後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

静かになった今こそ尖閣諸島を完全領有する外交戦略の推進を!

2010年10月04日 | 日記・エッセイ・コラム

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(上の尖閣諸島の写真の出典は、http://www.google.co.jp/imglanding?q=%E5%B0%96%E9%96%A3%E8%AB%B8%E5%B3%B6&imgurl=http://img02.ti-da.net/usr/toruodo/img105.jpg&imgrefurl=http://toruodo.ti-da.net/e808643.html&usg= です。)

今回の尖閣諸島の騒動中に私は日本領という証拠が薄弱であるという意見を書きました。それに対してBYOOLというSNSで以下のようなコメントを頂きました。

=====Whoten2さんからのコメント=========
瞬間湯沸し器のように、カッカとしている人が多い中で、冷静な論議を展開していただき感服しています。個別の論点について異論はあるものの、とにかく冷静になって考えるべきと言う提案には大賛成です。
中国は今や世界最大の海軍力を保有しているらしいので、制海権を拡大したいという軍部の要求を無視できないのでしょう。とは言え、周辺海域のほとんどすべての係争地域に対して領有権を主張しているのは、余りにごり押しが過ぎるとも思えます。
中国との領土問題についての対応は容易ではないのですが、だからと言ってカッカとする必要はないはずです。妥当な方向は、他の東南アジア諸国と協議して、中国のごり押しを抑えることではないでしょうか?
しかし、「利敵行為、勘ぐれば工作員」という非難には笑ってしまいますね。そのうち「非国民」と呼ばれるかもしれないので、ご準備を。。。。

==============================

Whoten2さんからのコメントに勇気ずけられて、この問題を中国のグローバルは勢力拡大政策の一環として考えて見ました。そうすると日本が今後根気よく国際社会で展開するべき外交戦略の方向が具体的に分かります。

(1)中国は経済力に自信をつけ、アメリカ、ロシア、ヨーロッパ連合組織(EU)に対抗する第四の世界帝国になるための長期戦略を実施中です。例えば最近、EUの弱味になっている財政破たん国のギリシャの国債を多量に買い、EUを助けています。助ければそれだけEUへの影響力を増大します。日本はEU諸国へ尖閣諸島の領有を宣伝し、支持を得る外交を推進すべきです。

(2)中国のお金をアメリカドルへの交換の為替レートを切り上げる政策を中国が取りません。ますます中国が経済力を増大し、軍備強化が出来るので、中国はアメリカの要求を無視しています。アメリカは最近中国へ制裁を与える法律を議会へ提出して可決しようとしています。日本もアメリカの政策を、間接的に支援することを実施すべきです。(直接的にやり過ぎると問題が起きます)

(3)中国の東シナ海、南シナ海の島々の領有権で紛争に巻き込まれている国々は日本、フィリピン、ブルネイ、マレーシア、インドネシア、シンガポール、そしてベトナムです。日本は日米安保にばかり頼ろうとしていますが、これら全ての国々と中国の領有権主張へ対抗する外交的な連合戦線を構築すべきと思います。

(4)上の政策を実施しながら尖閣諸島の実効支配を静かに進めます。東シナ海の全ての国の船舶が安全に航海出来る様に灯台や無線施設を建設し、その保守管理のための職員を派遣し、常駐させます。

(5)中国と海上石油掘削の件で取引を進め、最終的には尖閣諸島が日本領であると認める条約を交換する。

以上の(1)から(5)までは何年かかっても根気良く継続実施する必要があります。

日本の新聞をみると感情的になりすぎて中国を直接非難しています。その間に中国の温首相がギリシャを訪問してギリシャの国債を多量に買い入れる契約にサインしています。UNへ中国を売り込んでいます。そして一方では温首相がアメリカの中国制裁に関してアメリカを強く非難して、中国元の切り上げを延期しています。

日本の外交戦略にグローバルな政策が欠如しています。今回のことで日本の外交力の貧弱さが浮き彫りになりました。強い日本にするために世界的な外交戦略の重要性に国民が目覚めることを祈っています。皆様は上の私見へ対してどのようにお考えでしょうか?コメントを頂ければ嬉しく思います。

今日も皆様のご健康と平和をお祈り致します。藤山杜人


秋の花々の写真をお楽しみ下さい

2010年10月03日 | 写真

今年は庭の萩が沢山つぼみを付け、咲き出しました。これからどんどん咲き続けると思い嬉しくなり写真を撮りました。ついでに近所を散歩しながら花々の写真を撮りました。お楽しみ頂ければ嬉しく思います。

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カトリック教会で働いている神父(1)塚本金明神父の思い出

2010年10月03日 | 日記・エッセイ・コラム

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カトリック教会で信者の世話をしたりミサをしたりしている神父は常駐している主任司祭とミサの時に手伝いに来る神父が居ます。その神父達の個人的な性格の違いがその教会の雰囲気を決め、信者が増えたり、減ったりします。

神父の役割はイエス様を信者のそばに呼び、信者が直接イエス様の愛を実感出来るようにすることです。その能力が高い神父が優れた神父と、私個人は考えています。ところが一般信者は普通の人間です。愛想良く話しかけてくれたり、信者の相談に気軽にのってくれる神父は人気があります。信者数を増やすにはそのような神父が良い場合があります。私個人は愛想の良すぎる神父はあまり尊敬しません。

Kurosaki_church_p51 1971年の12月に洗礼を受けた神父様は塚本金明さんという方でした。カトリック立川教会の主任司祭でした。愛想が無いので余計な雑談をしませんでした。見かけは小柄なイタリア人の神父のようでした。洗礼を受けるまではイタリア人と思い込んでいました。その神父さんがある時、説教で、自分の子供の頃はカトリックの信者だったので、近所のお稲荷さんのキツネをひっくり返して遊び回っていたと話していました。そいうバカなことをして遊び回っていたと言うのです。トンデモナイことですね。大人になってから恥ずかしい思いをしました。そんな話を聞いているとイエス様が降りてきて金明少年の罪を許している様子が見えてくるから不思議です。この説教を聞いて洗礼を受ける決心をしました。偉そうな事や難しい神学の話をする神父は本物でないと考えていた私にとっては感動的な神父でした。家内と一緒に洗礼を受けてから時々雑談をするようになりました。

その3年後、塚本さんはカトリック市川教会の主任司祭として転任になりました。日曜日になると、家内と一緒に遠方の市川教会まで何度も行って塚本神父の司式するミサへでました。

もう随分前に亡くなり、府中のカトリック墓地に眠っています。とても懐かしい感動的な神父さまでした。(続く)

今日も皆様のご健康と平和をお祈り致します。藤山杜人


あなたの子供さんやお孫さんに不登校や引きこもりは居ませんか?

2010年10月02日 | インポート

私が昔働いていた民間の教育組織に通信制の高校をサポートしている代々木高校があります。4年間働いて、10年前に辞めましたが、その校長の一色真司さんとは今で友人としてお付き合いをしています。情熱家です。弱い者の味方です。思慮深く、誰にでも優しいのです。海外に学校を作る計画があり、一色さんと2人で中国やベトナムへ何度も旅をしました。一緒に旅をして気持ちの良い人です。紳士なのです。ですから1993年に始めた代々木高等学院が17年たって、ますます発展し、全国はもちろん海外までに教室を展開するようになりました。

この民間の教育組織の一番の特徴は、不登校や引きこもりの生徒へ暖かい手を伸べていることです。不登校生は一人一人素晴らしい個人です。ただ何故か学校に行かないだけです。個人的に話し合ってみると例外無く優しい性格です。他人の痛みの分かる人なのです。そのような生徒に一番適切な環境を作ってあげて、高校を卒業するように支援しています。文部科学省の定めた通信制の高等学校を卒業出来るようなシステムを作り上げtいます。その教室が全国に用意してあります。海外にもあります。もし貴方の子供さんや、お孫さんに不登校や引きこもりの人が居ましたら、是非ご相談なさってみて下さい。可能なら一色真司さんと直接会って、ご相談なさって下さい。時間さえあれば、気楽に会ってくるます。素晴らしい人です。目の前が明るくなると思います。

以下に代々木高校のHP:http://www.yoyogi.ed.jp/info/policy.html から参考資料を抜粋して添付して置きます。電話:050-3535-2797 FAX:03-5919-0528

=====代々木高校 校長 一色 真司[いっしき しんじ]の紹介=======

Greeting_img021 1960年愛媛県生まれ。
大学在学中より起業家を志し、25歳のときに家庭教師派遣の事業で起業を果たす。
1993
年に始めたオルタナティブスクール「代々木高等学院」の運営を通して、さまざまな苦悩を抱える家族と出会い、社会起業(ソーシャル・ベンチャー)に目覚める。
1994
年には、不登校生や保護者のための相談、紹介のための特定非営利活動法人『21世紀教育研究所』を立ち上げる。
以降、国内から海外までのさまざまな運営や制度の事例や、多様な生き方の紹介・提言活動、ボランティアリーダーの育成、制度改革の推進などを通し、「互いを認め会える社会づくり」をテーマに現在社会を巻き込んだ環境づくりを進めている。

環境が人を育む:

代々木高校は、既存の全日制高校では「居場所を見いだせない」「価値を見いだせない」「物足りない」という生徒のために、その生徒に一番求められる「環境」を多様な人材や団体と一緒に構築しています。
その「環境」では、「全てを一度受容してくれる学校」であったり、「プロを育てる学校」であったり、ときには、「現場で実践する職場」であったりします。
また、企業と連携して学費を企業が肩代わりしてくれる制度を構築しながら、本番である社会へ出たときに「自分の意志と足で歩けるように」なってもらえるような「環境」を考えています。

不登校、引きこもりのみなさんへ

現在、不登校、引きこもりの人で、 

  • やっぱり高校生活を送りたい

  • 高校卒業資格を意識している

けれど、自信がないという人も多いと思います。

  • 友達とうまくやっていけるだろうか?

  • 学校へ通えるだろうか?

こうした不安を、一つずつ取り除いていきませんか!

代々木高校では、ステップアップ・システム(ステップアップ・システムをご参照下さい)があり、みなさんの状態により大幅に仕組みを変化させることが可能です。従って、その都度転校しなければならないようなことはありません。あなたを理解しているお節介なスタッフが卒業までお手伝いしてくれますから安心ですよ。 

また、みなさんが通信制高校で一番心配している「スクーリング」もメディア学習(学習システムYES参照)と呼ばれる視聴覚授業を受ければ、最大で80%免除することも出来ます。また、教員免許を持った先生が訪問することも出来ますので、プレッシャーを感じずに単位取得をすることが出来ます。 

その他にも、学校だけでなく家庭環境ごと一切を変えて、全く新しい、また違ったカルチャーの中で生活をすることを通し、新しい可能性を見いだすため、「国内留学」「海外留学」というコースも用意しています。 

私たちは、高校卒業資格を取得して貰うために、もちろん最大限のお手伝いをしますが、代々木高校卒業時点で、「あなたがどうなっていたいか」を一番大切に考えています。そのために、「卒業」「単位」と言ったプレッシャーを取り除き、その人にとって必要と思われる「育む環境」を創ることに時間を費やしています。 

不登校の言葉もない時代から、不登校生対応を行ってきた代々木高等学院では、不登校や思春期問題で、教育委員会や学校へ、助言させていただくこともあります。経験豊富なスタッフやベテラン相談員にお気軽にご相談ください。入学等に関するご相談は、下記までお気軽にご連絡ください。
電話:050-3535-2797
FAX
:03-5919-0528

環境が人を育む:

代々木高校は、既存の全日制高校では「居場所を見いだせない」「価値を見いだせない」「物足りない」という生徒のために、その生徒に一番求められる「環境」を多様な人材や団体と一緒に構築しています。
その「環境」では、「全てを一度受容してくれる学校」であったり、「プロを育てる学校」であったり、ときには、「現場で実践する職場」であったりします。
また、企業と連携して学費を企業が肩代わりしてくれる制度を構築しながら、本番である社会へ出たときに「自分の意志と足で歩けるように」なってもらえるような「環境」を考えています。

サテライト教室の一覧:

代々木高等学校 志摩賢島本校 代々木高等学校 東京本部 代々木高等学校 大阪本部 代々木高等学院

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代々木高等学校 東京本部


武田一族興亡の地をめぐる旅(4)信虎、信玄、勝頼、3代が住んだ躑躅ケ崎館跡

2010年10月02日 | 旅行記

信玄の父、信虎は周囲の国衆・領主と同盟を結び平和的に勢力拡大策をとっていました。信玄はこれに反対し、周囲の諸領主と戦い、実力で領土を拡大する戦いを始めるべきと激しく主張したのです。父子の論争のはてに、信玄は父を駿河へ追放しました。1542年のことでした。

自分が武田家の統領になり、突然周囲の領主を次々と抹殺していったのです。良く言えば勇猛果敢とも言えますが、血に飢えた戦国武将そのものでした。その闘争心は抜群であり、諏訪氏も高遠氏も信濃の緒領主も皆なぎ倒されてしまったのです。

戦いは信玄が1573年に死ぬまで31年間続きました。

最終的に敵対出来たのは上杉謙信、織田信長、徳川家康だけになったのです。その詳しい合戦の経緯は下に付けた参考資料にあります。

武田信虎、晴信(信玄)、勝頼の三代が住んだ躑躅ケ崎館の跡地は、現在、武田神社になっています。当時を偲ぶものは館を囲んでいた掘だけです。下にその掘の写真を示します。

躑躅ケ崎館からまっすぐ甲府駅へ向かって、少し坂になった大通りが下っています。その左右が碁盤の目のようになっていて家臣たちが住んだ屋敷町でした。山梨大学もこの大通りを挟んで左右にキャンパスが広がっています。商人町はもっと坂を下ったところにあったようです。坂道の東側には信玄の墓所のある大泉寺や円光寺があります。信玄は甲府の英雄です。甲府駅の南口には巨大な銅像もあります。

当時の甲府の町々の賑わいを偲びながら館跡の掘りのほとりを散策して来ました。館の建物は一切消えて無くなっています。文字通り、つわものどもの夢の跡です。

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武田信玄:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E7%94%B0%E4%BF%A1%E7%8E%84

諏訪領、高遠領への侵入と信濃国の緒領主の平定(Wikipedea より)

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信虎期の武田氏は敵対している勢力は相模後北条氏のみで、駿河国今川氏、上野国山内上杉氏扇谷上杉氏、信濃諏訪氏と同盟関係を持ち信虎末期には信濃佐久郡・小県郡への出兵を行っていたが、晴信は家督を相続すると信虎路線からの変更を行い、信濃諏訪領への侵攻を行う[8]

天文11年(15426月に晴信は諏訪氏庶流である高遠頼継とともに諏訪領への侵攻を開始し、頼重を甲府へ連行して自害に追い込み諏訪領を制圧している[9]。諏訪領においては同年9月には高遠頼継が武田方に対して挙兵しているが、武田方はこれを撃破して諏訪領を掌握する。

武田方はさらに天文12年(1543)には信濃国長窪城主である大井貞隆を攻めて自害に追い込んだ。天文14年(15454月、上伊奈郡高遠城に侵攻し、高遠頼継を、続いて6月には福与城主である藤沢頼親も滅ぼした。天文13年(1544年)には後北条氏と和睦し、今川氏と後北条氏の対立(河東一乱)を仲裁し、甲駿相三国同盟の締結に至る。

三国同盟を背景とした武田方は信濃侵攻を本格化させ、信濃守護小笠原氏、小県領主村上氏らと敵対する。天文16年(1547)には関東管領勢に支援された志賀城笠原清繁を攻め、同年8月6小田井原の戦いで武田軍は上杉・笠原連合軍に大勝する[10]。また、領国支配においても同年には分国法である甲州法度之次第(信玄家法)を定めている。

天文17年(15482月、晴信は信濃国北部に勢力を誇る葛尾城主・村上義清と上田原で激突する(上田原の戦い)。上田原合戦において武田軍は村上軍に敗れ、宿老の板垣信方・甘利虎泰らをはじめ多くの将兵を失い、晴信自身も傷を負い甲府の湯村温泉30日間の湯治をしたという。この機に乗じて同年4月、小笠原長時が諏訪に侵攻して来るが、晴信は7月の塩尻峠の戦い(勝弦峠の戦い)で小笠原軍を撃破した。

天文19年(15507月、晴信は小笠原領に侵攻する。これに対して小笠原長時にはすでに抵抗する力は無く、林城を放棄して村上義清のもとへ逃走した。こうして、中信は武田の支配下に落ちた。

勢いに乗った晴信は同年9月、村上義清の支城である砥石城を攻める。しかし、この戦いで武田軍は後世に砥石崩れと伝えられる大敗を喫した。

しかし天文20年(15514月、真田幸隆(幸綱)の策略で砥石城が落城すると、武田軍は次第に優勢となり、天文22年(15534月、村上義清は葛尾城を放棄して越後の長尾景虎(上杉謙信)のもとへ逃れた。こうして東信も武田家の支配下に入り、晴信は北信を除き信濃をほぼ平定した。


秋ですね・・・コスモスとススキの写真をお楽しみ下さい

2010年10月02日 | 写真

道端の野原に自然と種がこぼれ、毎年秋になるとコスモスが一面に咲く場所を知っています。日当たりが悪くて田にならない野原にヒッソリと咲いています。甲斐駒岳の麓の山里です。向こう側には八ヶ岳が広がっています。その隣にはススキの群落があります。今年も幸い健康で、家内と一緒に写真を撮りに行けました。曇り日で冷たい秋の風が吹いています。写真をお楽しみ頂ければ嬉しく思います。

今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。藤山杜人

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武田一族興亡の地をめぐる旅(3)信玄の書かせた83通の起請文の現存する生島足島神社

2010年10月01日 | 日記・エッセイ・コラム

こういう事実は学校教育では教えません。私は信玄が地方の小さな領主達237人に無理やり書かせた忠誠を誓う文書(起請文)の中の83通の実物を見た時の驚きが忘れられません。数年前に上田から別所温泉へ向かう途中にある生島足島神社で展示、公開しているものを見ました。起請文の文章が稚拙です。[信玄の悪口を言いません。][命令通り戦に参加します。]などなど余りにも具体的なことが細々と下手な字で書いてあります。

書いた人は群馬県、長野県、山梨県の小さな在地領主達です。国人とか国衆と呼ばれる支配階級で平安末期から鎌倉時代にかけて全国に雨後の竹の子のように増え、農民を支配した武将です。小規模ながら武力集団を持っていて、大きな戦国大名へ適当に服従し合戦で手柄を上げ、褒美の領地を少し貰うのです。負けそうな戦国大名に従うと悲劇に見舞われます。ですから信玄へ賭けるのも必死です。起請文のせつせつとした文章が痛々しく感じました。

こうして集めた国衆領主とその部下達を引き連れて信玄は川中島で数度にわたって上杉謙信と戦ったのです。雌雄が決まらないのも国衆の逃げ腰の戦いぶりによるようです。起請文を無理に書かせた武田信玄の弱味が伺えて興味深いものでした。

下に関連の写真と参考資料を示します。

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生島足島神社:http://www.ikushimatarushima.jp/

今から400年以前の古文書が、風化されることなく当神社に保存されてきたことは、不思議でなりません。川中島での決戦を前に武田信玄が必勝を祈った「願文」や家臣団に忠誠を誓わせた「起請文」、また、真田昌幸、信幸父子の「朱印状」など数多くの文書が残っています。

天文22(1553)、東信濃を攻略した武田信玄はまず当神社に社領安堵状を捧げ、さらに永禄2(1559)再び当神社に願文を捧げ、越後の雄・上杉謙信との戦いに勝利するよう祈願しました。この2年後に川中島の大合戦が行なわれています。

信玄は信濃の大半を勢力下に置いた永禄9年・10(1566年~1567)に信濃はもちろん、甲斐や上野の武将達を当神社に集め、神前で忠誠を誓わせました。そのときの誓いの文書(起請文)が当神社に83通残されており、国の重要文化財に指定されています。境内の歌舞伎舞台(県宝)で展示公開しています。

武田信豊起請文 :
武田信玄が支配下の諸将を当神社に集め、改めて忠誠を誓わせた起請文を差し出させた背景には、長子義信との不和が生じたことにより統制の強化を計る必要があったためと思われます。文書は熊野神社の牛王宝印(ごおうほういん、からすの図柄)の護符に書かれ、文書はいずれも忠誠を誓っている前書きと誓いを破った場合には神仏の罰を被るべき神文とからなっており、各署名下に花押と血判を押したものが多くみられます。起請文差し出しの武将は東・中・南信濃、甲斐上野(現在の群馬県)237名にもおよんでいます。

国人、国衆:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E4%BA%BA

国人は、平安時代中期に成立した後期王朝国家体制の下で荘園公領の管理者となった荘官郡司・郷司・保司の階層や、そこに出自することの多かった鎌倉時代以降の地頭の系譜を引く在国の領主の一般的呼称で、同時代的に使われた資料用語である。幕府守護荘園領主など外部の支配層に対抗する在地勢力の意味で使われ、独自の領域支配をめざした。

「国人」という呼称は、「在地に居住した惣領を中心に独自の勢力を持つ武士」を指す言葉として、鎌倉時代から散見される。彼らの直接の源流は鎌倉時代の地頭職の武士にあり、そうした武士たちが土着し、在地領主となったものである。鎌倉時代には、支配層に反抗する者の意味を含む「悪党」という名で呼ばれることもあった。


中国は共産党独裁国家という事を忘れると外交上の大失敗をする

2010年10月01日 | 日記・エッセイ・コラム

今回の尖閣列島問題は日本の外交上での大敗北です。何故失敗したのでしょうか?

日本の政治家が中国も日本と同じような三権分立した民主国家と思い違いをしたために失敗をしたのです。中国海軍の制海権拡大の最中に、いきなり漁船を拿捕して中国のメンツを失墜させてのです。その上、日本の海上保安庁の巡視船の性能が良く、拿捕技術に優れていることに中国は危機感を感じました。そして中国は日本へ実害の起きるような報復をしたのです。日本はそれに屈服したので、私は、「外交上の大敗北」と言います。

中国の共産党は1919年に、日本がつきつけた対華21ケ条の要求のお陰で起きた五四運動の延長として生まれた政党です。中国共産党の正史では五四運動を重要な歴史的成果として明記し、学校で教えています。私を北京へ招待してくれた周栄章教授が何かというと「五四運動」の話をしていました。彼は勿論、共産党員で天津市の解放戦争に参加しました。中国には選挙がありません。共産党の中で目立つ仕事ぶりを示して、人脈の使い方の上手な人だけが偉くなります。胡錦濤国家主席と温家宝首相も例外ではありません。

そして共産党は時々、国民の心の中に巣くっている反日感情を大げさに煽りたてて自分達の権力拡大と維持に利用するのです。毛沢東も江沢民も、そして胡錦濤国家主席と温家宝首相も、自分の権力維持の為に反日政策をとりました。反日感情をあまりあからさまに利用しなかったのは周恩来と鄧小平だけと記憶しています。

日清戦争以来の日本の侵略と残虐行為については、大げさに学校で繰り返し、繰り返し教えます。日本人が南京虐殺30万人はウソだと幾ら言っても馬耳東風です。この結果として、中国人が反日感情を持つのは当然です。これは日本の背負った負の遺産なのです。中国と交渉をする場合は、いつもこの負の遺産を勘定に入れて交渉を進めなければ大失敗をします。

日清戦争に勝った日本が台湾とそれに付属する尖閣列島を手にいれたと中国側は思いこんでいます。ですから第二次大戦で負けた日本が、1945年に台湾返却と共に自働的に中国側へ返したと思い込んでいます。それなのにいきなり漁船を拿捕したのです。日本の巡視艇の拿捕の理由は公務執行妨害です。中国が日本と同様に三権分立の民主国家ならそれだけの問題で済みます。ところが共産党独裁の中国にとっては、拿捕が1919年の屈辱的な対華21ケ条の要求へ直結するのです。それを巧みに利用して自分の権力の強化に使ったのが胡錦濤国家主席と温家宝首相なのです。日本人が4人も捕まり、通関手続きが遅れ高額な経済的損失を被ったのは日本側です。観光客も激減しました。

日本政府は日本の背負っている負の遺産を相手に利用させないような外交戦略を取らねばならないのです。

私個人は、かつて中国人と交渉をしてこちらの希望通りにして貰った事が多かったのです。こちらの希望を言いだす前に日清戦争や、対華21ケ条の要求や南京虐殺の話をします。別に謝る必要はありません。こちらが知っていますよという事を示せば十分なのです。それからおもむろに交渉を始めると大体うまく行きました。

負の遺産は日中関係にだけあるのではありません。世界中の国々の間に存在しています。アメリカは原爆を落としたことで日本に負の遺産を持っています。その負の遺産が暴れ出さないようにアメリカは注意しています。国際関係というものは綺麗ごとではないと思います。あなたのご意見は如何でしょうか? (終り)


庭木の枝下ろしを格安でしてくれるBenryという会社をご紹介いたします

2010年10月01日 | 日記・エッセイ・コラム

高く繁った庭木の枝下ろしは東京の相場では1本2万円前後と言います。いろいろ検索してBenryという会社を見つけました。電話をしたらベンリー国立府中インター店の店長の武藤謙太さんがすぐ来て、見積書を書いてくれました。6m位の高く繁った庭木3本の枝を下ろして、切った枝を持ちかえって合計25200円という見積もりでした。これは格安です。その上、説明が明快で、2日後の今日、作業に来てくれました。下に武藤さんの写真と枝下ろし前のドッグウッドの木と枝を下ろしたあとの写真を示します。

電話番号は、0120-925-382 携帯:090-4705-5794です。

この会社は株式会社いいとも と言い全国展開をしていますので皆様にもお役に立つと思いご紹介いたします。

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愚かな私はミレーの「落ち穂拾い」の意味を間違えて理解していました!

2010年10月01日 | 日記・エッセイ・コラム

ミレーの落ち穂拾いの絵を見たのは随分昔のことです。ああ、貧しい農民が落ちた穂を拾って食べて、命をつないでいるのだなあ!それにしても一粒も無駄にしない精神は立派なものだ!とも感心していました。

ところが最近それは旧約聖書に書いてあることに気がつきました。麦畑を持っていて、比較的裕福な農民は収穫のとき落ちた穂は土地を持っていない貧しい人や寡婦のために提供すべきと書いてあるのです。

貧しい人や寡婦は落ち穂を拾う権利があったのです。

「落ち穂拾い」の絵は3人の貧しい女の背景をよく見ると、麦穂のついた藁を馬車にうず高く積み上げている人が描いてあります。ですから、この絵には裕福な農民と貧しい3人の女が描かれていたのです。私はその事を知りませんでした。

その上、聖書に書いてあるからといってもミレーの育った土地の痩せた北フランス地方では落ち穂を他人へ上げる余裕がありません。ミレーがパリ近郊のバルビゾン村に移り住んでから始めて見たのです。彼は感動のあまり同じような構図の落ち穂拾いの絵を沢山描いています。ミレーのキリスト教への信仰が描き込んであるのです。勿論、そんな事を知らなくても純粋に絵画としての素晴らしさを楽しむことが出来ます。宗教的興奮を露骨に絵画にしては興ざめです。ミレーの絵ではそのギリギリのところで止めています。日本人に好きな人が多いのはそのせいかも知れません。

下らない独り言を書いて失礼しました。(終り)


ミレー美術館のような山梨県立美術館・・・ますます絵画数を増やしています

2010年10月01日 | 日記・エッセイ・コラム

県立美術館は幾つも見ましたが山梨県のものが一番内容が充実し、敷地や建物が広大で藝術的に設計、配置されています。その上絵画の購入方針がジャン フランソワ・ミレーにこだわり、根気よく収集を続けています。1977年に有名な「種を播く人」の絵を落札して以来、収集の努力を続け、現在は18点を数えるようになりました。

種播く男の絵や落ち穂拾いも傑作ですが、私は、「ポーリーヌ・V・オノの肖像」が大好きです。絵画として圧倒的な印象を受けます。その絵は、若くして貧困の中に死んでしまった最初の妻を描いたものです。ポーリーヌへのミレーの深い愛情が絵筆に乗り移ったような勢いで描いています。しかし最後は、ゆっくり丁寧に仕上げています。

バルビゾン派の説明は省略します。ミレーの絵画をお楽しみ下さい。撮影禁止なのでWikipedeaの「ジャン フランソワ・ミレー」の項目から下の写真をお借りしました。

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種播く男の絵は2枚あり、同じ大きさ、同じ構図だそうです。もう一枚はボストン美術館にあります。落ち穂拾いは数枚ありますが、上の写真はオルセー美術館のものです。山梨のは構図が少し違いますが完成度の良い傑作です。

この美術館のあるところは芸術の森といい、収集・展示方法の優れた文学館もあり、庭園には数々の彫刻もあり、茶室や日本庭園も見事です。天気の良い日は周りの山々の遠景が一層素晴らしい雰囲気を作っています。

下に9月28日に訪問したときの写真を掲載します。

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少しくどいようですが、更にこの美術館が常設展示している絵画の一覧表をご参考までにつけます。この記事をお読み頂きましたことを感謝申し上げます。

今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。

                         藤山杜人

===山梨県立美術館の常設展示絵画目録=========

(出典は、http://www.art-museum.pref.yamanashi.jp/contents/index.php?option=com_content&task=view&id=336&Itemid=155 です。)

ミレー

ジャン=フランソワ・ミレーポーリーヌ・V・オノの肖像1841-42油彩・麻布73.0×63.0

ジャン=フランソワ・ミレー眠れるお針子 ★ 1844-45 油彩・麻布45.7×38.1

ジャン=フランソワ・ミレーダフニスとクロエ1845油彩・麻布82.5×65.0

ジャン=フランソワ・ミレー落ち穂拾い、夏1853 油彩・麻布38.3×29.3

ジャン=フランソワ・ミレー冬(凍えたキューピッド) 1864-65 油彩・麻布205.0×112.0

ジャン=フランソワ・ミレー鶏に餌をやる女1853-56油彩・板73.0×53.5

ジャン=フランソワ・ミレー夕暮れに羊を連れ帰る羊飼い1857-60 油彩・板53.5×71.0

ジャン=フランソワ・ミレー種をまく人1850 油彩・麻布99.7×80.0

ジャン=フランソワ・ミレー無原罪の聖母1858 油彩・麻布77.7×44.8 ㈱相川プレス工業寄贈

ジャン=フランソワ・ミレーヴォージュ山中の牧場風景1868 パステル・紙70.0×95.0

ジャン=フランソワ・ミレー習作3(オーヴェルニュの風景Ⅲ) c.1866-67 鉛筆、黒インク・紙11.7×17.2

ジャン=フランソワ・ミレー習作4(オーヴェルニュの風景Ⅳ) c.1866-67 鉛筆、黒インク、パステル・紙12.1×17.0

ナダールミレーの肖像1868 銀塩写真29.0×22.0

エミール・ロワゾーアトリエでのJ.F.ミレー1855黒鉛筆・紙15.8×21.5 飯田祐三氏寄贈

ジャン=フランソワ・ミレー「二人の農婦」の習作c.1853 インク・紙19.6×15.0 田村幸子氏寄贈

ジャン=フランソワ・ミレー落ち穂拾い(第1版) 1855-56 エッチング19.0×25.2 飯田祐三氏寄贈

ジャン=フランソワ・ミレー

(ジャン=バティスト・ミレー版刻)

ランプの下で縫物をする女たち(夜なべ) 1855-56 エッチング15.1×11.0 飯田祐三氏寄贈

風景画の系譜 (クロード・ロラン~バルビゾン派)

クロード・ロラン木を伐り出す人々(川のある風景) 1637油彩・麻布79.4×115.6

ヤーコプ・ファン・ライスダールベントハイム城の見える風景1655油彩・麻布63.5×68.0

ジョルジュ・ミシェル風車のある風景1820-40油彩・麻布60.4×86.5

ジュール・デュプレ森の中-夏の朝1840油彩・麻布95.5×76.0

ジュール・デュプレ海景 ★ 1870油彩・麻布51.0×63.5

ディアズ・ド・ラ・ペーニャフォンテーヌブローの樫の木(怒れる者) 1862 油彩・麻布71.4×93.5

シャルル=エミール・ジャック森の中の羊の群れ1860油彩・板49.0×118.0

コンスタン・トロワイヨン近づく嵐1859 油彩・麻布133.0×145.0

コンスタン・トロワイヨン市日1859 油彩・麻布115.4×175.5

テオドール・ルソーフォンテーヌブローの森のはずれ1866 油彩・麻布76.0×95.0 三枝守雄・佐枝子氏寄贈

テオドール・ルソー樫のある風景不詳油彩・麻布75.0×95.0

ジャン=バティスト=カミーユ・コロー大農園1860-65油彩・麻布55.2×80.8

ギュスターヴ・クールベ嵐の海1865 油彩・麻布54.0×73.0

ギュスターヴ・クールベ川辺の鹿1864油彩・麻布73.0×92.0

シャルル=フランソワ・ドービニーオワーズ河の夏の朝1869 油彩・麻布68.6×100.3

アンリ=ジョセフ・アルピニー陽のあたる道 ★ 1875 油彩・麻布49.3×76.2

ヨハン・バルトールト・ヨンキントドルトレヒトの月明かり1872油彩・麻布59.5×102.0

ジュリアン・デュプレ牧草の取り入れ1890-95油彩・麻布65.1×81.0

ジュール・ブルトン朝 ★ 1888 油彩・麻布