私は年金生活をしています。貯金も少しずつ使って生活をしています。
妻と2人暮らしで老境を比較的に平穏に暮らしています。
ところが最近、何故か次第、次第に生活が貧しくなってきました。貯金が減る以上の早さで貧しくなってきたような感じがするのです。
どうも日本全体がしだいしだいに貧しくなってきたような感じがします。しかしその一方でGDPは伸び、景気が良くなってきたと安倍総理が自慢しています。
不思議です。
そこで何時ものように少し調べてみました。そうしたら明快な答えを得ました。
日本のGDPは成長していますが、貧困層が急に増え続けているのです。その上、老人や母と子供だけのような弱者がすごい勢いで貧しくなってるのです。
ようするに日本がアメリカ型の格差社会になりつつあるのです。
下の2枚の図面を丁寧にご覧下さい。
上の図面は年間給与が300万円以下の貧困層(家族数にもよるが)が間違い無く急速に増えていることを示しています。
図面の出典は、http://it.2chblog.jp/archives/1005608997.html です。
上の図から分かることは、日本の相対的貧困率は先進国OECD中で第4位で、実質はアメリカの次ぐらいということです。
この傾向は、小泉内閣の規制緩和が、弱者に集中した結果であると言われています。この図面の出典は、http://blogs.yahoo.co.jp/yuuta24mikiko/34880346.html?from=relatedCatです。
(相対的貧困率の計算方法は、世帯収入 から子どもを含む国民 一人ひとりの所得を仮に計算し、順番に並べたとき、真ん中の人の額(中央値)の半分(貧困線)に満たない人の割合。子どもの貧困率 は、18歳未満でこの貧困線に届かない人の割合を指す。今回の調査では中央値は244万円、貧困線は122万円。( 2014-07-16 朝日新聞 朝刊 1総合 ) )
上の図面を見て、成程、老人の私の暮らしむきが最近貧しく感じる理由が分かりました。
働いていないで遊んでいる私が次第に貧しくなるのは当然なことで別に不満はありません。貧しいながら健康過ぎるような妻とともに毎日楽しく暮らしています。
しかし大変気になることがあります。
それは昨年の東京都知事選挙で右翼と言われている田母神しが65万票を獲得したのですが、投票者の若い年齢層の投票が多かったのです。以下に年齢別の投票者の%を示す表を掲載します。
この表の出典は、http://bylines.news.yahoo.co.jp/furuyatsunehira/20140211-00032569/です。
何を言いたいかというと、若者の貧困が進行すると右傾化がますます進むということです。そして日本の社会がアメリカのような残酷な格差社会になるということです。
「貧困」、「右傾化」、 「縦社会の完全崩壊によるアメリカ型社会の成立」。この三つの相互作用については別の記事で書きたいと思います。
毎日、暑いので今年の2月15日の大雪の後の小生の山小屋への道の写真を示します。涼しい気分になって頂けたら嬉しく思います。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)
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今朝、2人の孫を連れた息子一家が大島から羽田空港へ帰ってくるので車で迎えに行きました。家から羽田空港までは車で1時間10分くらいです。
そうしたら大島空港の上に厚い雲があり迎えの大型旅客機が着陸できないので欠航だというのです。
朝に家を出る前に電話して欠航を確認すべきでした。羽田空港までの往復2時間余のドライブが全く無駄になりました。
携帯電話で大島に居る嫁に連絡しましたところ、小型プロペラ機は離着陸可能で調布飛行場に帰ると言います。
孫二人と息子は先発して11時ころ調布空港に着くというので、急いで羽田空港を出発して、自宅のそばの調布飛行場にとんぼ返りです。
しかしここでも愚かな私はミスをしてしまいました。激しく渋滞している中央高速に車を入れてしまったのです。11時半頃にやっと調布飛行場に着きましたが、孫達はすでにタクシーで帰ってしまった後でした。
仕方が無いので一旦自宅に帰り、ソーメンで昼食を済ませました。そしてまた車を運転して調布飛行場に1時25分着の嫁を迎えに行きました。
今度は時間通り飛行機が着陸して嫁を車に乗せることが出来ました。
とても行き違いの多い一日でした。車を動かす前に電話で確認しなかった私が愚かだったのです。人生とはこのようなものなのだと平穏な気持ちで今日も過ぎて行きます。
一番目の写真の右側が羽田第二ターミナルビルで左側はP3駐車場です。
二番目の写真は調布飛行場のターミナルビルの2階の展望室から見下ろした調布飛行場の風景です。写真に写っている飛行機が三宅島、神津島、大島などの伊豆七島への旅客機です。
三番目の写真は大島から飛んで来た旅客機です。
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昨日、国立新美術館でオルセー美術館展を見ているとき、老妻が人混みを分けて私のところへ来ました。そしてカイユボットの「鉋をかける人々」をよく見て下さいと言います。その絵は昨日の記事の、今日見た油彩画 の中に掲載してあります。
この絵画は強い印象を与えます。描いている画家の筆使いの勢いを感じます。一気に描き上げたように見えますが、細部まで丁寧に仕上げてあります。
すっかり魅了されましたが、私はカイユボットなどいう名前は知りません。老妻に聞くのも口惜しいので帰宅後いろいろ調べてみました。
そうしたら彼は金持ちなので、モネ、ルノワール、ピサロ、シスレー、ドガ、セザンヌらの作品を買い、彼等を経済的に支援したのです。そしてその作品群をフランス政府へ寄贈したので、今日のオルセー美術館に数多くの印象派の作品があるのです。
ギュスターヴ・カイユボットは(Gustave Caillebotte)は1848年にパリで生まれ、 1894年に46歳で病没しました、
彼は数多くの印象派の絵画を買い上げながら自分でも油絵を描きながら、パリ郊外で菜園を作ったりボート遊びをしていました。ヨットの製作も趣味でした。
一生独身で静かな短い生涯でした。
死んでから50年以上も経ってから遺族が彼を作品を市場に出し始め世に知られるようになったのです。そして1960年代から1970年代に彼の作品が高く評価されるようになったのです。
日本で彼の回顧展が開かれたのは実に2013年になってからです。
彼はそんなに有名ではありませんが、彼の作品が好きなので下にその写真をお送り致します。なお彼の作品はパリにもありますが、多くはアメリカの各地の美術館が展示しています。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)
屋根の上の雪(1878)
ヨーロッパ橋(1876)
パリの通り、雨(1877)
昼餉(1876)
田舎の肖像(1876)
====参考資料=================
(1)彼の生涯:
富裕な衣料製造業者の子としてパリに生まれた。
1857年、9歳の時にルイ=ル=グラン高等中学に入り、1870年には法律学校を卒業して法律免許を得た。その頃からレオン・ボナの画塾に通い、1873年、パリ国立美術学校に入学したが、あまり登校しなかった。1874年、ドガ、モネ、ルノワールらを知った。1875年の官展に『床削りの人々』を持ち込んだが、「粗野」を理由に拒否された。
1878年(30歳)、分割相続した家産により画業に専念し、モネ、ルノワール、ピサロ、シスレー、ドガ、セザンヌらの作品を買うなどして、画家たちを経済的に助けたた。・・・・中省略・・・・
ピサロ、モネ、ルノワール、シスレー、ドガ、セザンヌ、マネの、計68点を、フランス政府に遺贈する気でいたが、当時印象派絵画はまだ『日陰者』で、ルノワールの2年間の折衝ののち、政府は漸く38点を受け入れた。現在はオルセー美術館へ移管されている。以下省略。続きは、http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AE%E3%83%A5%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%B4%E3%83%BB%E3%82%AB%E3%82%A4%E3%83%A6%E3%83%9C%E3%83%83%E3%83%88 をご覧下さい。
(2)何故、日本で彼は有名で無かったか?(2013年に初めて日本で回顧展)
何故彼は印象派の中で印象が強くないのか?その理由はふたつある。
ひとつは彼が印象派と分類される画家の中では、伝統的な絵画描法により依拠しているから。彼の絵画は明らかに「線」の絵画である。筆触が粗い作品であっても、大抵はほどよい角度がつけられた(一点)透視図法が使用されており、それが画面に奥行きと立体感を、つまり古典主義的な写実性を生み出している。・・・中略・・・・
二つ目の理由は裕福層に属していた彼は好事家(virtuoso)であったから。裕福であったために作品数が少ないこと、および市場に長い間流通しなかったこと、当時より印象派展の運営により積極的に関与していたこと、彼が蒐集した印象派作品の国家への寄贈などなど。画家としての業績が忘れられがちであったらしい。・・・以下は、http://btn1111.hatenablog.com/entry/2013/12/01/033644 にあります。
(3)カルボットの油彩画の再評価:
印象主義時代を語る上で欠かせない同派を代表する画家。観る者に現代性を強く喚起させる独特の自然主義的作品を制作。カイユボットは収集家としての知名度の方が高かったものの、近年(1960~70年代)の再評価によって画家として正当な扱いを受けるようになった。また「ブルジョワ的」とも呼ばれた古典的な表現手法とその印象も特筆すべき点である。画題としては労働、家族、生活など近代的な都市生活的画題の作品が傑出しているが、後年に手がけた風景画なども高い評価を受けている。・・・・以下、http://www.salvastyle.com/menu_impressionism/caillebotte.html に続く。
もっと虚心坦懐に、そして冷静に開戦の時の御前会議の議事録など<wbr></wbr>を読み返すべきです。
その議事録にはアジアの解放戦争なんて一切書いてありません。
昨日のFace Bookで、会員の横川 和門さんが侵略戦争だったことを明快に説明して下さいました。
====横川 和門 さんから頂いたコメント===========
客観的に淡々と判断すれば、太平洋戦争は日本による侵略から始ま<wbr></wbr>りアメリカによって敗けた戦争ですね。
あの戦争がアジア解放の為の戦争ではなかった事は既にあらゆる面<wbr></wbr>から証明されています。...
天皇の名前で出した開戦の詔勅にもアジア解放のアの字も出てきま<wbr></wbr>せん。
当時の日本の国策は、アジアから西欧列強を追い出して日本が新し<wbr></wbr>い支配者になる事でした。
当時の政府の文書にはっきりと書いてあります。
昭和15年7月の四相(首相、外相、陸相、海相)会議で決めた政<wbr></wbr>策大綱に「英、仏、オランダ、ポルトガル植民地を東亜新秩序の内<wbr></wbr>容に包含せしむる為の積極的処理」とあります。
東亜新秩序とは日本を支配者としたアジア、積極的処理とは武力に<wbr></wbr>よる侵略です。
そして更に「八紘一宇の皇道に基づき、帝国補導のもとに」「軍事<wbr></wbr>、外交、経済等の全般にわたり、帝国の強力なる把握下に置かるべ<wbr></wbr>き」などと、アジア諸国を日本の植民地、傀儡国にして、それまで<wbr></wbr>貿易で手に入れていた石油などの重要資源を武力で奪うとあります<wbr></wbr>ね。
アジア諸国は戦後独立を果たしましたが、日本が勝っていたら日本<wbr></wbr>の植民地、属国になっていた可能性は否定できません。
日本が負けたお陰で独立出来たのです。
日本のアジア支配の為に邪魔になる米英を叩いておこう、と始めた<wbr></wbr>のが太平洋戦争でした。
天皇を中心とする御前会議の決定が文書として残っています。
そして日本が南方を侵略している時にアメリカ太平洋艦隊が横から<wbr></wbr>出てきて邪魔しないようにとあります。それゆえに、こちらから出<wbr></wbr>掛けていって米太平洋艦隊を叩きつぶしたのがあの真珠湾攻撃でし<wbr></wbr>た。
もしアジア解放が目的だったら、先ず日本自身が台湾、満州、海南<wbr></wbr>島を中国に返し、朝鮮を再独立させ、中国・仏印から撤兵しないと<wbr></wbr>いけません。
開戦後、日本軍が占領したところでは初めは解放者として迎えられ<wbr></wbr>たケースもありましたが、日本軍は拙劣で暴力的な支配を行い、現<wbr></wbr>地経済を崩壊させ、物資を収奪し、反抗するものは拷問、虐殺、、<wbr></wbr>、フィリピンやインドネシアでは日本の兵隊に会ったらお辞儀しろ<wbr></wbr>という命令まで出しています。
フィリピンでは日本占領3年の間に物価が100倍に高騰、元々貧<wbr></wbr>しかった住民は益々困窮しました。
比較的うまくいったと言われるビルマですら、日本の利権漁りの余<wbr></wbr>りのひどさにビルマ方面担当の第十五軍司令官・鈴木祥二郎中将は<wbr></wbr>「これでは大東亜共栄圏も聖戦もあったものではない」と書いてい<wbr></wbr>ます。
また、シンガポールを占領した山下奉文司令官は天皇誕生日に現地<wbr></wbr>住民に訓示した、「このたび新たに大日本帝国の臣民となったマレ<wbr></wbr>ー住民と共に聖寿をことほぎ奉り得る事は本職の衷心より欣快とす<wbr></wbr>るところである。マレー、スマトラの民衆はよろしく光輝ある帝国<wbr></wbr>の新しい民である光栄に感激し、帝国の尊厳なる国体を意識してそ<wbr></wbr>れぞれその生業に励むべし」まぁ、征服者意識丸出しですね。
そして「独立」と言っても実情は日本の武力を背景にした傀儡政権<wbr></wbr>でした。それが証拠に、昭和18年11月に東條が東京で行った大<wbr></wbr>東亜会議に参加した政権はすべて日本の敗戦と同時にあっと言うま<wbr></wbr>に消えてしまった。元々民衆の支持のない薄っぺらいものでした。<wbr></wbr>大東亜会議に招請された「国」は以下の通り。
中華民国(南京)国民政府:汪兆銘行政院長
日本軍がでっち上げた傀儡政権。日本敗戦の翌日に消滅。日本はこ<wbr></wbr>んな事をやって蒋介石の国民政府を弱体化し、結果的に毛沢東の共<wbr></wbr>産軍を助けて中国の共産化に寄与してしまった。
満州国:張景恵国務総理大臣
言わずと知れた関東軍の傀儡政権。日本敗戦と同時に消滅。張景恵<wbr></wbr>は戦後中国で国賊として獄中で死亡。皇帝の溥儀は投獄。
フィリピン共和国:ホセ・ラウレル大統領
日本が作ったフィリピン第二共和国の大統領。日本敗戦の二日後解<wbr></wbr>散。日本へ逃げていたラウレルは帰国後、国賊として逮捕。
ビルマ国:バー・モウ内閣総理大臣
日本軍がでっち上げたビルマ国は日本降伏とともに消滅。バー・モ<wbr></wbr>ウは日本に逃げていたが帰国後国賊として逮捕。
タイ王国:ワンワイタヤーコーン親王
大東亜会議には元首を送らずにこの王子を送ってごまかした。
タイ政府は日本軍に脅かされて日タイ攻守同盟を結び連合国に宣戦<wbr></wbr>布告。同時に裏で連合国と手を結んだ。この二重外交のお陰で戦後<wbr></wbr>の訴追を免れた。
自由インド仮政府首班のチャンドラ・ボース
この政府は戦後たちまち消滅。
シンガポールやインドネシア、マレーは占領して二年近くになるの<wbr></wbr>に形だけすら独立させていませんでした。
という事で、戦後アジア諸国が独立を果たしたのは「日本のお陰」<wbr></wbr>ではなくて「日本が負けたお陰」でした。
日本が勝っていれば日本の属国、傀儡国、植民地になっていました<wbr></wbr>。それが当時の日本の国策だったのです
フィリピンについては元々、アメリカが独立させる予定でしたし、<wbr></wbr>日本の独立承認ってのは意味が薄いです。
米軍が迫るとマニラ蜂起で日本に犯行してる程です。
日本が形の上でインドネシアを独立させる方向になったのは戦争が<wbr></wbr>敗戦方向で米軍の飛び石戦術もあり、インドネシア住民のご機嫌取<wbr></wbr>りをせざるを得なかったからです。
以上、長文失礼しました^w^
マネ、モネ、セザンヌ、ピサロ、ミレー、ドガ、ルノワール、ホイッスラー、カイユボット、バジールなどなどの印象派の油彩画がゆったりと展示されていました。
それぞれの画家の出来の良い作品を選んで持って来たオルセー美術館の学芸員の見識に頭が下がりました。失敗作が混じっていないのです。
特にマネの笛を吹く少年の画は何度見ても何故か感動します。
それにモネのサン・ラザール駅の風景画の前にはつい立ち尽くしてしまいました。40年以上前にパリで初めて見たときの感動を思い出します。
それにマネの「ロシュフォールの逃亡」は感動です。沖の波の上の船に、逃亡者が数人乗っているだけの絵です。波の色合いが柔らかで美しいのです。そして美しいだけでなく、立ち騒ぐ波が船を揺らし、逃亡者の不安な気持ちが私にも伝って来るのです。
この展覧会は10月20日(月)まで開催されています。絵画のお好きな方々にとっては必見の展覧会です。但し、かなり混みますから週末や祝日は避けた方が良いと思います。
なお美術館の専用駐車場はありません。100m位離れた「ミッドタウン」の広い有料駐車場場が便利です。10分100円でした。
下にオルセー美術館展のポスターと国立新美術館の写真を示します。
私は自分の個人的な経験から韓国人を尊敬しています。
韓国人を尊敬していると書けば国賊と非難されそうな昨今の社会の空気ですが、まあ怒らずに静かにお読みください。
日韓友好のための一助になれば幸いです。
それは韓国浦項製鉄所の技術研究所の所長をしていた金鉄佑さんのことです。
私を韓国へ招待してくれた人でした。昨年亡くなってしまった忘れ得ぬ人です。
話の発端は1962年から1966年の昔のことです。
当時、東京大学工学部付属研究所に「生産技術研究所」がありました。
その研究所の雀部高雄教授の研究室に金鉄佑さんが所属していました。
金さんは、その時代の韓国の政府の政策に反対する政治運動もしていたらしく、日本の警察に逮捕され拘置所に長く拘留されていたのです。
人徳豊かな雀部高雄教授はその弟子の金さんの釈放を求める署名運動をしていました。弱きを助ける雀部教授を尊敬していた私は進んで署名しました。
署名はしましたが長く釈放されなかったので、私は金鉄佑さんと一度も会ったことがなく20年近い月日が流れました。
そして1984年頃、突然、金さんから封書が届きました。知らなかったのですが彼はその後韓国に帰り、浦項製鉄所の技術研究所の所長になっていたのです。
そして私を韓国の金属学会の大会で講演するようにと準備万端整えて招待してくれたのです。
我々夫婦を招待して慶州のお寺や古墳群や、そして釜山や大丘やソウルの観光案内もしてくれました。案内してくれたのは韓さんという技師さんでした。
浦項製鉄所では立派なゲストハウスに泊めてくれたのです。
私は始めて韓国を訪問したのでしたが、人々の親切さに感銘を受けたのです。
金鉄佑さんとは初めて会いましたが、旧知の仲のように雀部高雄教授の思い出話をしました。雀部教授はその当時には既に亡くなっていたのです。
そして雀部教授から受けた恩を縷々話していたのです。
韓国は儒教の国で、人々は恩義を絶対に忘れないのです。
それ以来、私は韓国人を尊敬しています。
「金鉄佑」のことは、(http://www.47news.jp/CN/201312/CN2013120701002333.html)に出ています。
上のような体験をし、帰国後、私は安重根に関して日本語で出版された本を買って、読みました。
彼はトマスという洗礼名を持ったカトリック教徒だったのに、初代朝鮮総督の伊藤博文を暗殺した男です。
伊藤博文を満州のハルビン駅頭で射殺したのです。
それは朝鮮併合が起きる前年の1909年10月26日のことでした。
トマス安重根はロシア蔵相ウラジミール・ココツエフと伊藤博文の会談を警護していたロシア兵に捕まり、2日後に日本側へ引き渡され、満州の旅順の刑務所で1910年、3月26日に処刑されたのです。
それから5カ月後の1910年8月22日に朝鮮併合が完成し、大韓帝国が消滅したのです。
カトリックにとって暗殺は大罪です。
当時の大韓帝国のカトリック司教団から神父たちがトマス安重根との接見を禁じたのです。
しかし安重根に洗礼を授けたフランス人司祭のジョゼフ・ウイレム神父は刑務所にいる安重根を訪ね、処刑の前にイエス様の肉体の象徴としてのパンを与えたのです。
旅順刑務所で看守をしていた日本人の千葉十七は、トマス安重根と何度か話をしているうちに安重根の考えに共感を覚えます。そして安重根は処刑前に墨で書いた見事な文章を千葉看守へ贈っています。その時、彼が千葉へ、「東洋に平和が訪れ、日韓の友好がよみがえったとき、生まれ変わってまたお会いしたいものです」と語ったそうです。
千葉は終生、安重根の供養を欠かさなかったのです。千葉十七とその妻の墓は宮城県栗原市(旧若柳町)の大林寺にあり、そこには1981年に安重根の顕彰碑が建てられたそうです。
また旅順刑務所長、栗原貞吉も安重根へ好意を示しました。煙草などを差し入れ、裁判長に直接会って安重根の助命嘆願をしました。
しかし処刑は目前になります。栗原貞吉所長は安重根へ処刑の時着る絹の白装束を与えたのです。死刑執行後、栗原は安重根の死を悔やんで郷里の広島へ帰ってしまったのです。
現在の韓国ではトマス安重根は抗日闘争の英雄とされ、国民的英雄として非常に有名です。ソウル市には「安重根義士記念館」が1970年に建設されています。
心ある日本人がもし日韓友好を考えるなら、現在の韓国人がトマス安重根をどのように評価しているいかを理解することも重要と信じています。
これだけの話です。日韓友好の一助になるようにと祈っています。
下に韓国の国花のムクゲの花の写真をお送り致します。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平穏をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
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上は高さ1~2mにもなるアザミで、頭花の枝が長く高くつき上がることら「高薊」と名付けられました。
本種は北方系のアザミで、東北地方から北方の湿り気のある草原に生育します。
盛夏を過ぎた頃、枝端に数多くのうつむいた頭花を付けます。背丈も高く、花の数も多く、一本生育しているだけでも存在感のある植物です。
生育地:湿った草原、原野 背 丈:1~2m 花 期:8~9月
総ての写真の出典は、「北の大地図鑑」 http://blogs.yahoo.co.jp/kouyu_kikaku1116 です。
上はノビルです。 野原や道端などに普通に生育するため、野原に生える蒜と言う意味で、「野蒜」度名付けられました。蒜は、ネギ、ニンニク類の総称です。
直径1.5㎝位の鱗茎を持ち、2~4枚の葉が出ます。葉は線形で、長さ20~30㎝、幅2~3㎜、中空で断面は三日月形をしています。
初夏の頃、40~60㎝ほどの花茎を伸ばして、その頂に疎らに白い花を付けますが、初めは総苞に被われていてくちばし状をしています。花のうち、一部、または、全部が珠芽(むかご)に変わるものがあります。
鱗茎や若い葉は食用になります。
生育地:道端、野原など 背 丈:40~60㎝ 花 期:5~6月
上はリシリオウギ(マメ科):
茎の下部が地表を這い、斜上します。
葉は奇数羽状複葉で小葉は7~13枚あり、裏には軟毛が密生しています。
花は葉腋から出る花序に5~10個つき、長さ1.5㎝ほどの蝶形花です。がく歯は狭い三角形で先が尖り、黒褐色の毛が多い。
果実の莢は少し膨らんだ7袋状でこれにも黒褐色の毛が多い。
利尻黄耆で、発見地に因んだ命名だと思われるが、利尻山のほか大雪山、本州中部地方にも分布します。
イワオウギやタイツリオウギに酷似しますが、果実の形が全然異なること、タイツリオウギより小葉の数が少なく(タイツリは小葉は13~23枚)、イワオウギよりも花の数が少ない(イワオウギは10~30個)ことなどの違いがあります。
生育地:高山の礫地や砂地など
背 丈:15~30㎝ 花 期:7~8月
危険な空気が流れているのです。
夜な夜な日本に「戦争」という妖怪が徘徊しはじめているのです。
軍備強化して韓国や中国に馬鹿にされないようにしようという空気が流れています。
韓国や中国を憎悪して、戦争も辞さないという空気が流れています。
この空気は非常に危険です。悪魔の誘惑です。
そしてその空気を察した国会議員たちも、選挙で当選するために旗を振って煽り立てています。
国会の過半数の議席を有する自民党は露骨にも憲法を全面的に改正し、再び富国強兵の道を歩もうとしています。
この時期に日本の国民が団結して行なった昭和の戦争をもう一度、思い出しましょう。
日本が再び誤った歴史を繰り返すことの無いように以下の記事をお送りしたいと思います。
特に戦争を知らない若い年代の日本人に是非読んで頂きたいと思います。
第二次大戦にいたる日本は支那事変を起こし、満州事変を始め、満州帝国をつくりあげたのです。満州国を独立させたのでアメリカやイギリスが本気で怒り出したのです。
この一連のことを多くの国民は歓声を上げて喜んだのです。
しかし戦後のになると、すべての戦争は軍人の勝手な行動だったと言います。
ですから悪いのは軍人です。一般の日本人は戦争に一切責任がありません。
こんな主張が戦後の社会に横行していました。学校教育でも私達はそのように教わりました。
しかしよく考えてみると、それは全く間違った主張です。全く間違った理解です。
昭和の日本社会の空気は戦争推進でした。戦勝に酔いしれていました。ですから国民全員に戦争の責任があったのです。 少年だった私も真珠湾攻撃を喜びました。
真珠湾攻撃で全国民は狂喜したのです。その事を忘れてはいけません。
天才的な画家の藤田嗣治さえ戦意高揚の絵画を沢山描いたのです。アッツ島玉砕の自分の絵の前に軍服姿で立って、その絵を見に来た人々へ会釈をし、浄財を集めたそうです。
軍部の独走以上に戦争を推進した政治家は近衛文磨首相と松岡洋右外相と思います。
戦後、日本人は東條首相だけを悪く言い、自殺した近衛文磨と東京裁判中に病死した松岡洋右のことを許したのでしょうか。松岡洋右は1932年2月に国際連盟から日本だけが脱退する名演説をしたのです。
満州の皇帝に清朝の最後の皇帝だった溥儀を即位させ、満州帝国を独立国にしようとしていたのは近衛文磨です。
そして満州国の成立によって国民も歓喜したのです。
これで米英が本気で怒りだしたのです。満州帝国の独立こそがあの悲惨な太平洋戦争の出発点だったのです。
それから急速に日米開戦への坂道を転がり始めたのです。社会の空気が戦争への道へ繋がったのです。
そして真珠湾攻撃です。国民が喜びました。
しかしその後は、激戦から玉砕につぐ玉砕、そして特攻隊の犠牲、日本中の戦災と沖縄戦、原爆投下、ソ連軍の満州蹂躙と未曾有の惨劇を体験したのです。
最近、戦争も辞さないという狂気が日本社会に流れ出したのです。それは非常に危険な空気なのです。
日本が誤った歴史を再び繰り返すことの無いように十分過ぎる用心をするべきです。
下に日独伊三国同盟を喜ぶ童画と近衛文磨と松岡洋右の写真を示します。
上の童画の上端の真ん中が近衛首相の写真でヒットッラーとムッソリーニに囲まれています。下の写真の左が近衛首相で右が松岡外務大臣です。
そして下には満州帝国の首都だった新京(現在の長春)の立派な中央通りです。
下がハルピンの日本百貨店の写真です。
======参考資料===================
近衛文磨 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%A1%9B%E6%96%87%E9%BA%BF
松岡洋右 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%B2%A1%E6%B4%8B%E5%8F%B3
満州国 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%80%E5%B7%9E%E5%9B%BD
アメリカのGDPは世界一です。軍備も世界一です。アメリカと戦争をして勝てる国は世界中にありません。
しかしその社会の内部をみるとひどい格差社会なのです。そのような社会を作れば人々が努力するようになります。結果として経済成長が続き、強大な軍備を支えることが出来るのです。
日本は小泉首相の頃からこのアメリカ型の社会を目指して雇用の終身雇用を止める方向に舵を切ったのです。非正規社員の拡大と転職の薦めを行ったのです。
この政策はアメリカ型社会を作ろうとするものです。
それではアメリカの格差社会の実態を見てみましょう。
それはレーガン政権の80年以降に始まりました。
アメリカの所得分布が大きく方向を転換し、所得格差が猛烈な勢いで拡大したのです。
この原因は「格差と貧困」:http://ww4.tiki.ne.jp/~enkoji/kakusa.html という論文に明快に説明してあります。そこでその説明文を以下に転載いたします。
===============================
なぜ格差は広がったのでしょうか。小林由美『超・格差社会 アメリカの真実』によるとその原因は、金持ちが損になるような政策はしないからです。
「富の集中は、アメリカの税政策や金融政策に深長な意味を持っている。なぜなら、民主国家の政策を決めるのは選挙に当選した大統領や議員であり、選挙で勝つための最大の武器は選挙資金だからだ」
「候補者の目がどこに向くかは言うまでもない」
そこで、「ワーキング・クラスからの徴税を大幅に増やして、投資収入で生きるトップクラスの税負担を減らす。それが、グリーンスパンがレーガンのために考案した〝減税策〟だったのである」
働いてお金を手に入れるよりも、株の売買などのほうが多くの収入を得ることができるという仕組みです。アメリカでは株主への配当が最優先され、会社の利益や長期的展望、社員の福利を考えないそうです。小泉改革も結局のところは同じです。
その結果、アメリカは「特権階級」「プロフェッショナル階級」「貧困層」「落ちこぼれ」という4つの階層に分かれ、「特権階級」「プロフェッショナル階級」の上位二階層を合わせた500万世帯前後、総世帯の5%未満に、全米の60%の富が集中しており、トップ20%が84.4%の富を握っているそうです。そして、経済的に安心して暮らしていけるのは、この5%の金持ちだけだとのことです。
アメリカ国民の60~70%を占めるといわれる中産階級は「プロフェッショナル階級」と「貧困層」に二分化しています。
アメリカ社会の最下層にいる「落ちこぼれ」は、貧困ライン(4人家族で年間所得約280万円)に満たない世帯や、スラムの黒人やヒスパニック、保留区のネイティブ・アメリカン、難民や違法移民の大半で、人口の25~30%前後を占めています。
貯金が全くない世帯は25%。人口の15.7%、4500万人は医療保険が全くなく、18~64歳に限ると、19%は医療保険がありません。・・・・以下省略
以上の文章によるとアメリカ社会は「特権階級」「プロフェッショナル階級」「貧困層」「落ちこぼれ」という4つの階層に分かれといるそうです。
そして特権階級」「プロフェッショナル階級」の上位二階層を合わせた500万世帯前後、総世帯の5%未満に、全米の60%の富が集中しており、トップ20%が84.4%の富を握っているそうです。
さて日本はここまでは酷い格差社会にはまだなっていませんが、近い将来このようになることはほぼ確実なのです。
前回の記事の、日本の貧しい人々(1)急速に増え続けている貧困層 をご覧下さい。下の図面のように日本では現在、貧困層が急速に増大しているのです。
この日本の貧困層はどのような生活をしているのでしょうか?
その分析は次回の連載記事でする予定ですが、以下に「格差と貧困」4http://ww4.tiki.ne.jp/~enkoji/kakusa.html からアメリカの貧困層の生活の実態の部分をご紹介いたします。
・・・・アメリカ社会の最下層にいる「落ちこぼれ」は、貧困ライン(4人家族で年間所得約280万円)に満たない世帯や、スラムの黒人やヒスパニック、保留区のネイティブ・アメリカン、難民や違法移民の大半で、人口の25~30%前後を占めています。
貯金が全くない世帯は25%。人口の15.7%、4500万人は医療保険が全くなく、18~64歳に限ると、19%は医療保険がありません。
「彼らは必要な医療も受けられない。病状が悪化してどうにもならず、止むを得ず病院へ行けば、返済できないほどの多額の借金を抱え込むことになる」
では「落ちこぼれ」はどういう生活をしているのでしょうか。
バーバラ・エーレンライク『ニッケル・アンド・ダイムド』は、時給6ドルや7ドルで働く女性たち(約400万人)はいったいどうやって生活しているのかと考えた著者が、現場に飛び込んで身をもって体験した体験記です。エーレンライクは、1998~2000年にかけてウェイトレス、掃除婦と老人介護、ウォルマートの店員をしました。
一番の問題は住居らしく、ワンベッドルームのアパートを借りるためには全国平均で時給8ドル89セントが必要。にもかかわらず、全労働人口のほぼ30%が時給8ドル以下で働いているそうです。
では、どういうところに寝泊まりしているのか。ウエイトレスの同僚たちは、
・ボーイフレンドと週170ドルのトレーラーハウス
・週250ドルの簡易宿泊所にルームメイトと
・夫と1泊60ドルのモーテル
・ショッピングセンターにヴァンを駐車
といった具合です。アパートを借りるために必要な1ヵ月分の家賃と敷金を払う貯えが彼らにはないのです。
一つの仕事だけではやっていけないので、別の仕事をせざるを得ません。当然、身体にはこたえます。
「単純労働など楽勝だと思われるかもしれない。だが、それは違っていた」
「仕事はすべて肉体的に厳しいものばかりで、何ヵ月も続ければ体をこわしそうなものもあった」
しかし、健康保険に入るためのお金もないし、貯金もない。だから病院には行かないし、病気をしても休まない(病気欠勤しても手当が出ない)。1998年までは「トイレ休憩の権利」すらなかったそうです。
身体の具合が悪くても仕事をしないと生活できない人がいる一方で、自分の家の掃除を業者に任せる人がいるのがアメリカの現実です。
「他人の子供の世話をするために、自分の子供の世話をおろそかにする。自分は標準以下の家に住んで、人さまの家を完璧に磨き上げる」ワーキングプアは「ひたすら与えるばかりの人たちなのだ」とエーレンライクは言います。
「賃金の面でも人に認められるという面でも、あれほど報われることの少ない仕事に、みんなが誇りを持っていることに驚かされ、ときには悲しくなるほどだった」
エーレンライクは掃除婦たちに、客たちのことをどう思っているのかと尋ねます。
「わあ、こんなの私もいつか欲しいなってことだけよ。だから仕事の意欲もわくし、恨みとか、怒りとかは全然感じない。だって、ほら、いつかはああなりたいっていうのが私の目標だもの」と答えるのは、深刻な椎間板の故障を抱え、8000ドルのカードローンを抱える24歳。
二人の子を持つシングルマザーは、「私は全然気にならないわ。きっと人間が単純なのね。あの人たちが持っているものを欲しいとは思わない。私にはどうでもいいことだわ。ただ、ときどき、どうしても休まなきゃならないときは一日仕事を休むことができたらいいなと思うだけ。休んでも、明日の食べ物が買えればいいなと思うだけ」・・・・以下省略。
しみじみと考えさせられますね。次回へ続く。
下にニューヨークの風景写真をお送り致します。
写真はニューヨークで、出典は、 https://amanaimages.com/info/infoRM.aspx?SearchKey=01171000343&GroupCD=0&no= です。
写真はニューヨークのマンハッタン街で、出典は、http://www.toptenfamous.com/top-ten-travel-places-in-the-world/ です。
夏になると北海道がうらやましくなります。東京は連日、うだるような猛暑です。
そこで北海道の花々の画像を探しながら、今日は野や山に自然に咲いている花々の写真を選んでお送りいたします。
1番目の写真はエゾエンゴサク群落だそうです。 撮影は北海道共和町だそうです。総ての写真の出典は、「北の大地図鑑」 http://blogs.yahoo.co.jp/kouyu_kikaku1116 です。 上2番目の写真ははタチツボスミレです。
33番目の写真はエゾノマルバシモツケという花です。撮影はニセコ山系ニセコアンヌプリ
にて。
ローマ法王はヴァチカン国の元首なので普通は日本の外務省からの申請で会うものです。あるいはカトリックの教皇でもあるので、日本のカトリック教団からの要請で会うことが普通の手続きです。超多忙な方ですから一般の個人が会うことは殆ど不可能と思うのが常識です。
ところが山浦玄嗣さんはヨハネ・パウロII世(1920年ー2005年)へ直接手紙を出し、2003年にヴァチカンを訪れ、サンピエトロ広場を埋め尽くす大群衆の前の祭壇の上で個人的に言葉を交わしてきたのです。
山浦玄嗣さんのことは昨日の掲載記事、聖書を岩手県のケセン語で翻訳した山浦玄嗣さんをご紹介します で説明しました。
昨日、講演会があり、その後の交流会で聞いた話です。
聖書のケセン語訳が完成したのでローマ法王に会って献本しようと思ったのです。手紙を書きました。いくら待ってもナシノツブテです。しばらくしてヴァチカンにいる浜尾枢機卿から返事が来て、私ならお会い出来ますというのです。
しかし山浦さんは諦めません。そしてついにヨハネ・パウロII世から会うという返事を貰うのです。
欣喜雀躍した山浦さんは大船渡市の市民に呼びかけ「ケセン訪欧使節団」を結成し、羽織袴姿でヨハネ・パウロII世にお会いしたのです。
これを何故私が「冒険談」と言うのいでしょうか?
ローマ法王へ直接手紙を書いて会いに行くというは発想そのものが冒険的すぎます。良く言えば独創的です。悪く言えば非常識です。
何でも始めたらやり遂げるという根性がケセン地方の土俗的な文化です。
そしてケセン訪欧使節団はカトリック教徒だけでなく仏教徒や無宗教の人もいる混成部隊だったのです。混成部隊で会うということも冒険的なのです。それがキッカケになって大船渡市の町おこしが進んだそうです。
それはそれとして昨日の会には山浦さんの数々の本を出版した地元のイー・ピック社の熊谷雅也さんもいて、出版の苦心談も聞かせて貰いました。この熊谷さんのことは、大船渡のまちを輝かす・・・イー・ピックス出版の熊谷雅也さん という記事で(2012年2月1日掲載)で詳しくご紹介しました。
いろいろ出版していますが、私がお薦めしたい本は、山浦玄嗣著「ガリラヤのイエシュー」(全664ページで税込2592円)です。ネットで購入出来ます。
福音書は日本各地の方言で判り易く翻訳してあります。これで難解な聖書もスラスラ読めるのです。
下に山浦玄嗣さん(上)と熊谷雅也さん(下)の写真を示します。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)
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今日はカトリック立川教会で10時のミサの後の11時過ぎから山浦玄嗣さんの講演会があります。この山浦さんは、聖書を東北弁のケセン語で翻訳したのです。
そして前のローマ法王、ヨハネ・パウロII世に拝謁し、献本しました。
そこで今日はこの山浦玄嗣さんをご紹介したいと存じます。
一般的に言えば日本人には聖書は分かり難いものです。
その聖書を東北地方の人にも分かりやすく翻訳したのです。その本が山浦玄嗣著「イエスの言葉」-ケセン語訳(文藝出版社、初版2011年12月20)という本なのです。
本好きの家内が書評欄で見つけ取り寄せて読み、感動して私にも読むように薦めました。読み始めてみると東北弁が身についている私にとってとても判り易いのです。
この本はキリスト教に無関心な人々が読んでも衝撃的な面白さを感じるはずです。
宗教と関係なく日本人の翻訳文化の陥穽を明快に指摘しているのです。
本の内容を簡単にご紹介します。
聖書に「心の貧しい人々は、幸いである。天の国はその人たちのものである」という文があります。意味不明で有名な箇所です。
私も気分的には分かったような感じですが、こんなあいまいな文章があちこちにある聖書なので困っていました。そこを山浦さんは以下のようにケセン語で訳しています:「頼りなぐ、望みなぐ、心細い人ア幸せだ。神さまの懐に抱(だ)がさんのアその人達だ。」
このような訳文なら私にも分かります。
心の貧しいという言葉を「頼りなぐ、望みなぐ、心細い」という3つの言葉で説明しています。これこそが正しい翻訳の姿勢なのです。
日本にある聖書は古ギリシャ語から英語やフランス語へ翻訳された二次資料を翻訳したから、わけがわからなくなった場所があちこちに出来てしまったという指摘に感心し、納得します。
こういう説明が沢山書いてあります。
ケセン語とは岩手県の大船渡市、陸前高田市など気仙地方で昔から用いられていた方言です。アイヌ語の影響を受けた独特な東北弁です。
山浦さんの偉い所はまず25年間かけてこの気仙地方の方言のケセン語を集大成して「ケセン語辞典」を完成したのです。そしてその後で聖書の原文の古ギリシャ語を勉強して、その原文の意味をケセン語に翻訳して完成したのです。
さて山浦さんのことをご紹介します。1940年生まれのお医者さんです。東北大学の医学部を卒業し、大船渡市の一介の開業医になります。
ケセン語を体系的に整理し辞典を作ったり、古ギリシャ語を独学でマスターしました。
聖書の研究も普通の神学者を超えています。要するに秀才なのです。このようにご紹介すると冷たい学問肌の医者のように思われます。
しかし彼は本当に温かい人柄なのです。愛情あふれる人なのです。この本を読むと彼のやさしさが溢れ、流れ出てくるのです。読みやすい文章です。
その山浦さんの病院は大船渡市にあり、3年前の3月11日あの大津波に襲われました。1階は泥水と瓦礫の山で、2階だけがかろうじて浸水しませんでした。大浦さんも奥様も逃げ遅れて病院にいましたが無事でした。そして2階をボランティアの寝泊り場所に提供しました。その後医院も再開し被災者の救護に当たりました。
津波を生き残った山浦さんの決心だけをまず書きます。
山浦さんは、「津波に襲われて、家も財産もなくなってしまった全ての人々の苦しみは、この俺が引き受けた!」というような意味のことを語っています。勿論、こんなに詳しく喋っていません。「津波に襲われて・・・」は私が勝手に書いた文章です。
山浦さんは、「ようがす。俺がひぎうげだ」と言うような短い一行です。
「俺が引き受けた」という言葉の意味は深長です。イエス様が俺を使って引き受けてくれるという意味なのかも知れません。
彼はカトリックの信者です。しかし私は確信します。彼は患者に絶対にキリスト教の宣伝はしなかったと確信しています。その代わり、患者を大切にし、患者へ気仙地方の方言で話しかけ、尽くしたのです。
山浦さん仏教徒だろうが無宗教の人だろうが分け隔てなく大切にしたのです。診察と治療に尽くしたのです。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。
後藤和弘(藤山杜人)
手の上にある絵は彼が描いた大部屋に避難している患者の様子です。彼はテレビに出た時、この患者達の態度が立派だったと褒め称えたのです。そして感謝するのです。
上の左の写真はケセン語の訳された福音書です。大船渡市にあるイー・ピックス出版という会社から出版され、前のローマ法王、ヨハネ・パウロII世に拝謁し、献本しました。右の写真は診察中の山浦さんです。
左の写真は高台にあるカトリック大船渡教会です。津波はこの高台の足元の街を完全に流し去ったのです。右はミサの風景です。数人の信者の前で山浦さんが福音書をケセン語で朗読しています。ケセン語は流れるように、美しい響きを持っているのです。
上の写真は山浦さんの住んで居た大船渡市の惨状を示しています。桜が咲いていますから大津波の30日位後に撮った写真と想像できます。瓦礫の山はまだ手つかずの状態です。
大津波の直後の山浦さんの病院の周囲の様子です。
上の右の写真は高台にあるカトリック大船渡教会の麓の街は完全に瓦礫の原になったことを示しています。