おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

本陣跡広場。からむし。蛸。西棒鼻。芭蕉句碑。・・・(名鉄「本宿」駅から「矢作橋」駅まで。その3。)

2015-06-05 23:49:42 | 旧東海道

 右手に「本陣跡」。明るく開けた広場になっています。昨年春に完成したばかり、ピカピカ。

「東海道と藤川宿」。

 慶長5年(1600)、関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康は、翌慶長6年、東海道の集落に「伝馬(駒曳)朱印状」を下付して「宿駅」を指定するとともに、公用の旅行者のために「伝馬」36疋を用意することを命じ、その代償として地子(地代)を免除しました。これが近世宿駅制度の始まりです。慶長9年からは幕府の命により、日本橋を基点とした五街道の整備が開始されました。
 慶長6年に整備された藤川の宿は、品川から数えて37番目の宿駅でした。
 中世における藤川の集落は山綱川の北岸にあったとされ、戦国時代末期に現在地に移った新しい集落であることが文献資料から推定されています。東海道の交通量の増加に伴い、寛永15年(1638)に幕府から常備人馬の増加(人足100人、馬100疋)を命じられた際には、宿は困窮しており、これに応じることができないほどの状態であったといいます。そのため、慶安元年(1648)、代官の鳥山牛の助により、藤川宿を補強するために山中郷市場村(現在の市場町)68戸を藤川宿の東隣に移住させる加宿措置がとられましたが、藤川宿の負担は重いものでした。
 天保14年(1843)の「宿村大概帳」の記録によると、藤川宿の1,213人、家数は302軒となっています。東海道五十三次の中では小さな宿場の部類に入ります。しかし藤川宿に本陣、脇本陣、問屋場や高札場、棒鼻などの施設もあり、宿駅としての務めを十分に果たすものとなっていました。

              岡崎市教育委員会

 掲載されているのは、慶長6年の朱印状。

「本陣跡」説明板。

     
                           「高札場」の復元。

                             ①藤川よりの駄賃人足賃
                             ②駄賃並人足荷物次第
                             ③親子兄弟夫婦みな親しく
                             ④切支丹禁制
                             ⑤毒薬にせ薬売買の事禁制
                             ⑥火付け用心

「藤川宿」概念図。

奥には、「むらさき麦栽培地」。
                      藤川小学校の児童が育てている、とのこと。むらさきの穂がなびいています。

その西隣には、「藤川宿資料館」。

本陣石垣。          

    

歴史の息づく、住みよいまち 藤川

藤川宿の概要

 東海道五十三次、37番目の宿場町として設けられた藤川宿の町並みは、9町20間(約1キロ㍍)で、天保14年(1843)の宿内人口は、1213人(加宿市場村とも、男540人、女673人)、302軒で本陣は森川家1軒、脇本陣は橘屋大西家1軒で、ともに中町にありました。旅籠屋は大7軒、中16軒、小13軒でした。
 ここから赤坂宿までは2里9町、岡崎宿へは1里25町でした。
 藤川は、幕府直轄の宿場で代官によって支配されていました。また、藤川宿は東の新居宿から西の宮宿(熱田)まで11宿が組合で、赤坂宿とともに「組合」の取締りの宿場でした。さらに藤川は、塩の道「吉良街道」に通じる交通の要所であり、また、二川・赤坂・御油の4宿連名で荷車の使用を願い出て、街道注で初めて幕府の許可をもらっていました。

藤川宿の棒鼻

 宿の出入口を棒鼻と呼び、大名行列の際はここで本陣・問屋等は出迎え、「何々宿本陣何の何等でございます」と口上を述べたと言います。また、宿から差し出される下座触の「シタニオレッ―」も、この棒鼻から始まる場合が多かったと言います。歌川広重は、「棒鼻の図」を浮世絵に描いています。
 十返舎一九は、「東海道中膝栗毛」に藤川宿の棒鼻の風景を次のように書いています。
 「かくて藤川にいたる。棒鼻の茶屋、軒ごとに生肴をつるし、大平皿。、鉢、みせさきにならべたてて旅人の足をとどむ、弥次郎兵衛“ゆで蛸のむらさきいろは軒毎にぶらりと下がる藤川の宿”(紫色と藤川宿の藤をかける。また、藤のぶらりと下がると軒毎に下がる蛸をかける。)これにより、宿をうちすぎ、出はなれ(宿のはずれ)のあやしげなる店にて休みて・・・」

むらさき麦と藤の花

 藤川では、むらさき麦と藤の花が美しく、道中記や古歌に多く詠まれてきました。
 ◇『芭蕉句碑』(十王堂境内)
  「ここも三河 むらさき麦の かきつばた」
 ◇『東海道名所記』
  「宿を出れば、畑に高野麦とて、一種穂のむらさきなる麦の、はえてみえければ・・・」 ◇『幸亭』
  「ふじ川の藤にゆかりの花なれや 麦のふさまでにほふ紫」

宿場のみやげ

 宿場のみやげは、「からむし細工」のかんざし、綱袋、縄等でした。縄は、本宿の法蔵寺付近でつくられ、法蔵寺縄とも呼ばれていました。現在でも本陣裏に自生しているからむしを見ることができます。

     東海道ルネッサンス

 カラムシ(苧、枲、学名:Boehmeria nivea var. nipononivea)



 イラクサ目イラクサ科の多年生植物。南アジアから日本を含む東アジア地域まで広く分布し、古来から植物繊維をとるために栽培されたため、文献上の別名が多く、紵(お)、苧麻(ちょま)、青苧(あおそ)、山紵(やまお)、真麻(まお)、苧麻(まお)。など。
 茎の皮からは衣類、紙、さらには漁網にまで利用できる丈夫な靭皮繊維が取れるため、分布域では6000年前から栽培されてきた。このため日本に自生するカラムシは、繊維用に有史以前から栽培されてきたものが野生化した、史前帰化植物であった可能性が指摘されている。『日本書紀』持統天皇7年(693年)条によれば、天皇が詔を発して役人が民に栽培を奨励すべき草木の一つとして「紵(カラムシ)」が挙げられている。
 中世の越後国は日本一のカラムシの産地だったため、戦国大名として有名な上杉謙信は衣類の原料として青苧座を通じて京都などに積極的に売り出し、莫大な利益を上げた。新潟県の魚沼地方で江戸時代から織られていた伝統的な織物、越後縮はこれで織られていた。また上杉氏の転封先であった出羽国米沢藩では藩の収入源のひとつであった。このため、カラムシの専売化をめぐり、宝暦10年(1760年)の『青苧騒動』や文化4年(1807年)の『青苧一件』が起こる。なお、置賜地方産のカラムシを「米沢苧」という。
 この他、江戸時代の有名な産地に陸奥国会津や出羽国最上地方があった。
 国の重要無形文化財に指定されている「小千谷縮・越後上布」の原料であり、福島県会津地方の昭和村で栽培され、本州唯一の産地となっている。

(以上、「Wikipedia」参照) 

 (HPより)

                   「脇本陣跡」。

そこからしばらく進むと、
「藤川小学校」に面したところに、「西棒鼻」。 

    

 藤川  歌川豊広

 藤川の
   しゅくの
  棒はな
    みわたせば
 杉の
    しるしと
     うで蛸の
        あし

 〈藤川宿の棒鼻を見わたすと、杉の木で造った表示が立っており、付近の店にはゆでだこのあしがぶら下がっている。〉

※ 歌川豊広 1774~1829。江戸時代後期の浮世絵師。門人として歌川広重がいる。 

 「蛸」は、西浦、吉良から持ってきて売っていたようです。この先に「吉良道」との分岐があるように、物流のルートとして「吉良」海岸までは、「藤川宿」から直線で約18キロ。
 何年か前、知多半島の先、日間賀島(ひまかじま)の民宿に泊まって、蛸(づくし)料理を食べたことがありました。実に美味でした。今でも知多湾では蛸が名物のようです。

「藤川宿」概念図。東↓から西↓まで。

    
    宿内方向。                                 これから進む方向。

左手に「岡崎観光文化百選」。

藤川宿と松並木

 浮世絵師安藤広重が描いた「東海道五十三次藤川宿」の賑わいぶりが、今も残る脇本陣、旅籠などに偲ばれます。
 道標、常夜燈、石仏などに目を向けながら街道筋を歩いてみると、その昔、日差しや北風をさえぎり、旅人の歩みを助けた松並木が、歴史の重みを語りかけてきます。
 またここは、吉良道への分岐点ともなっています。

左側にあるのは、「十王堂」。

藤川の十王堂
 「十王堂」は十人の王を祀る堂で、その「十王」とは、冥土にいて亡者の罪を裁く10人の判官をいう。
 秦広王・初江王・宋帝王
 五官王・閻魔王・変成王
 太山王・平等王・都市王
 五道転輪王
の総称である。
 藤川宿の「十王堂」はいつ頃創建されたかは不明であるが、十王が座る台座の裏に「宝永七庚寅年七月」(1710)の記年があるので、ここの十王堂の創建はこの年であろうと推測する。
 また、地元では、忠臣蔵で有名な神崎与五郎に言いがかりをつけた箱根の馬子・丑五郎との伝説を伝えている。 

         藤川宿まちづくり研究会   
注: 
 (初七日)「秦広王」生前の悪事の書類審査をする。
 (二七日)「初江王」三途の川を渡るかどうかの判断。悪事を働いた人は橋を渡れずに水の中を渡る。
 (三七日)「宋帝王」邪淫の有無を裁く。
 (四七日)「五官王」生前の罪の重さを業秤にかける。
 (五七日)「閻魔王」生前の悪事を浄玻璃の鏡に写し出す。
 (六七日)「変成王」五官王の秤と、閻魔王の鏡を使って再審査をする。
 (七七日)「泰山王」判決を下す。
 (百日目)「平等王」
 (一周忌)「都市王」
 (三回忌)「五道転輪王」

 芭蕉の句碑。
    

芭蕉句碑

 「芭蕉句碑」は江戸時代の俳人・松尾芭蕉が詠んだ句を、石に刻んで建てたものである。
 「爰(ここ)も三河 むらさき麦の かきつばた はせを」
 碑の裏に
 「寛政五歳癸丑冬十月
       当国雪門月亭其并連中
            以高隆山川之石再建」
と、建碑の書誌的事項が彫られている。
 この碑の高さは1.65㍍、幅1.07㍍、厚さ約0.2㍍。花崗岩の自然石で、この近辺の芭蕉句碑では最大級といわれている。
 その傍らに、0.9㍍、幅0.5㍍ほどの自然石が立っている。これも芭蕉句碑で、この碑は元、別な所にあったが、大正初期に現在地に移された。

       藤川宿まちづくり研究会        
 
 実はこの句、芭蕉のつくったものかどうか不明らしい。『芭蕉俳句全集』では「存疑の部」(存在が疑わしい)に入っています。また、「ここも駿河・・・」という地名を変えただけの句もあるようです。

振り返って望む。

 しばらく行くと、左手に「藤川の一里塚」。
     

藤川宿の一里塚

 「一里塚」は、街道に一里ごとに土を盛り上げ、樹木を植えて、道しるべとした塚のことである。
 慶長9年(1604)、江戸幕府は諸街道の整備の一つとして、江戸日本橋を起点として、一里ごとに道の両側に塚を築いて樹木を植えて目印とした。
 樹木は普通、榎であった。
 ところで、藤川の一里塚であるが、記録によると
 「一、此宿より岡崎宿迄之間 壱里塚弐ヶ所 
    壱ヵ所 木立 左無之 右榎
       但、左右之塚共 藤川宿地内」
と記してある。このような藤川の一里塚は、当時は街道の左右に塚を作り、榎が植えてあったらしいが、天保年間(1830~)頃にはすでに南側はなくなり、北側の榎は昭和初期には枯れててなくなってしまった。

      藤川宿まちづくり研究会

 江戸・日本橋から79番目の一里塚です。京までは124里ですから、全行程の3分の2近くになったわけです。    
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