後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

私は気持ちが落ち込んだ時ゴッホの絵を見ます

2014年08月25日 | 日記・エッセイ・コラム

最近、日本の若年層が右傾化し、戦争への道を歩み始めたように感じています。

そしてインターネットをいろいろ見ると韓国人や中国人を差別し、軽蔑したような恐ろしい文章が沢山掲載されています。

これは中国人や韓国人を傷つけるだけでなく日本人の尊厳も傷つけているのです。

そこで私はこの傾向を少しでも変えたいと思い、私のブログに以下のような3つの記事を書きました。

韓国のお寺と墓地の風景・・・我々と同じような人間が住んでいます

愛と文化は国境を越える(3)ミレーの晩鐘が朴寿根画伯の生涯を支えた

韓国にもある神仏混交のような宗教混淆

これらの記事を読んだ方々は、毎日のアクセス数の750件から推定すると、3日間で、のべ2000人以上と思います。しかしこれで韓国が好きになったというコメントや反応はありませんでした。皆無です。大きな無力感で気持ちが落ち込んでいます。

このように気持ちが落ち込んだ時にはゴッホの絵を見ることにしています。何故か元気が湧いてくるのです。家内は感動はするけれど逆に悲しくなると言います。ゴッホに同情しているのです。絵画から感じることは人さまざまです。

検索していろいろなHPを見較べていますが、「ヴァーチャル絵画館」:http://art.pro.tok2.com/G/Gogh/Gogh.htm は色彩が一番鮮明で、多くの絵画を網羅しています。

そこでこのHPからゴッホの絵を5枚を選んで、以下にお送りします。

ゴッホの絵がお好きな方々は喜んで下さると信じています。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)

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ゴッホ「モンマルトルの家庭菜園」1887 ゴッホ美術館 アムステルダム

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ゴッホ「アルルのはね橋」1888 54x65cm  クレラー・ミュラー美術館、オッテルロー、オランダ

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ゴッホ「スヘフェーニンゲンの浜辺」1882 アムステルダム市立美術館

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ゴッホ「アルルのゴッホの部屋」1888  72 X 90 cm アムステルダム、ファン・ゴッホ国立美術館 

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ゴッホ「夕方のカフェテラス(アルルのフォラン広場)」1888 9月 

81 x 65.5 cm クレラー・ミュラー美術館、オッテルロー、オランダ

=====Vincent van Gogh(1853-90)=============

オランダのプロテスタントの牧師の息子であった。ゴッホ自身も信仰心が厚かった。
伯父のヴィンセントが経営するグーピル商会で仕事をしていた。当時、パリ、ロンドン、ハーグで絵画を扱っていた。しかし、経営者にも仕事にも幻滅し、7年後、23歳でこの仕事は辞めている。
その後イギリスへ渡り、学校で教えた。この間にゴッホは、プロテスタント主義に傾いていく。
オランダへ一旦帰り、アムステルダムの大学で聖職者になるための教育を受けようとした。しかし、実際の試験勉強では宗教と何の関わりもないことアカデミックなことを勉強しなくてはならない。
落胆したゴッホはブリュッセルの副音伝道学校へ入る。しかし、ゴッホの過剰な信仰は、学校側に警戒される。
3
ヶ月後、鉱夫たちの説教のため、ボリナージュ地方へ派遣される。ゴッホは人々の貧困を見て、自らも同化しようとする、あまりにも行き過ぎた熱意のため解任。
ゴッホの激しい性格は、他の人からは常に過度に映り、危険視されたのだった。
ゴッホとしては単に、キリスト者として貧しい生活を送りたい、というゴッホは、幹部と決裂し、ハーグ出て画家を目指すことになる。
ハーグでもゴッホは、一人の娼婦を救おうとして、家を提供してしまう。プロテスタント教会の伝統的なモラルから、明らかにかけ離れた生活者になってしまったのだ。
キリスト教による救済を断念したゴッホは、今度は、政治的な傾向へと向かう。実際に運動家ではなかったが、精神的には社会主義の理想へと引っ張られていった。実際、当時の社会は、社会主義が大きな勢力として台頭してきた時代であった。
パリに出ると特に、社会主義やアナキズムの賛同者が画家仲間でも多くいた。ゴッホは画家が協同制作するコミューンを夢見た。
大変な読書家だったゴッホは、ゾラ、ディケンズ、ヴィクトル・ユゴーなどの作家についても、攻撃的写実主義によって貧困層の受難を描写する点で、自分と共通点があると考えていた。
オランダの画家では、聖書の場面を人間性あふれる豊かな感性ととも描いたレンブラントを賞賛し、フランス画家のオノレ・ドーミエの、民衆版画で、権威を嘲笑う手法に共感していた。
そしてミレーは、ゴッホが最も賞賛した画家だった。宗教的な主題を直接描くのではなく、働く農民に尊厳を与えるその手法は、聖書の世界に深く関わっていると考えたからである。
1886
年、ゴッホはパリの弟テオのところに同居した。初めてモネ、ルノワール、ドガ、ピサロなどを目の当たりにした。印象派の影響で、ゴッホの絵はくすんだ色彩から、一気に生き生きした色彩へと変貌した。
1888
年南フランスへ行ってからは、作品は外見以上に深いものを主題として求め続け、ゴッホの心情を表現するようになり、ますます個性的になっていった。
1890
7月、オヴェールで自殺した。生前に売れた絵は1点だけだったが、その頃には既に、画家仲間から作品は知られるようになり、評価され始めた時期であった。

http://art.pro.tok2.com/G/Gogh/Gogh.htmより。


韓国にもある神仏混交のような宗教混淆

2014年08月24日 | 日記・エッセイ・コラム

今日は日曜日で、これからミサに行きます。日曜日には宗教に関連した記事を書くことにしています。

今日は韓国の仏教と古来の宗教との混淆の様子をご紹介します。日本にある神仏混交に似ていますが、韓国にには神道が無いので違いもあります。

まず中国や韓国に観光旅行に行くと大きなお寺に案内されることが多いものです。すると下の写真のような「大雄殿」という扁額のある本堂のような建物があります。

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この写真は慶州の佛国寺の大雄殿です。中にはお釈迦さまやの教えを象徴する 仏像がまつってあります。大雄殿とは日本のお寺の本堂のことです。

Kankokutera21中國や韓国の禅宗系のお寺に観光に行くと必ず案内される一番重要な建物です。

左の写真が韓国のあるお寺の 大雄殿の中にある仏像です。

お釈迦さまは死ぬとき自分の像を作ってはいけないとおっしゃいましたが、人間は偶像を大切にします。

本堂に至る参道には山門とか三門とか総門という立派な門があり現世から神聖な境内に入って行く人間の気持ちを神聖なものにしてくれます。

さて韓国の多くのお寺の本堂の裏の高い場所に三聖閣という建物があります。

Kankokusansin11左の写真があるお寺の 三聖閣です。

そして「韓国の仏教」(http://www.bbweb-arena.com/users/hajimet/bukkyo_004.htm)にようるとこの建物の中には3人の聖人がまつられています。

「山神」、「七星」、そして「独聖」です。

詳しくは末尾の参考資料にありますが、簡単に言えば山神は韓国の古来からある山岳信仰の神です。七星は道教の妙見信仰をもとにした北斗七星のことで本尊は北極星です。独聖はインドで釈迦の出征まえに聖人になった那般尊者と言われています。

このような宗教の混淆は日本のお寺の本堂の裏山に神社をまつるのとよく似ています。例えば東京の高尾山には薬王院というお寺がありますが、その本堂の裏には飯綱権現をまつった神道の殿堂があります。

明治維新で神仏混交が禁止されましたが、それ以前のお寺の本堂の裏や横には必ず神道の拝殿と本殿があったのです。

宗教の混淆は世界中で見られる文化現象ですす。

明治維新以来、日本では宗教混淆は悪いということになっています。

しかし混淆がいけないのではなく、混淆を自分の現世利益に利用することがいけないのです。

厳密に言えば仏教はヒンズー教と混交しています。キリスト教はユダヤ教と混交しています。あまり純粋性を追求すると宗教戦争がおきます。ほどほどが良いのです。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)

====参考資料===============

「三聖閣」とは:http://www.bbweb-arena.com/users/hajimet/bukkyo_004.htm

韓国の寺院は寺院後方、大雄殿より高いところに「三聖閣」という殿閣を置くことが多い。韓国の山岳信仰と融合したものである。何を主体に祀るかで山神閣、七星閣、独聖閣などと言う場合もある。いずれも仏教以外のとこ ろから韓国仏教に融合したものである。 三聖閣という場合は、「山神」、「七星神」、「独聖」を祀り、建物は正面4本の柱、側が2本の柱で囲まれた建物となる。

山神は韓国土俗の「山神霊」が変化したもので18世紀末から19世紀初めにかけて発生した信仰である。山神は護法転身の結果、人格神の山神、化身の虎とし て現れるという。山神に対しては無病長寿、子孫繁栄を祈願する。山神図は虎と子供を率いて手に長寿などの象徴を載せることが多い。

七星は北斗七星のことで、人間の幸福と寿命を象徴する。北斗七星に対する民間信仰が融合したもの。元々は国の兵乱、天災地変が起きたときや、それを予防す るために祭祀をしていたことに始まる。七星図の本尊は熾盛光如来で、北極星を意味する。手に金輪を持つことが多い。脇侍菩薩は日光菩薩と月光菩薩である。このような七星図は16世紀 末にすでに現れている。

独聖は那般尊者ともいわれ、釈迦が出征する前に天泰山で一人12縁起の真理を悟り、聖人の地位に上ったとされる。または16羅漢の一人、賓頭路頗羅堕を指すともされる。因縁の理致を悟った衆生に福を与えるということで信仰される。 絵は天泰山の中に座り、白く長いまつげで、錫杖、念仏を持っている姿で描かれることが多い。(韓国仏教文化事典、仏教文化研究院編より)


久しぶりに石塚園芸に行って花の写真を撮らせて頂きました

2014年08月23日 | インポート

石塚園芸はいろいろな意味で感動的な花の栽培園です。
石塚健壽さんが精魂こめて交配し20種の西洋サクラソウの新種を作ったのです。
その石塚さんの仕事ぶりついては以前から何度かごご紹介してきました。
例えば、石塚園芸のサクラソウがオランダの花の祭典、フロリアードで金賞一席と特別賞を受賞 をご覧下さい。
2012年のオランダでの花の祭典、「フロリアード2012」に新種のサクラソウを出展し、金賞一席と特別賞を受賞したのです。
毎年、1月になると見事なサクラソウの花々を見せて貰うために訪問しています。

今日は久しぶりに石塚園芸に行って花の写真を撮らせて頂きました。あいにく栽培家のおじさんは不在でした。
下にお送りする花の写真をお楽しみ頂けたら嬉しく存じます。
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愛と文化は国境を越える(3)ミレーの晩鐘が朴寿根画伯の生涯を支えた

2014年08月23日 | 日記・エッセイ・コラム

外国に行ったことも無く、外国人に会ったことも無くても異国の人間の善良さや誠実さは直感的に理解出来るものです。

愛とは善良さと誠実さによる他人を大切にする心です。それは国境のような人間の利己心で出来た境界など、一瞬にして飛び越してしまうものです。

その実例を以下にご紹介いたします。

朝鮮半島で一番尊敬されている画家に、朴壽根(1914~1965)という人がいます。パク・スネンと発音します。

彼が12歳の時、ミレーの晩鐘を見て、電撃を受けたように「私はミレーのような画家になる」と決心したのです。そしてその決心は一生変わりませんでした。

彼は貧しいキリスト教徒の家に生まれ、江原道の楊口で小学校を卒業したのみです。そして12歳の時、画家になる決心をしたのです。当時の小学校には日本人の校長がいて、その校長先生も朴壽根の描く図画を絶賛し、画家になるように薦めたのです。

しかし朴壽根は家は貧乏で、上級の学校へは行けません。偶然目にしたミレーの「晩鐘」に感動を受け決心したのです。

日本の領有時代の1930~40年代当時、何の縁故も人脈も無かった彼には「鮮展=朝鮮美術展覧会」が唯一の作品活動の場でした。

最初に「春が来る」という水彩画1932年に入選し、その後油絵も数回入選しました。「鮮展」図録に掲載された彼の出品作は、農村の風景と女性たちの生活を漂わせる作品が大多数で韓国独立後の作品まで継続し描かれているのです。
1940年代、隣の家の娘であった金福順と結婚しました。

そして彼は自分の絵画世界を次のように説明しています。

「私は人間の善良さと真実さを描かなければならないという芸術に対しての非常に平凡な見解を持っています。したがって私が描く人間性は単純であり、多彩ではありません。私は彼らの家庭にいる平凡なお祖父さん、お祖母さんそして小さな子供達のイメージを最も親しんで書きます」

彼の絵画には、日本が朝鮮を領有していたことや韓国が独立したことには微塵も影響を受けなかったのです。ただミレーのように、ひたすら人間の善良さと真実さを描き続けたのです。

しかしミレーの真似ではありません。ミレーの精神に共感しながら独自の絵を描き続けたのです。それではミレーの晩鐘と朴壽根の絵画の写真を見て見ましょう。

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朴壽根が12歳の時、このミレーの晩鐘を見て、電撃を受けたように「私はミレーのような画家になる」と決心したのです。

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朴壽根の「洗濯場」(37×72cm)1950年作。農村の小川で数人の農婦が洗濯している光景です。非常に単純化したフォルムにしみじみとした情感を漂わせています。

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上は彼が好んで描いた農村風景の一枚です。

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上は農村の光景を描いた水彩画(24.5×30)1957年作、です。彼は本当に絵の上手い人でした。

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上は当時の農村によく見かけた子守の光景です。赤ん坊が安心して寝ています。少女が何か考えごとをしているようです。安らかさの中に寂寥感を感じます。

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上の写真は1940年代、隣の家の娘であった金福順と結婚し、長女が幼かったころの朴壽根一家です。彼の後ろには多数の絵画作品が立てかけてあります。

絵を見て何を感ずるかは人それぞれです。変な感想や評論は書くべきとはないと知っています。しかし一言だけ書かせてください。彼の絵画には人間へ対する深い愛情を感じます。そして悲しみも感じます。この寂寥感には日本の朝鮮領有と関係が無いいことを祈るばかりです。

朴壽根は1965年、51歳の若さで亡くなりました。

 それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)

 ======参考資料==================

(1)朴壽根生誕100周年記念展示会がソウル、仁寺洞のカナインサアートセンターで開催されました。2014年1月17日より3月16日までの約100日でした。展示作品は油絵90余点、水彩画とデッサンが30余点で合計120点以上展示されています。( http://iwacan-gokorea.blogspot.jp/2010/10/blog-post.html )

(2)朴壽根の生涯:

http://www5.ocn.ne.jp/~sinwoong/801.html


トリックアート美術館の意外な面白さを発見しました

2014年08月22日 | インポート

トリックアート美術館の意外な面白さを発見しました。
そこで不思議な写真数枚をお送り致します。

昨日、家内と中学1年生の男の双子の孫が高尾山トリックアート美術館に行きました。向かい側に広大な有料駐車場がありましたが、私は入りませんでした。
こういうトリック絵は好きでないから勘弁して貰い、裏高尾の日影沢の自然を楽しんで来ました。
帰宅後、彼らの話を聞き、写真を見ました。...

そうしたら平面的な絵画の前で自分がどのような姿勢でポーズをとるかを深く考えて写真を撮ったそうです。
自分が絵画の一部として参加して、トリック効果を最大にすることが面白いそうです。自分で三次元的な映像を創り出すことが面白いのです。そうです。体験型美術館なのです。
その彼等の苦心作の不思議な映像を5枚お送りいたします。
なお高尾山トリックアート美術館の詳細は、
http://www.trickart.jp/information.html に出ています。
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愛と文化は国境を越える(2)日本人を徹底的に大切にしたロシア人、ニコライ・カサートキン

2014年08月22日 | 日記・エッセイ・コラム

この話は何度も書きました。

しかし何度書いても人間の素晴らしさに感動いたします。「愛と文化は国境を越える」と題した連載記事に必ず含めたい話です。

それは昔の日露戦争の陰で咲いた美談です。ロシア人と当時の日本人がお互いを大切にし、人間の限り無い素晴らしさを描き出してくれたのです。

このロシア人は宣教師のニコライ・カサートキンです。日本側は当時の明治政府と軍隊と一般信者です。お互いの人間の尊厳を大切にしあって立派な行動をとったのです。

ニコライ・カサートキンは幕末にロシアからやって来て、東京にニコライ堂を建て、ロシア正教を日本に根づかせた宣教師でした。1837年にロシアに生まれ、1912年に東京で75歳で亡くなりました。

1904年に日露戦争が起ると日本に居たロシア人は蜘蛛の子を散らすように上海やウラジオストックやロシア各地へ一斉に帰ってしまったのです。戦争が始まればロシア人は全て日本の憲兵に逮捕され収容所送りになるのです。

しかし、東京、駿河台のニコライ堂に居るニコライだけは眉一つ動かさず日本を離れなかったのです。そして日本の信者のために自分を捧げたのです。

一方、日本の政府や軍部関係者は日露戦争の間、軍隊の一小隊を常時派遣しニコライ堂とニコライの安全を暴徒から守ったのです。

この時、彼は、「私はロシアに仕えるのでない。キリストに仕える者です」と明言したのです。日本の信者を見捨ない態度を見た明治政府関係者や軍部も武士道精神に従ってニコライを大切にしたのです。

日露戦争は1905年に日本側の勝利で終わります。

日本側の死傷者は20万人、ロシア側は15万人という凄惨な戦争でした。

凄惨な戦争でしたがロシア兵の捕虜に対しては日本側が実に寛大な処置をしたのです。

明治政府と軍部はロシア正教の日本人信者とその家族がロシア兵の捕虜の慰問することを許可したのです。慰問にはロシア正教の礼拝式を捕虜収容所で行うことも含まれていました。

1905年に数万人のロシア兵捕虜が日本の収容所へ送られて来ました。旅順や奉天での捕虜も含めるとその数は7万人以上と言われています。 日本国内では27ケ所の収容所が、弘前から始まって仙台、京都と南の熊本まで各地に散在していました。

ロシア語の出来る日本人の司祭がそれぞれの収容所を担当して死者の埋葬、病者の見舞い、家族からの郵便の配布、ロシアからの慰問袋の仲介、礼拝式や祈りの会の開催、行方不明者の調査などなどに手を尽くして行ったのです。

私はその様子を撮った当時の写真を見たことがあります。

捕虜収容所を訪問したニコライと日本軍幹部との記念写真。イオアン小野帰一司祭の指導による大阪、浜寺捕虜収容所の祈りの会の風景。松山捕虜収容所を担当したセルギイ鈴木九八司祭の上半身肖像写真。その他多数の写真が残っています。 

明治時代の日本人のロシア兵に対する寛大な処置は長く外国から称賛されたそうです。

そして日本ではロシア正教が実質的に日本正教会へと独立して行ったのはこの日露戦争以後のことです。

このニコライ・カサートキンは1912年に75歳で亡くなりました。

神田のニコライ堂から上野、谷中の墓地までの葬列の沿道には数万人の東京市民が並び、別れを惜しんだのです。そして明治天皇も恩賜の花輪を送ったのです。

下に私が2009年に撮ったニコライ堂の写真を示します。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。

後藤和弘(藤山杜人)

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裏高尾の日影沢に行って、のんびりして来ました

2014年08月21日 | インポート

家内と下2人の孫を高尾山トリックアート・ミュージアムに送り、私は裏高尾の自然の中を車でのんびり走ってきました。
杉木立の道は蒸し暑くて、アブラゼミがしきりに鳴いていました。
時々、車を止めて写真を撮りました。
大自然は何度行っても良いものです。

1時間後にまたトリックアート・ミュージアムに寄り家内と孫を車に乗せて帰宅しました。

高尾山や杉木立やマス釣り場やテッポウユリの写真をお楽しみ頂けたら嬉しく思います。

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愛と文化は国境を越える(1)日本食文化の世界への普及

2014年08月21日 | 日記・エッセイ・コラム

現在、世界中の少し大きな町に行くと必ず寿司屋さんがあるといいます。刺身や天麩羅を出す和食の店もあります。さらに日本のラーメン専門店もある国々があります。

下の写真は江戸前の握り寿司の写真です。美味しそうですね。

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上の写真の出典は、http://sottaramon.com/?p=11 です。

そして下の2枚の写真はオーストラリアにある寿司店の外と内部の写真です。

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上下の写真の出典は、http://xxxkaigaixxx.blog.fc2.com/blog-entry-2117.html です。

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私は間もなく晩期高齢者になるので長い、長い間、日本食が少しずつ海外に普及して行く様子を見てきました。大げさに言えば、日本の食文化が国境を越えて外国に出て行く歴史の目撃者なのです。生き証人なのです。

日本が台湾や朝鮮半島や満州を領有し、各地へ和食を普及させた 時代のことは勘弁して貰います。

そうすると欧米人が和食に本格的に接した時代はアメリカ軍の日本占領から始まります。

当時のアメリカ人やヨーロッパ人は刺身や寿司を絶対に食べませんでした。顔色を変えて見ようともしませんでした。醤油はスーパーマーケットに並んでいましたが。

その上、進駐軍は日本の野菜を絶対に食べず、全ての野菜は本国から大きな缶詰めにして持って来たのです。ほんの少し清浄野菜を栽培していました。

その理由は日本では田畑の肥料に人糞を使っていたのです。彼等は人糞が怖いのではなく野菜に付着している回虫の卵が怖かったのです。胃腸に棲みつく寄生虫が怖かったのです。

人糞を肥料に使うのは1964年の東京オリンピックの頃まで続きました。

ところがオリンピックにいろいろな国の人々が日本に来てスキヤキや天麩羅を食べます。生の魚の無い巻き寿司を食べます。そして日本食もなかなか美味しいと感じ帰国したのです。

しかし生魚はご法度です。私も自宅に時々欧米人を招待しましたが、スキヤキや天麩羅のように十分火の通った料理だけにしました。しかし生卵はムリのようでした。魚は出さず、肉料理だけにしました。家内は頑張って中華料理もときどき出しましたが、これは間違いなく好評でした。

それがベトナム戦争が終わったころからアメリカで健康食ブームが起きたのです。栄養学者が各国の料理の脂肪分やカロリーを計算して、日本食には脂肪分が少なく健康に良いということが分かりました。

途端にアメリカで寿司や刺身に挑戦する人が増えだしたのです。何でも挑戦するのがアメリカ人の怖いもの知らずの文化なのです。

何度か食べて、慣れると刺身や寿司が大変美味であると確信する人々が出てきました。それは1970年代の終わり頃から1980年代にかけてでした。

アメリカで流行すればヨーロッパでもすぐにその流行を取り入れます。そのようないきさつで、海岸が近いイタリアやフランスやイギリスで直ぐに刺身や握り寿司の店が増えて行ったのです。内陸国家のドイツやポーランドやロシアは少し遅れましたが寿司や和食の店が次第に増えて行ったのです。

中國や東南アジアでも寿司や和食の店が欧米と並行するように増加して行ったのです。

私は1970年頃のアメリカ人が刺身や寿司の話をしただけで顔を青くして怖がっていた様子を知っています。ですから昨今の世界中の日本食の普及を見ると覚醒の感に打たれるのです。文字どうり有為変転は世のならいですね。変われば変わったものです。

 それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)


アメリカの4600万人の貧困層・・・日本も将来そうなる!

2014年08月20日 | 日記・エッセイ・コラム

最近、ミズーリ州で白人警官が黒人を射殺したことをきっかけにして大規模な暴動が起きています。これには黒人差別と黒人の貧困の2つが重なり合っているのです。そこで今日はアメリカの驚くべき貧困層の人数をご紹介したいと思います。

このアメリカ社会の格差問題は日本の貧困層が急速に増加している問題と関連して非常に重要な問題なのです。

アメリカの人口は3億1700万人です。(3億1694万人)

その総人口のうち4600万人が貧困層であるという信頼できる統計結果が米商務省から発表されました。約7分の1に当たります。この統計は2010年のものですが現在はもっと増加していると想定されます。

なおこの統計では貧困層の基準を、一世帯家族4人の場合に年収は$22,314(約171万8100円)以下を貧困層としています。月収に換算すると1859ドルです。

アメリカ在住の経験のある方ならこれではかなり厳しい貧乏暮らしということがお分かりと存じます。

そしてこの4600万人の背後にまだ表面化していない多くの「予備軍」が控えていると発表しています。米国政調査局が2011年11月に明らかにした新貧困算定基準に基づくと、何と米国民の3人に1人が貧困、あるいは貧困予備軍に入る計算になるというのです。

貧困層率では日本がアメリカに次いで世4位という統計結果もあり、日本の将来もアメリカ型の社会になると予想されているのです。(http://blogs.yahoo.co.jp/yuuta24mikiko/34880346.html?from=relatedCat

さて細かなことは省略してアメリカのスラム街の写真をご覧ください。下は繁華なラスベガスの中心街近くのスラム街の写真です。

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この写真の出典: http://pakyouthforce.blogspot.jp/2012/03/poor-america-slumdog-15-million-us.html

上の写真は昔のシカゴやニューヨークのスラム街と様子が違います。昔のものは白人が住まなくなったビルに黒人が棲みつき、スラム化していました。

上の写真をよく見ると南アメリカのスラム街に非常に似ています。ですから多分、メキシコや中南米から違法流入してきた人々が住んでいると想像できます。

そして下はニューヨークの路地裏の写真です。
ニューヨークでは表通りだけを歩き、路地には絶対に入るなと言われています。現在では表通りや地下鉄は綺麗になりましたが、路地裏には貧民が住み、犯罪地帯になっているというのです。
下の壁の落書きが異様な雰囲気を示しています。やっぱり路地には入らない方が良いようです。

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ニューヨークの路地裏の写真の出典:http://blog.looktour.net/12/york-scene

下の写真はニューヨークの表通りの光景です。真ん中に車椅子に乗った黒人のホームレスが写っています。左の背広を着た男性は定職がある普通の人のようです。この男性のすぐ右後ろをこちらに歩いてくる黒人の女性は正しい生活をしているように見えます。右側の歩道の上で何か食べながら歩いている2人の女性は地方から来た観光客のようです。普通の人です。

このようにニューヨークの街を歩く時はすばやく周囲の人間の観察をして自分の身の安全を守るのです。

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車いすに乗ったホームレスと、背広を着た人のこの写真を撮った人は増池宏子さんです。、出典:http://www.asahi.com/international/update/1026/TKY201310260060.html

さてそれでは何故世界一豊かなアメリカに数多くの貧困層が住んでいて貧富の格差が大きいのでしょうか?

原因はアメリカ人が金持ちになるのも貧乏になるのも全て個人の自己責任だという思想を牢固として持っているからです。個人の自由な競争で金持ちになるのも良いし、反対に怠けて貧乏になるのも勝手だという思想が背景にあるのです。

そして金持ちになるには自分の独創的な考えでビジネス・モデルを作り起業すれば成功すると考えます。起業のチャンスは平等に誰にでもあり法律の規制がほとんど無いのです。この起業の自由と起業のチャンスの平等性がアメリカ人が一番大切にしている「自由と平等」の内容なのです。

そしてもう一つは神が人間に与えた基本的な人権です。アメリカ人の80%以上が神の存在を信じています。

自由と平等と神が与えた基本的人権を重視すれば、アメリカ合衆国は永遠に栄えるという信念が社会の基盤に流れているのです。

その結果として貧民層が増え、格差が増大しても連邦政府は放置し、何も対策を講じないのです。

さて日本政府はアメリカを真似して、小泉内閣が規制緩和をしはじめ、その後の歴代の内閣もアメリカ型の社会を作り、日本を栄えさせようとしています。それは弱者を一層貧しくし、母子家庭の貧困を招き、格差社会を作りつつあります。

しかし日本人にはアメリカ人の考えている自由と平等の内容と神の与えた基本的人権を本当に理解しているのでしょうか?

アメリカ人のように信念を持って突き進んでいるのでしょうか?

どうも明治維新以来の表面的な欧米文化の導入と同じようで、大きな危惧を感じています。しかしこれも現在の若者の選択なので高齢者は温かく見守ったほうが良いのかもしれません。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)

 

===参考資料==================

(1)「アメリカの貧困問題と格差問題のまとめ」:http://matome.naver.jp/odai/2136284832611154501

米国民の3分の1は貧困層か貧困層予備軍

米商務省の統計によると、米国の「貧困層」は4600万人にも及んでいます。世界最大の経済大国で、実に7人に1人が貧困層という事実に、米国では衝撃が走りました。ところが、本当の恐ろしさは、4600万人の背後にまだ表面化していない多くの「予備軍」が控えていることです。米国政調査局が2011年11月に明らかにした新貧困算定基準に基づくと、何と米国民の3人に1人が貧困、あるいは貧困予備軍に入る計算になります。

2010年に貧困者が4620万人に達した米国

2010年の米国貧困者数が記録的な数に達した、と報道されている。さっそく調べてみたところ、貧困の境界線となる一世帯家族4人の年収は$22,314(約171万8100円)だ。月収に換算すると1859ドルだから、これはかなり厳しい暮らしになる。
例えばロサンゼルス近辺の場合、寝室が一つだけのアパートを借りると、月々の料金は安いものでも1200ドルほどかかる。家族4人なら両親がベッドルームで寝て、子ども二人は居間ということになると思うが、アパート代を払うと659ドルほどしか残らない。言うまでもなく、政府からの援助がなければ家族行き倒れになってしまう。

中産階級の収入の減少中流家庭では、1世帯あたり平均収入が2009年度の49,777ドル(=約383万円)から、49,445ドル(同380万円)に減少した。
実は米国では、中流家庭の世帯収入には、この30年、あまり大きな変化が見られない。インフレ率を考慮して計算した場合、2010年度の収入は1980年度に比較して、わずか11%の増加。一方、上位5%の富裕層の世帯収入は、同じ期間に42%も上昇している。富める者はさらに富み、貧しき者は、はさらに貧しく、という傾向が顕著だ。
さらに、下位60%の世帯では収入が減少、一方で年収10万ドル以上の世帯では収入が増加、という結果になっている。

(2)「米国における富の配分の不公平拡大とその要因の考察」:http://www.rice.or.jp/archive/pdf/2005/2006-8.pdf


連日の猛暑なので山林の雪を見て涼しい気分になっています

2014年08月19日 | 日記・エッセイ・コラム

さきほど庭の寒暖計をガラス戸こしに見たら38度を指しています。

連日の猛暑なので家に引きこもりクーラーをかけて外出はしないようにしています。

そして先程から、今年の2月25日に甲斐駒岳の麓の山林の中の小屋の大雪を見に行ったときの写真を見て涼しい気分になっています。

小屋は舗装道路から分かれて2Kmくらい雪道を登ったところにあります。

いつもは車で上がれますが、この日は積雪のため車を下に置いて徒歩で登りました。下の写真はその雪道の両側にある雑木林の雪の様子です。

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雪道を登って行くとやがて視野の広い伐採地に出ます。下の写真をご覧下さい。

雪原の向こうに木内さんの家がはるかに見えます。いつもは必ず寄るのですが、雪が腰下まであるので寄れませんでした。木内さんはこの山奥に30年くらい独りで暮らしているのです。

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この木内さんの家のさらに上の雑木林の中に自分も小屋があります。それが見える所まで登りましたが雪が深くて小屋までは行けませんでした。

引き返してきて、車に戻り、運転し始めたところで前輪を雪の中に突っ込んでしまい動けなくなりまし。幸い見えるところにユンボが動いています。家内が素早く走って行って助けを求めました。

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気の良いおじさんが車を上の写真のように引っ張り上げてくれました。感謝です。

この時の雪の冷たさや風の寒さを思い出すと今日の猛暑を一瞬、忘れます。

皆様もこの暑さをお忘れください。

早く爽快な秋風の吹く季節になるように祈りながら筆を置きます。


外国人を徹底的に差別し軽蔑する日本人と、全然しない日本人

2014年08月19日 | 日記・エッセイ・コラム

最近の中國や韓国へ対する日本人の感情的反発を少し大きな視野で考えてみました。

そして戦後の反米感情や、西洋諸国の昔の植民地支配に対しての嫌悪感なども含めて、日本人の外国に対する感情の揺れ動きも考えてみました。

すると日本人は2種類に大別されます。大雑把過ぎると思いますが、まあ、お読みください。

一群の日本人は外国人を徹底的に差別し軽蔑する人々で、あとの一群は差別を全然しない人々です。

もちろんこの中間には外国人には一切関心が無いという一群の人々もいます。

さて、あなたはどちらの種類の日本人でしょうか?

例えば、差別するほうの代表例は前の都知事だった石原慎太郎さんです。後者の例は現在の都知事の舛添要一さんです。

この相違が何故おきるのでしょうか?

長い間考えて来ましたが、外国人と良い交流経験の有無が決定的な原因と思います。

外国人に意地悪されたり差別されるという悪い経験をした人は当然外人嫌いになります。それは自然なことです。

石原さんは芥川賞をとった小説家です。外国に住んでいたことも外人と共同で作業したこともありません。要するに外国人と一緒に協力して仕事をした経験が無いのです。

一方、舛添さんはフランスに留学して国際政治学者になった人です。外国人との交友の豊かな人です。外国に住んでいると中国人や韓国人を差別し軽蔑することのむなしさが身に沁みて判るのです。

この議論にはもちろん例外が多くあります。一度も外国人と接する経験がなくても外国人を分け隔てなく尊敬する優しい心の日本人もいます。そういう人を本物の人格者と言います。

さて私自身はアメリカ在住とドイツ在住の経験があります。中国と韓国に滞在して講演もしました。その経験のお蔭ですべての外国人を分け隔てなく親切にすべきだと思うようになったのです。

自分の心が広くて人格者だから差別しないのではありません。単に外国在住経験のお蔭でそのようになっただけの事です。自慢できる話ではないのです。

ですから外人差別は人格とあまり関係がありません。石原慎太郎さんもいささか自己中心なようですが立派な人格者です。

今日の記事の主な部分は以上で終わりです。

さて以下の話は自分のアメリカ留学のときのことになります。実につまらない個人的な経験ですが、自分が老人ボケになって忘れないようにと記述する部分です。

この先はお読みになるほどの内容ではありません。

私のアメリカ留学の時の体験を2つだけ記しておきます。

一つは1960年にオハイオ州立大学で実験装置を作ったときのことです。その装置の完成には大学に付属の機械工場のニールさんという職人がひどく親切に協力してくれたのです。

そして学科主任のフォンタナ教授が励ましてくれたのです。

下の写真はロードホールという建物ですが、その一階の右の部屋に実験装置を作りました。

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そして下の写真は親切だった学科主任のフォンタナ教授の部屋のあった建物です。彼が寄付をした建物なのでフォンタナ実験室と言う名前がついていました。

玄関を入ってすぐ右側に彼の部屋があり、ヘレンという秘書がいつも親切にしてくれました。良く出来た女性でした。

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そしてもう一つの忘れ得ぬ経験は、指導教官のセント・ピエール教授夫妻が我々の結婚式の仲人をしてくれたことです。 下の写真の左に立っている人が セント・ピエール教授です。それは1961年のことでした。

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このような体験をすると何時までもアメリカ人への感謝の気持ちが残るのです。

アメリカのことは全て好意的に見てしまうのです。ベトナム戦争や中東での武力行使以外のことは全てアメリカのことを好意的に見ます。 

それが人間として当然ではないでしょうか?

そしてこの感情はさらに広がってすべての外国人を差別したり軽蔑したりしなくなりました。別に私が人格者なのではありません。外国体験が多かったからだけです。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)


私は北朝鮮の人々に深く同情しています

2014年08月18日 | 日記・エッセイ・コラム

私にはに朝鮮人の金応培さんという親友がいまた。もう何十年も会っていませんが、年賀状の交換を続けています。

彼の一家は日本人によって朝鮮から追い立てられ、満州に移住し、戦後は暫くは旧満州の奥地に住んでいましたが、その後は瀋陽に住んでいました。

1981年、私が彼の招待で瀋陽の東北工学院を訪問したとき、彼はその大学で助教授をしていました。そしてその後、彼は東京にある私の大学の研究室に1年間、留学してたのです。

ヨハネ・パウロII世が2月に長崎へ巡礼に来た1981年の11月に、私は瀋陽市にあるカトリック教会のミサに出ました。案内してくれたのが金応培さんでした。

文化大革命で破壊された教会がまだ復興していなかった時代でした。北京にはカトリック教会が幾つかありましたが、まだ再開していません。ところが瀋陽まで来たら再開していたのです。

それ以来、金応培さんは私の親友になったのです。

金応培さんには瀋陽のいろいろな所へ観光に連れて行って貰いました。

下の写真は100年ほど前に日本人が設計して、満鉄が建てた瀋陽駅です。かなり立派な建物で、何となく東京駅に似ています。

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(上の瀋陽駅の写真の出典:http://lonelytraveler.cocolog-nifty.com/eki/2007/08/post_7a49.html

それから瀋陽は何と言っても、清朝の発祥の地です。満州族のヌルハチが瀋陽に都を置き、清朝の初代皇帝になったのです。

下の写真はその宮殿の様子です。勿論、この宮殿はヌルハチの時代のものではなく、後の時代に次第に増設していった宮殿です。

北京の故宮と同じような配置になっていますが、規模はずっと小さい宮殿でした。

(下の清の皇帝の瀋陽の宮殿の写真。出典:http://news.searchina.ne.jp/disp.cgi?y=2007&d=0819&f=column_0819_003.shtml&pt=large。ヌルハチ皇帝は1621年に瀋陽に都を置いた。)

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観光案内をしながら朝鮮族の金応培さんが何故、中国共産党員になって瀋陽市に住んでいるか説明してくれました。

戦前は、朝鮮は日本領で、農村に住んでいた金さん一家は日本人に強制的に農地を買い上げられたそうです。それで仕方なく満州に移住しました。

そうしたらその農地も日本からやって来た満蒙開拓団によって強制的に買い上げられます。

もう日本人は嫌だと思い、日本人の来ないような奥地の森林地帯へ移住したそうです。

生活は一層苦しくなったのですが、向学心の強い金応培さんは自分で学費を稼ぎました。

深い森のなかに入ると人間の拳くらいの大きな松ボックリがあるそうです。その松ボックリを拾い集め、中にある松の実を収集したのです。

それを持って町に出て、中華料理店へ高く売ります。

こうして中学校、高校を優秀な成績で卒業し、瀋陽の東北工学院に入学したのです。

大学に入学すると優秀な金さんはすぐに共産党への入党を誘われたそうです。否応はありません。

当時、日本へ留学できたのは共産党の党員に限られていました。1981年はそういう時代でした。

それはさておき、朝鮮が日本領だった時、多くの人が満州へ逃れたそうです。しかしそこに満蒙開拓団が入植してくると農地を買い上げられます。半ば強制的にです。仕方なくまた北朝鮮に戻った人も多かったそうです。

ですから現在、北朝鮮に住んでいる多くの人々は日本帝国の圧政に苦しみ、戦後は金日成とその息子の金正日と孫の金正恩の三代にわたる独裁者の圧政に苦しみ、食料すら充分ではなく、飢えているのです。

その上、独裁者の命令で特殊部隊が無法にも日本に上陸してきて、数十人の日本人を拉致し、連れ去っているのです。この行為は絶対に許すべきでない残酷な犯罪です。

しかしその一方で、一般大衆は飢えて可哀そうな生活をしています。このような民族が日本の隣にいるのです。深い同情を感じています。そして現在の過酷な独裁体制が一日でも早く終わることをお祈りしています。

独裁政権の悪の極みと思います。人々の苦しみは想像を越えていると思います。実に嘆かわしいと思います。(終わり)


夏枯れで花が少ない季節になりました

2014年08月18日 | 写真

夏枯れで花が少なくなりました。

仕方が無いので小金井公園の花園に行きました。近所のボランティアさんたちがいろいろな花を持ち込んで植えているのでゴチャゴチャしています。

家内がそんな花々の写真は撮らなくてもと忠告しています。
しかし写真を撮っているとアブラゼミやミンミンゼミの大合唱が聞こえて楽しいのです。素晴らしい蝉の声を想像しながら写真をお楽しみ頂ければ嬉しく思います。

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日本は間もなくアメリカと同じ貧富の差の激しい社会になる!

2014年08月18日 | 日記・エッセイ・コラム

日本の若年層や女性の年収が減少して貧困層が急速に増加していることは以下の記事でご紹介いたしました。私はだんだん貧しくなる・・・あなたの暮らしは如何ですか?

毎月月給を貰っている給与所得者の年間給与が300万円以下の貧困層(家族数にもよるが)が間違い無く急速に増えているのです。http://it.2chblog.jp/archives/1005608997.html  に出ている図面をご覧下さい。

また日本の貧富の差を示す指数の相対的貧困率は先進国OECD中で第4位で、実質はアメリカの次ぐらいということも報告されています。http://blogs.yahoo.co.jp/yuuta24mikiko/34880346.html?from=relatedCatに出ている図面をご覧ください。

この日本における貧富の差が拡大している現象は日本がアメリカのような社会になりつつあることを示しています。

その原因を簡単に言ってしまえば日本の若者が会社に縛られて汗水を流すよりも非正規雇用の形態を好むようになったためです。自由に自分の時間を大切にし、趣味的な人生を送るようになったのです。

非正規雇用とはようするにパートタイムで働くということです。当然、年間所得は正社員より格段に少なくなります。

多くの若者が、会社の規則を我慢して努力し、会社を発展させるという考えを嫌がっているのです。

会社よりも自分を大切に思うようになったのです。個人の自由と平等の方が年収よりも大切なのです。この考えそのものは間違っていません。

しかし会社の経営者はこの傾向を利用して正規社員を減らしてパート雇用者を増やすのです。人件費が大幅に減少します。

しかしその一方で残業や過酷な出張に文句も言わず働く人も居ます。当然、年収がどんどん増加します。こうして日本の貧富の差が拡大して行くのです。

努力して勤勉に働こうと決心していても正規社員の採用数が減りつつある日本ではパート雇用しかありません。夫と離別した女性が子供を育てようとしても正社員になることは困難なのです。

その一方で司法試験を合格した人々は裁判官や検事や弁護士になって高い年収が一生保障されます。また上級公務員試験に合格して省庁に入った人も高い年収が一生保障されます。医者や歯医者になる資格を取った人々も高い年収が一生保障されます。こういう一群の人々をアメリカでは「プロフェッショナル層」と言い、金持ち階級の一つになっています。努力して勉強し国家資格試験に合格すれば良いのです。

そして本当の金持ちはいろいろな分野で起業し、成功し、経営者になることです。

このような社会はまさしくアメリカ型の社会です。

このように自由競争が強い文化では、外国との競争も自由に考えます。弱肉強食の思想が強くなって行く傾向になります。当然、軍備強化も重要になります。

貧困層が増加すると社会が右傾化すると言われています。あまり根拠の無い話ですが、日本の若い人々ほど右傾化している最近の情勢に符合しています。

日本にかつてあった縦社会が完全崩壊してアメリカ型社会になるのです。

それが日本の若者たちの選択なのです。高齢者は心配しながら見守っているだけです。若者は以前のように先輩の説教など聞かなくなってしまったのです。

これが日本の運命なのです。しかし戦争だけは起きないように祈っています。

今日の挿絵代わりの写真は若かった私どもが貧しい生活をしたオハイオ州の思い出の風景写真です。高層ビルは質素な結婚披露宴をした建物で、次の写真はオハイオ・キャバーンとは鍾乳洞の入口の写真です。三枚目の写真はその鍾乳洞の内部です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)

 

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韓国で大歓迎を受けているフランシスコ教皇

2014年08月17日 | 日記・エッセイ・コラム

毎週、日曜日の朝は宗教関連の記事を書いてからカトリックのミサに行きます。

広く宗教に関する記事なので仏教のことやキリスト教のこと、そして神道や道教のことなどについて書きます。

そうするとその後で出席するミサが一段と味わい深くなります。

さて今朝は8月14日から18日まで韓国を訪問しているフランシスコ教皇が大歓迎を受けている様子を示します。

韓国は人口が5000万人でその2割がプロテスタン信者で、カトリック信者は約1割の544万人です。日本は約3%がキリスト教信者で、0.3%がカトリックの信者です。それはさておき、下の写真をご覧下さい。

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この写真の法王の後ろに写っている人々の表情をご覧下さい。皆が楽しげに歓迎しています。フランシスコさんの嬉しそうな笑顔をご覧ください。

大型客船沈没の遺族に会い慰めました。そのときある遺族が遺品を法王に手渡したそうです。すると彼はそれを随員に渡さないでポケットにしまいこんだのです。その人間らしさに韓国人が感動しています。

下の写真はソウルで行わられた 124人の殉教者の列福式に集まった大群衆の写真です。

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100万人が集まったそうです。しかし群衆は整然としています。

下は124人の殉教者を福者に列すると宣言する儀式を司っているフランシスコ教皇の様子です。

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そして下の写真はフランシスコ教皇のパレードの様子です。白い車の上で手を上げているのがフランシスコさんです。

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韓国人が整然と礼儀正しく歓迎している様子です。

写真の出典は、http://blog.livedoor.jp/kiriritto/archives/1007749538.htmlです。

日本のマスコミは韓国のニュースとなると従軍慰安婦関連のことばかりです。

もっと、もっと広い視野で韓国人の喜びや悲しみをニュースとして報じるべきではないでしょうか。彼らは我々と同じような普通の人間なのです。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)

===参考資料===================

(1)今日の写真に付いていた記事:http://blog.livedoor.jp/kiriritto/archives/1007749538.html

フランシスコ法王がソウル・光化門広場で、尹持忠(ユン・ジチュン)パウロなど殉教者124位の 列福ミサを執典した。フランチスコ法王を見るために、ソウル・光化門には百万人近い市民が集まった。
警察は今日の列福式が執行される光化門広場一帯に、招待された天主教の信者17万人を含む、 最大百万人が殺到したと集計した。光化門にこのように多くの人が集まったのは、2002年ワールドカップの50万人が集まった以降は初めてだ。
人波によって周辺が多少混雑したが、大きな騒乱や摩擦もなく、比較的秩序が守られた。
電光掲示板に法王の姿が見えると、信者の大部分が立ち上がって両手を挙げて法王を
歓待する様子が目についた。また子供たちを撫でて祝福したり、セウォル号の遺族に会う時は歓呼の声が溢れた。 フランシスコ法王は殉教者124位の列福ミサで、今日はすべての韓国人にとって大きな喜びの日とし、殉教者の遺志は平和と人間の価値を守るだろうと強調した。
列福宣言が終わると同時に、参席者の歓呼とともに124位が描かれた大型の垂れ幕が
公開された。
福者宣言はカトリック教会が、この殉教者らを尊敬の対象として公式宣言するもので、 法王が殉教の地で直接施福ミサを挙行するのは、非常にまれなことだ。

ミサを含む列福式の行事は少し前の12時20分頃に全て終わった。照りつける陽射しにもかかわらず、ミサの最初から最後まで人々は両手を合わせて、殉教者の列福と法王の訪韓に感謝してミサに参加した。
一方、フランシスコ法王は今日の列福式に先立ち、セウォル号沈没事故の遺族に会って慰めた。法王は遺族が渡した手紙を、異例にも随行員に渡さないでポケットに入れて注目を集めた。

(2)韓国のキリスト教の趨勢:

韓国のキリスト教(かんこくのキリストきょう)は大韓民国におけるキリスト教の歴史と現状について述べる。2005年統計庁の発表によると人口の約3割がキリスト教徒で、キリスト教が最大勢力の宗教である。内訳は、プロテスタントの信者が2に対して、カトリック信者が1になっている。・・・・・中略・・・・

1937年の盧溝橋事件以降皇国臣民ノ誓詞が発せられ、総督府は公然とキリスト教会への神社参拝を強要した。この同化政策のためにとった参拝強要はキリスト教にとっては偶像崇拝の強要にあたり、朝鮮の長老派の一部の篤実な信徒は神社参拝を拒んでいたため、1938年6月末、日本政府は同じ長老派系統の日本基督教会大会議長富田満を派遣し、朱基徹牧師ら朝鮮の長老派を説得させた。・・・・・中略・・・・

プロテスタントは諸教派に分かれるので、単一の宗派としては信者数476万人(2006年)のカトリックが最大で、組織的にも最も強固なものがある。韓国のカトリック教会は枢機卿2人、大司教(朝鮮語は大主教)5人、司教(朝鮮語では主教)28人、神父3,719人を擁し、ソウル大司教区(春川、大田、仁川、水原、原州、議政府の司教区が所属)、大邱大司教区(釜山、清州、馬山、安東の各司教区が所属)、光州大司教区(全州、済州の各司教区が所属)に分かれる。最大の教区はソウルで信者数140万人、次に水原62万人である。北朝鮮にも沈黙の教会と称する秘密組織が平壌、咸興などにあるとされる。詳しくは、http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9F%93%E5%9B%BD%E3%81%AE%E3%82%AD%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%88%E6%95%99をご覧下さい。