最近、日本の若年層が右傾化し、戦争への道を歩み始めたように感じています。
そしてインターネットをいろいろ見ると韓国人や中国人を差別し、軽蔑したような恐ろしい文章が沢山掲載されています。
これは中国人や韓国人を傷つけるだけでなく日本人の尊厳も傷つけているのです。
そこで私はこの傾向を少しでも変えたいと思い、私のブログに以下のような3つの記事を書きました。
韓国のお寺と墓地の風景・・・我々と同じような人間が住んでいます
愛と文化は国境を越える(3)ミレーの晩鐘が朴寿根画伯の生涯を支えた
これらの記事を読んだ方々は、毎日のアクセス数の750件から推定すると、3日間で、のべ2000人以上と思います。しかしこれで韓国が好きになったというコメントや反応はありませんでした。皆無です。大きな無力感で気持ちが落ち込んでいます。
このように気持ちが落ち込んだ時にはゴッホの絵を見ることにしています。何故か元気が湧いてくるのです。家内は感動はするけれど逆に悲しくなると言います。ゴッホに同情しているのです。絵画から感じることは人さまざまです。
検索していろいろなHPを見較べていますが、「ヴァーチャル絵画館」:http://art.pro.tok2.com/G/Gogh/Gogh.htm は色彩が一番鮮明で、多くの絵画を網羅しています。
そこでこのHPからゴッホの絵を5枚を選んで、以下にお送りします。
ゴッホの絵がお好きな方々は喜んで下さると信じています。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)
ゴッホ「モンマルトルの家庭菜園」1887 ゴッホ美術館 アムステルダム
ゴッホ「アルルのはね橋」1888 54x65cm クレラー・ミュラー美術館、オッテルロー、オランダ
ゴッホ「スヘフェーニンゲンの浜辺」1882 アムステルダム市立美術館
ゴッホ「アルルのゴッホの部屋」1888 72 X 90 cm アムステルダム、ファン・ゴッホ国立美術館
ゴッホ「夕方のカフェテラス(アルルのフォラン広場)」1888 9月
81 x 65.5 cm クレラー・ミュラー美術館、オッテルロー、オランダ
=====Vincent van Gogh(1853-90)=============
オランダのプロテスタントの牧師の息子であった。ゴッホ自身も信仰心が厚かった。
伯父のヴィンセントが経営するグーピル商会で仕事をしていた。当時、パリ、ロンドン、ハーグで絵画を扱っていた。しかし、経営者にも仕事にも幻滅し、7年後、23歳でこの仕事は辞めている。
その後イギリスへ渡り、学校で教えた。この間にゴッホは、プロテスタント主義に傾いていく。
オランダへ一旦帰り、アムステルダムの大学で聖職者になるための教育を受けようとした。しかし、実際の試験勉強では宗教と何の関わりもないことアカデミックなことを勉強しなくてはならない。
落胆したゴッホはブリュッセルの副音伝道学校へ入る。しかし、ゴッホの過剰な信仰は、学校側に警戒される。
3ヶ月後、鉱夫たちの説教のため、ボリナージュ地方へ派遣される。ゴッホは人々の貧困を見て、自らも同化しようとする、あまりにも行き過ぎた熱意のため解任。
ゴッホの激しい性格は、他の人からは常に過度に映り、危険視されたのだった。
ゴッホとしては単に、キリスト者として貧しい生活を送りたい、というゴッホは、幹部と決裂し、ハーグ出て画家を目指すことになる。
ハーグでもゴッホは、一人の娼婦を救おうとして、家を提供してしまう。プロテスタント教会の伝統的なモラルから、明らかにかけ離れた生活者になってしまったのだ。
キリスト教による救済を断念したゴッホは、今度は、政治的な傾向へと向かう。実際に運動家ではなかったが、精神的には社会主義の理想へと引っ張られていった。実際、当時の社会は、社会主義が大きな勢力として台頭してきた時代であった。
パリに出ると特に、社会主義やアナキズムの賛同者が画家仲間でも多くいた。ゴッホは画家が協同制作するコミューンを夢見た。
大変な読書家だったゴッホは、ゾラ、ディケンズ、ヴィクトル・ユゴーなどの作家についても、攻撃的写実主義によって貧困層の受難を描写する点で、自分と共通点があると考えていた。
オランダの画家では、聖書の場面を人間性あふれる豊かな感性ととも描いたレンブラントを賞賛し、フランス画家のオノレ・ドーミエの、民衆版画で、権威を嘲笑う手法に共感していた。
そしてミレーは、ゴッホが最も賞賛した画家だった。宗教的な主題を直接描くのではなく、働く農民に尊厳を与えるその手法は、聖書の世界に深く関わっていると考えたからである。
1886年、ゴッホはパリの弟テオのところに同居した。初めてモネ、ルノワール、ドガ、ピサロなどを目の当たりにした。印象派の影響で、ゴッホの絵はくすんだ色彩から、一気に生き生きした色彩へと変貌した。
1888年南フランスへ行ってからは、作品は外見以上に深いものを主題として求め続け、ゴッホの心情を表現するようになり、ますます個性的になっていった。
1890年7月、オヴェールで自殺した。生前に売れた絵は1点だけだったが、その頃には既に、画家仲間から作品は知られるようになり、評価され始めた時期であった。
http://art.pro.tok2.com/G/Gogh/Gogh.htmより。