリカの大学には入学試験が有りません。その代わり高校の時の総平均点(GPAと呼ぶ)で大学入学の可否を決めています。書類選考だけです。

取得科目数が多くて総平均点が高ければどこの有名大学へも入学できるのです。このように総平均点で選ぶので結局は日本と同じように見えますが入学試験が無い事実は非常に大きな違う結果をもたらします。

例えば、入試向け専門の暗記勉強や予備校・塾の類が無くなります。普段の高校の勉強を熱心にして成績を上げていれば自然に希望の大学へ入学できるので必要が無いのです。

また大学入学の場合、総平均点が低くても、数学や物理のみが優秀であれば有名大学の数学科や物理学科へ入学出来ます。生物系の学科が特に優秀であれば医学部への入学も可能です。従って高校以下の学校では好きな学科目だけ勉強しても良いのです。個性の輝きを尊重して入学を認める。これが個性教育の実態です。

一方、日本では学校の優劣を全生徒の総平均点でランクづけします。従ってアメリカ式教育をすると、その学校の順位が下がってしまう場合があります。日本では学校の順位が下がれば優秀な生徒が集まりません。それでは困ると考える学校関係者が多いのです。。

アメリカの大学では良い意味での「玉石混交」の大学生が集まっています。多種多様な才能を持った学生が大学を卒業して社会へ出て行くのです。柔軟で強力なアメリカの社会がこうして出来あがっているのです。種々の才能を持った個人が社会を構成しているのがアメリカです。日本ではこのような学校教育はほとんど不可能です。 

 @アメリカの大学には何故入学試験がないのでしょうか? 

日本では毎年一回だけの大学入試試験で入学者を決めています。

アメリカでは個々人の異なる才能を1回の入学試験で判定するのは不可能であり、不公平と考えています。その代わり、大学の1年生から2年生へ進級するとき成績の悪い2割くらいの学生を強制退学させます。その後も、2年から3年、3年から4年への進級の折に、更に卒業の時にと、毎回成績の悪い1割くらいの学生を強制退学させます。

この強制退学の制度は、「一回の入学試験」を4回に分けて行うという考え方です。学生の勉強の成果に従って大学から卒業する学生を厳しく選んで行くのです。個人の成果を尊重した、しかし厳しい選別方法です。 

この強制退学制度は大学内の教育効果を決定的に向上させています。大学は勉強しないと卒業できない。この当たり前の考え方を一番有効に実現する方法です。 

日本の大学ではこれが実行できません。もし毎年2割もの強制退学者を作れば社会的に大問題になります。しかしアメリカでは当然のこととして社会からも広く歓迎されているのです。 

アメリカの大学は2学期制と4学期制がああります。2学期制では120単位を取得すると卒業できます。これは表面的には日本の大学と同じです。4年に分けると1学年30単位であり、それを取れば1年ずつ進級出来ます。しかしアメリカでは、全ての科目で何回も試験に合格しなければ単位が与えられないのです。実は、これがなかなかの難関です。日本の大学のように容易に単位を与えないのです。

@アメリカの大学の飛び級制度の威力 

ところで、優秀な学生は120単位を3年で取得する者もいます。するとその時点で卒業出来ます。このように4年制の大学を3年で卒業するのを飛び級と言います。アメリカでは飛び級で卒業した学生は就職が簡単で、その上初任給が多いのです。しかし、一方で、5、6年かけて卒業する人も居ます。人それぞれの考えで大学に在学する年数を決めているのです。

アメリカでは一流大学で取得した単位はどこの大学へ転校してもその大学の取得単位として認められます。転校が自由なのです。日本の例で言えば、北海道大学の経済学部の2年後期を終了した学生が東京大学の経済学部の3年生として転校出来るような制度です。日本では不可能ですね。

筆者の体験ですが、東北大学の工学部の修士課程で取得した28単位の全てをオハイオ州立大学の工学部の大学院の取得単位として認定してくれました。到着直後にいきなり博士課程へ受け入れてくれたのです。これもアメリカの教育制度の優れた点と感心しました。

@アメリカの大学は激しい競争と厳しい試験の連続

私はアメリカの大学院に在学した2年間ほど激しく勉強を続けた経験は生涯で唯一つの体験でした。それは地獄のような厳しい勉強と競争の体験だったのです。

3ケ月毎の期末試験で少しでも成績が良くなると翌月の給料が増えたのです。貧乏暮らしだったので、それが嬉しく、ますます激しい勉強をした思い出があります。

日本の大学の甘さは世界に類がないと言われています。実感としてそれは本当だと思います。甘やかされた大学生が世の中へ際限もなく毎年出て行く日本の社会は脆弱な社会になるのは当然かも知れません。日本が韓国に追い越され、中国に追い越されるのも致し方無いと思います。

アメリカは21世紀も世界を制覇し続ける大帝国として存在すると思います。何故なら、その原因がアメリカ社会の内側に厳然として存在しているからです。原因はいろいろあって決して単一なものでなく複数の原因が組合っていると考えるのが自然です。しかし非常に重要な原因はアメリカの優れた学校教育にあると私は信じています。皆様はどのようにお考えでしょうか?

今日も皆様のご健康と平和をお祈り致します。藤山杜人

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写真の説明:左は、オハイオ州立大学内のLord Hall という建物で筆者が1960年から1962年の間に実験装置を作って研究していた建物です。

右は同じくFontana Laboratory という建物で、マフィアの親分のように見える学科主任のFontana教授が建設費の一部を寄付して作った建物です。彼の部屋はこの入り口を入りすぐ右手にりました。懐かしい写真なのでついでに掲載いたしました。


私達の真ん中にイエス様が立っていらっしゃる

2010年09月23日 | 写真

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今日はカトリック小金井教会の亡くなった全ての信者の為の追悼のミサがありました。この4月まで主任司祭だった山本量太郎神父様が久しぶりに来てミサを司式して下さいました。今日のミサは特に年に一回のグレゴリオ聖歌による歌ミサでした。訓練を積んだ信者の合唱隊が美しいラテン語の聖歌を歌ってくれました。

山本神父様の説教は、「私達の真ん中にイエス様が立っていらっしゃる」という主題で話を進められます。聖歌を歌っている間も、そのイエス様へ向かって歌って下さい。そして亡くなった全ての人々の為に御祈りして下さい。亡くなられた方々も皆様の為に祈っています。そして亡くなられた方々と一緒になって祈りましょう。そのようなお話でした。いつもそうですが、山本神父様が司式をすると、本当にイエス様が祭壇の前に立っているのです。山本神父は自分の弟子を作らないで、信者を皆、イエス様の弟子にしようとしています。久しぶりにイエス様のお姿を見ることが出来ました。

グレゴリオ聖歌が一年間練習をしただけに流石に素晴らしい4部合唱でした。昨年二度だけ参加した神田のニコライ堂の正教会の歌ミサを思い出します。

亡くなった両親、家族、そして全ての人の為に御祈り致します。            シルベスター藤山杜人

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お彼岸になると亡くなった人を思い出す・・・一度だけ会った本田宗一郎さんの思い出

2010年09月23日 | 日記・エッセイ・コラム

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お彼岸になると亡くなった人を思い出します。亡くなった父母や家族のことを鮮明に思い出します。そして一度しか会わなかったのに忘れられない人のことも思い出します。一度だけ会ったが印象が深い人です。そのような人に本田宗一郎さんがいます。強い個性とその元気さは今でも忘れられません。とにかく元気な方でした。もう20年以上の前のことです。

◎米国で尊敬される本田宗一郎

1988年、オハイオ州立大学で働いていたとき、本田宗一郎氏がオハイオ・ホンダ工場を視察に来た。工場はフル操業しており地元経済は活況を呈していた。地方紙が一面トップで本田氏来訪を伝え、翌日の新聞には黒人の労働者と握手している写真が大きく出た。広大な工場を視察し、多くの労働者と親しく会話し、握手をしたと報じた。

アメリカの大企業幹部は工場労働者とは握手をしない。食堂もトイレも社員と労働者は別である。ところがホンダ工場は一緒。本田氏は「自由と平等」をホンダ工場の中で徹底した英雄といえる。

よく知られているように、本田氏は小さなオートバイ工場を出発点にして、世界中に乗用車製造工場を建設した。この話はアメリカ人の好むアメリカン・ドリームの物語である。飾らない開放的な人柄も手伝って、多くのアメリカ人に尊敬されている。

@面白い体験

オハイオに住んでいると、日本人という理由で親切にされる。ホンダ工場のおかげである。近所のガソリンスタンドで車を修理してもらった。「日本人か?」と修理工。「そうだ」「ならホンダ工場の日本人に頼んで就職できるよう話をつないでくれない?」

ホンダ工場とは付き合いが無い。1週間後にホンダの採用窓口の電話番号を調べて教えたら、「有難う!忘れていなかったのが嬉しい」。アメリカ人に頼まれたらできる範囲のことをしてあげる。なぜそこまでしかできなかったのかを説明する。

学科の同僚教授へ呼び掛けてホンダ工場を見学に行った。緑輝く牧場に囲まれた工場は隅々まで清潔で、労働者は色々な人種が混じっている。組み立てラインでキビキビと正確に部品を取り付ける。こんなに楽しそうに働くアメリカ人の集団を見たことがない。一緒に行ったアメリカ人教授も皆この集団に圧倒されていた。

アメリカの頭痛の種はリンカーン大統領の昔から人種差別の問題。ホンダ工場では黒人も白人もアジア人も同じ組み立てラインに平等に働く。ラインはいつも動いており、チームワークが絶対に必要である。声を掛け合って部品の取り付けが遅れたり不完全になったりしないようにする。

「黒人と白人が一緒に楽しく食卓を囲む日が必ずやって来る!」―暗殺された公民権運動の黒人リーダー、キング牧師の言葉を思い出す。ホンダの組み立てラインをキング牧師に見てもらいたかった。

@本田氏を訪問

その年の初冬、オハイオの恩師夫妻と東京駅八重洲口のホンダ会館へ本田氏を訪問した。目的はホンダ工場と大学との共同研究をお願いすることだった。本田氏は機嫌がよかった。戦前に芸者さんと飛行機に乗った話、初めてオートバイを作ったころの話、マン島レースでの優勝の話などを楽しそうに語ってくれた。

民間企業から研究費を貰う交渉に抜群の能力を発揮する恩師が本田氏の話をウットリして聞いている。上気して、尊敬の眼差しで本田氏の顔を見上げている。帰途、「終始黙っていましたね。研究費を貰う話はどうなったのですか?」と聞くと、「そんな話は出せなかった。お話を直接聞けたことが人生で二度とない貴重な体験だった」。そして、その後間もなく本田さんは天寿をまっとうして亡くなった。

オハイオ州立大学のアメリカンフットボール競技場には、本田さんが寄付した巨大な電光掲示板が現在も立っていると言う。あれから茫々20年。今日はお彼岸の中日、本田さんのご冥福を心からお祈りします。皆様はお彼岸にどのような方を思い出しますでしょうか?

今日も皆様のご健康と平和をお祈り致します。

                 藤山杜人

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墓前へ供えた花の手入れに行きました・・・そしたら、、、

2010年09月22日 | 写真

彼岸の入りに供えた花の水が切れて、萎れるていると思い、水を持って行きました。萎れた花をとり、水をさし、水切りをしました。花の手入れが終り、周りを見回したところ、活き活きとした花々が沢山あります。そうです彼岸の間は毎日お参りに来て花へ水をやり、活け直しているのです。私は少し遠方なので毎日は無理ですが、毎日お墓へ通っている人々も居るのです。そんな活き活きした花の写真を下に示します。感心しました。世の中の人々の偉さに頭が下がります。

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新撰組、井上源三郎の墓参へ行ってきました

2010年09月22日 | 写真

感動的だったのは源三郎の墓前へ色々な数多くの人々が絵画や追悼文を供えていたことです。住職さんの親切で雨に濡れないように大きな箱が用意してあります。私は一枚一枚丁寧に取り出して、墓前に並べ写真を撮ってきました。

源三郎さんは心やさしい隊長だったようで多くの人がその優しさを讃え、追悼文を捧げていました。お墓は上から三番目の写真の右端の正方形に近い形のものです。その裏に上から4番目のような文章が刻みこんでありました。

ちなみに井上家の大きな墓石の隣に2番目に大きな墓石が立っています。先の戦争で戦死した家族のお墓です。源三郎さんの墓石の大きさや位置と比較すると感慨深い思いをいたします。

お墓のあるお寺はJR日野駅の南口から右手へ徒歩3分のところの宝泉寺です。源三郎さんのことは検索するといろいろ出て来ますので、ここでは割愛いたします。それにしても今日は暑い日でした。

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淋しげな秋の高原の花々の写真をお送りいたします。

2010年09月22日 | インポート

丁度2年前の9月22日の草津、白根山のお釜付近の高原で撮影した写真をお送りいたします。高原の秋は足早になって来ます。そしてすぐに粉雪が舞い、深い雪に埋もれるのです。お楽しみ頂ければ嬉しく思います。例によって家内が撮りました。

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シーア派十二イマーム派のWikipedeaの記事をご紹介致します

2010年09月22日 | うんちく・小ネタ

十二イマーム派(じゅうに イマーム は)は、イスラム教シーア派の一派。イランイラクレバノンなどに分布し、イランの国教でもある。シーア派諸派の中では最も信者の数が多い最大派であり、そのために外部の観察者からはシーア派の主流派と見られることも多く、日本では報道などで単に「シーア派」といった場合は十二イマーム派を指すことがほとんどである。 十二イマームという名前は、歴史上12人のイマーム(シーア派指導者)が現れたことによる。

十二イマーム派においては、シーア派指導者であるイマームの地位は、初代アリー(661年没)以降、十二代目までムハンマドの子孫によって継承された。そして十二代イマームの時、そのイマームが人々の前から姿を消した。これは言葉通りの意味ではなく、世界の内側もしくは存在の見えぬ次元に「隠れ」た、とする(9世紀おわりから10世紀初頭)。この「隠れ」(ガイバ)の状態は現在に至っても続いており、最終的には最後の審判の日にイマームは再臨すると信じられている。

「隠れ」に基づく十二イマーム派に特徴的な政治思想に、イマーム再臨までのあいだ不在のイマームの代理としてイスラム法学者が信者を指導できるとするものがある。20世紀にホメイニーの提唱した「法学者の統治論」とそれに基づくイラン・イスラーム革命では、この思想が精神的支柱となった。出典は、http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%81%E4%BA%8C%E3%82%A4%E3%83%9E%E3%83%BC%E3%83%A0%E6%B4%BE です。

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アメリカはキリスト教的正義をイランへ押しつけ過ぎる・・・争いや戦争が起きる

2010年09月22日 | インポート

Damavand_in_winter1_2 我々は明治維新以来欧米の文化に染まってしまい、そのキリスト教的考え方が無意識のうちに善として飲みこんでしまっています。そしてそれが宗教に関係なく、人類へ幸福をもたらす黄金律と信じています。

例えば「人はみな自由で平等であるべきだ」という考え方は無宗教の日本人も善であると信じています。しかしこの考え方はキリスト教の「人間は神の前では自由であり、全て平等です」という教えから出来た思想です。神の前ではという部分を省略すると、全人類へ適用可能な黄金律になります。

イランでは人権が侵害されているから圧力をかけ、イラン社会に自由と平等を広げようとする運動が盛んです。いわゆる人権外交です。

アメリカはその政策を特にイランへ強要するのです。しかしそれはキリスト教の立場です。少なくともイラン政府は、そして保守的なイスラム教徒はアメリカの宗教的な宣戦布告と感じてしまいます。

イランは政治とイスラム教が合体した宗教国家です。その善悪を議論する前にイスラム教の教え通りの社会を作っている事は現在の人類の貴重な一つの文化パターンです。この文化パターンをまず尊重して客観的にその事実を理解すべきと思います。

それではそれはどのような社会なのでしょう?

イランではシーア派12イマーム派を憲法によって国教としています。従ってそれ以外の人間の権利は極端に差別されます。宗教国家ですから当然です。イスラム以外のキリスト教、ユダヤ教は異教徒として存在を容認されていますが、権利は差別されています。無神論者は死刑の適用を受けます。

男女関係ではイスラムの女がイスラム教徒でない男性と婚外交渉を行えば女は死刑です。この逆の場合は男は「鞭打ち100回」だけで放免されます。またイスラム教の棄教は禁止され、発覚したときは死刑です。

女性の人権は無視されていて、ベールやスカーフの着用が強制され、自由な恋愛も原則として禁止です。同性愛者は死刑です。

泥棒や強盗のような犯罪の刑罰は人体切断や石打ちの刑が執行されます。

国際的な調査では、イランでの死刑執行数が非常に多いことが分かっています。

死刑執行数の多い国は一位が中国です。2位グループにはイランやサウジアラビアやパキスタンがあります。これらの国々は皆イスラム教国であることにご注目下さい。北朝鮮は2位グループに入ると推定されます。

このようなイスラム教社会ではキリスト教的な定義の人権は無視されているのは当然です。

イスラム教の非常に大きな特徴は宗教が個人の日常の全ての生活を規制していることです。ですからこそ仕事中でも一日数回決まった時間に礼拝をします。仕事を放り出して、礼拝をするのです。

このような特徴はキリスト教や仏教には有りません。日曜日以外は仕事優先!宗教は暇な時!です。

従ってイスラム教国にアメリカ流れの「人権」の輸入を強要すると、イスラム教を否定することになるのです。

この論理の流れはごく自然なので理解し易いと思います。

21世紀の戦争は欧米とイスラム圏との戦いになると色々な識者が予測しています。20世紀は資本主義と共産主義、そして軍事独裁主義の3つどもえの戦争の連続でした。21世紀の始めの2001年9月11日が同時多発テロ事件が起きたことは象徴的な意味を持っています。

下にWikipedeaの「イラン」の項目http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%A9%E3%83%B3にある写真をしめします。上の写真はイランの北方にある高い山で、下の写真は首都テヘランと、伝統的な音楽師の絵です。

今日も皆さまのご健康と平和をお祈り申し上げます。藤山杜人

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山里の秋の花々の夕暮れの写真をお楽しみ下さい

2010年09月21日 | 写真

皆様のお住まいの土地の秋の夕暮れ風景は如何でしょうか?

昨年の今日撮影した山梨県北杜市の山里の夕暮れの写真をお楽しみ下さい。秋の夕暮れは何故か淋しい感じがします。(家内の撮った下手な写真です。)

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イスラム教国の生活とキリスト教のアーミッシュ村の類似性・・・イスラム教を理解する為に

2010年09月21日 | 日記・エッセイ・コラム

イスラム教国ではキリスト教のような宗教改革がありませんでした。

産業革命による近代工業の隆盛が有りませんでした。欧米のように科学、技術を専門に教える大学が非常に少ないのです。

エジプトやトルコはかなり欧米化していますが、中近東のイスラム教国では中世のヨーロッパ社会と似ています。中世のヨーロッパには数多くの「王と領民」からなる王国が広く分布していた封建社会です。中近東では非常に雑に言えば、「中世のヨーロッパ」が凍結して、存続しているような地域です。

それは人類にとって非常に貴重な民族文化として尊重し、大切にすべき文化です。世界中の全ての民族へ欧米文化を押しつけるのは間違ったことです。それぞれの民族文化には優劣が有りません。全てが貴重なのです。

中近東の国々の生活に、表面的に似ているキリスト教の村々が現存しています。

近代の物質文明を拒否して、中世さながらの農村生活をしています。

アメリカの東部や中西部には自動車、電気、ガス、水道を拒否して、中世のヨーロッパの農村生活を現在でも続けているアーミッシュという人々が住む村が散在しています。ルターの宗教改革で生まれた純粋原始キリスト教の一派で絶対平和主義の信仰を守っている人々ですい。

その生活ぶりの写真をお送りします。特に3枚目の室内の写真を注意深くご覧下さい。部屋には電燈が無く、薪ストーブが中央にあるだけです。衣類も壁にぶら下がっているだけで、何枚もクローゼットに並べて吊るして仕舞うほど沢山持っていません。下着は箱に仕舞い、農作業と礼服を常に共用する服を毎日着ています。農作業にはトラクターは一切使いませんので、4枚目の写真のように馬車と人力だけで刈り取りを行います。どうでしょうか?中近東の人々の質素な生活に似ていませんか?(続く)

上の3枚の写真の出典;http://en.wikipedia.org/wiki/Amish

4枚目の写真の出典;http://en.wikipedia.org/wiki/Amish

今日はイスラム教国とアメリカの争いが少しでも少なくなるようにお祈りいたします。藤山杜人

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墓参りの写真です

2010年09月20日 | 写真

この記事の下にある、「彼岸、墓参りのことなど、、、」の写真です。先程撮った写真です。

このお寺は江戸時代になる前の1594年に八王子城の主の北条氏照の滅亡後の4年目に創建されたようです。下の小さな写真の中に歴代の住職の葱坊主形の墓があります。

佛教国の日本の一風景としてお楽しみ頂ければ嬉しく思います。

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彼岸、墓参りのことなど、、、

2010年09月20日 | インポート

今日は彼岸の入り、こちら側からあちら岸へ旅立ってしまった父母、祖父母、親類を思い出して追悼します。お墓へ花と線香を供えに行きます。私自身の父母の墓は仙台にあるので10月に行くことにして、今日は家内の実家のあった日野市のお寺へ行きます。本堂のお釈迦さまへ供える和菓子を家内が昨日から買って用意しています。お寺はそんなに立派ではありませんが、江戸時代の初期からある古い寺で、本堂の裏に大きな欅の木が空高く繁っています。墓地を守っています。いかにものどかな村のお寺という風情があります。

家内の実家は甲州街道の日野宿にあった古い家です。日野宿は上宿、中宿、下宿に分かれています。実家は下宿にある本家から、明治時代に分家して中宿に屋敷を構えました。親類筋には新撰組の土方歳三や日野市の市長などがいますが、特に名家というほどでないごく平凡な庄屋でした。

毎年、春と秋の彼岸には家内と2人で花と線香を持ってお寺に行き、お墓に供えます。年中行事の一つですが、私にとってはとても楽しい行事です。その理由が3つ程あるのです。

まず家内が幼少の頃の楽しかった思い出をいろいろ話してくれます。父母、特に父に愛された思い出を喋ってくれます。そんな彼女の少女時代に帰った様子を見るとデートをしていた頃のことなどを思い出してこちらも楽しくなるのです。

二番目の理由は家内が自分の両親、祖父母の墓の他に、思い出のある親類の墓へも線香を上げる事です。自分を可愛がってくれた、おじおばや一緒に遊んだ いとこ達の墓を回って線香をあげます。そんな女らしい優しさに溢れた家内の表情を見るのが楽しいのです。そして無縁墓へも線香を上げます。

第三の理由は墓場を回りながら、今は亡き自分の父母や祖父母のことを思い出します。お世話になった恩人達の元気が顔を鮮明に思い出します。感謝の気持ちを捧げながら冥福を祈ります。そして家内は病気になった私の父の看病をよくしてくれた事も有難く思います。仙台に居た私の父や母の為に何度も看病へ行ってくれたのです。親不幸の私のつぐないをしてくれました。

そして今年は特にブログで知り合った「ひかるのさん」の事を思い出し、冥福を祈ります。バンコックやカトマンズに25年間住みながらアジアの手織り布を広く蒐集し、東京で展示会を開いていました。3度展示会へ行き、ひかるのさんの話を聞きました。肺ガンになり急遽帰国し、東京厚生年金病院に入院しました。家内と一緒に見舞いに行きました。抗癌剤の投与を始める前だったので元気に話をしていました。その後、抗癌剤の投与もむなしく、今年の5月に亡くなりました。また8月に亡くなった家内の茶道の先生のこともお祈りします。ホスピスに1月から8月まで毎週日曜日の礼拝の前にお見舞いに伺って、いろいろお話したことなどを思い出します。

彼岸になる。墓参りに行く。楽しい事、悲しかった事をあれこれ思い出す。家内の優しい姿を見て心が和む。ですから私にとって墓参りは楽しい行事です。

しかし自分より先に子供を亡くした場合は悲しみが大きすぎると思います。ですから墓参りは人それぞれ想いが異なります。私自身も仮に妻が先に死んで、その墓参りへ行くとしたら、こんな気楽な文章は書けません。

それだからこそ、今日も皆様のご健康をお祈り申し上げます。藤山杜人