おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

「道の駅・藤川宿」。藤川の松並木。大平一里塚。・・・(名鉄「本宿」駅から「矢作橋」駅まで。その4。)

2015-06-06 20:27:29 | 旧東海道

 時刻も1時過ぎ。ここで、昼飯タイム。ところがコンビニを含め、沿道には何にもありません。そこで、「藤川」駅近くの小さな踏切を渡って、その先にある「道の駅・藤川宿」へ向かいました。ここは、2年ほど前にできた国道1号線沿いの「道の駅」。
 愛知県内の「国道1号線」では初の「道の駅」らしいです。

 学校帰りの高校生や運転手などで、「食事コーナー」もけっこう賑わっています。
 「食券」を買って窓口に出すと、係の方が番号でお呼びしますので、と「食券」を受け取りません。そういうシステムなのですが、次々と来る人は同じように「食券」を出しては、同じ事を言われています。なかなか慣れないようすです。
 「むらさき麦」を使用した「カレー」や「うどん」、「みかわ豚」のカツ丼など地元メニューです。

 

 ここで、一休みして、午後の部再開。線路伝いに「B級グルメ・ドジョウの蒲焼き」の垂れ幕が・・・。

 再び踏切を越えて「東海道」に復帰。

名残惜しいですが、「藤川宿」から西に向かって出発です。

 そのまましばらく進むと分岐点に差し掛かります。分岐点を左に行くと吉良道。左手に「吉良道道標」があります。

吉良道道標

 東海道は、藤川宿の西端で南西の方向に分かれて、土呂(現・岡崎市福岡町)、西尾(現・西尾市)、吉良(現・幡豆郡吉良町)方面へ出る道がある。この道を「吉良道」と呼んでいて、その分岐点に「吉良道道しるべ」が立っている。
 道しるべ石は、高さ一四三センチ、幅二○センチの四角柱で、彫られている文字は

<右面> 文化十一年甲戌五月吉日建
<正面> 西尾、平坂、土呂、吉良道
<左面> 東都小石川住
と書いてある。
 とにかく、江戸時代、参勤交代の行列、助郷勤めの出役、さらには海産物の搬入路など重要な脇街道であった。また伝説に、茶壷道中の行列がここを通ると、雨が降るという「茶壷のなみだ雨」の話も残っている。

          藤川宿まちづくり研究会


 
 現在のようす(「今昔マップ」より)。            


 1920年頃のようす(「同」より)。             


 「東海道」は右側の道を進み、名鉄線の踏切を越えます。踏切を渡ると、松並木が道の両側に続いています。踏切の手前にある「説明板」。



岡崎市指定文化財 天然記念物 藤川のまつ並木

 慶長9年(1604)江戸幕府は街道を整備し、東海道の両脇に松を植えた。この松並木はその名残をとどめるもので、現在は藤川町の西端約1キロメートルの間の90本あまりからなり、クロマツが植えられている。松並木は旅人には夏の木蔭を提供し、冬は防風林となった。
 松並木の東につづく藤川宿は、東海道の三十七番目の宿場である。
 歴史的な価値のある松並木であり、大切にして後世に伝えたいものである。

 昭和38年5月8日指定    岡崎市教育委員会 

踏切の向こうに「松並木」。

手入れの行き届いた「松並木」です。この日も大勢の方々で清掃、手入れなどの活動が行われていました。

      

「藤川宿」の看板を過ぎると、「国道1号線」へ合流。
     

 「岡町神馬崎」交差点の先を斜め左に。入ってすぐの左手には、「愛知産業大学留学生会館」。その先には松並木もちらほら。


 

ここからはしばらく道なりに進みます。特にないまま。日差しが強い! 

振り返る。

 しばらくしてけっこう車が激しい通り(「県道48号線」)を地元の自転車の方と一緒に一気に突っ切ります。
 「どこまで行くの?」「岡崎まで」「二十七曲がりかぁ」。・・・

 「国道1号線」の交差点名が「ほたる橋南」。この付近、かつてはほたるの生育地だったらしく、国道沿いに「国指定天然記念物 岡崎源氏蛍発生地」の説明板があるそうです。また、すぐ横に芭蕉句碑「草の葉を 落ちるより飛ぶ 蛍かな」(ただし、この地の作ではない)がある、とのこと。

その先の「高橋」を渡ると、のどかな田園風景が。

    
    ホタルが飛んでもおかしくないような自然環境。ただ、現在はもっと上流のところで生育しているようです。

その後、東海道は「乙川」によって行く手を阻まれてしまいます。

 かつては橋が架かっていたそうです(江戸時代は渡し船)が、撤去されています。そこで、「国道1号線」に出て「大平橋」を渡ります。


 現在のようす(「同」より)。→のところ。

 かつて(1920年頃)のようす(「同」より)。


馬が草を食んでいます。近くに馬小屋でも?

「(日本橋から)323キロ」ポスト。

 「大平橋」を渡ったら左に曲がって「東海道」に戻ります。
正面の先が分断された東海道方面。

その後、道なりに進むとこの付近の「東海道」の図解が。

 広い通り(「国道1号線」)を横断歩道で渡ります。右手に薬師寺。その脇に「東海道」の道標。

                              

来た道を振り返る(正面奥)。


右手に常夜燈。

変わったつくりのおうち。

「つくて道」と刻まれた道標。
                       「つくで」? は、現愛知県新城市(岡崎のほぼ東方向)にある村の名? 

「ようこそ東海道 西大平藩陣屋跡」。右手を入ったところに「大岡稲荷神社」。

奥に見えるのが「西大平藩陣屋跡(大岡越前守陣屋跡)」。

 大岡越前守忠相は「大岡裁き」で有名な町奉行で、当初は旗本であったが8代将軍徳川吉宗の意もあって後に1万石に加増されて大名となり、この西大平藩の初代藩主となりました。江戸詰めだったため、ここには居住したことはありません。

その先には「大平一里塚」。

国指定史跡 大平一里塚

 一里塚とは道の両脇に一里ごとに塚を築いて道標としたもので、制度として確立したのは、江戸幕府が慶長9(1604)年に江戸・日本橋を起点として各街道に一里塚を築造させたことによる。
 大平一里塚は東海道の一里塚のうちの一つで、日本橋から80里にあたる。東海道の一里塚は永井白元、本多光重が奉行となり、代官や領主に築造させているが、大平一里塚は領主である本多重次の子成重が築いた。
 現在の大平一里塚は、昭和3(1928)年に道路改修の際、北側の塚は破壊され、南側だけが残ったもので、塚の大きさは高さ2.4㍍、底部縦7.3㍍、横8.5㍍で、中央には榎が植えられている。元は榎の巨木であったが、昭和20(1945)年の台風で倒木したために新たに植えられたものである。このように一里塚には根張りがよく、塚の崩落を防ぐ目的で榎が植樹されていることが多い。
 昭和12(1937)年12月21日指定

                          岡崎市教育委員会 

    
 南側。                             北側は「常夜燈」になっています。

しばらく進み、国道1号線に合流し、右に。

 その先で再び東海道は分断されるので、右手のホテル街の脇の道を進んで「バイパス」の下をくぐります。突き当りを左に行き、「岡崎インター」の向こう側に出たあと、「岡崎インター西」の信号の先から「国道1号線」脇の道を進みます。



 その後、小川沿いの道を進み、その先を斜め右に入り、緩い上り坂を道なりに進みます。右手に法光寺。その先には「常夜燈」。
 
そのまま進むと、 

左前方に「冠木門」が見えてきます。

 ここから「岡崎宿二十七曲がり」のスタートです。ここへの到着は、午後3時半過ぎでした。この先は、朝一番で回ったところに続きます。                  
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする