「外堀通り」を進み、「家の光会館」の脇からすぐ左に上る坂。
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江戸初期、この坂のあたりが美しい梅林であったため、二代将軍秀忠が中国江西省の梅の名所大庾嶺に因み命名したと伝えられる。別名「若宮坂」「行人坂」「祐玄坂」とも呼ばれる。
他の異名としては、「幽霊坂」、「唯念坂」など、全部で6つの呼び名があるようです。標識には「庾嶺坂」を採用しています。この名の方が趣があると・・・。
今は、かつて「梅林」があった雰囲気は感じられませんが、坂の左側は緑が続きます。右手の「若宮八幡神社」の先を左折して道なりに行きます。この坂が「新坂」。
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新坂(しんざか)
「御府内沿革図書」によると、享保16年(1731)4月に諏訪安芸守(戸田左門)の屋敷地の中に新しく道路が造られた。新坂は新しく開通した坂として命名されたと伝えられる。
緩やかに上り、住宅地を道は西に進んで行きます。
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突き当たりを右折し、さらに少し広い道になる手前を右折して進むと、「地蔵坂」。
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地蔵坂(じぞうざか)
この坂の上に光照寺があり、そこに近江国(滋賀県)三井寺より移されたと伝えられる子安地蔵があった。それに因んで地蔵坂と呼ばれた。また、藁を売る店があったため、別名「藁坂」とも呼ばれた。
急な坂を下りきると、そのまま「神楽坂」方向へ。
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神楽坂(かぐらざか)
坂名の由来は、坂の途中にあった高田八幡(穴八幡)の御旅所で神楽を奏したから、津久戸明神が移ってきた時この坂で神楽を奏したから、若宮八幡の神楽が聞こえたから、この坂に赤城明神の神楽堂があったからなど、いずれも神楽にちなんだ諸説がある。
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続いて、「善国寺」の先を左折して「三年坂」に向かいました。両側はお店がずらりと並んだ道筋。入口には、
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本多横丁(ほんだよこちょう)
神楽坂には横丁が沢山ありますが、この本多横丁は神楽坂の横丁では最も大きい横丁。むかし本多家の屋敷があったことから本多横丁と呼ばれるようになったとのことです。
本多家とは、江戸時代の大名格の武家で石高1万500石。この本多家の屋敷が江戸中期から明治の初期までこの辺りにあったとことで、当時は「本多修理屋敷脇横町通り」と呼ばれていたらしいです。
本多修理とは、江戸時代後期(幕末)の福井藩の家老で「本多 修理(ほんだ しゅり)」。
本多修理は「Wikipedia」によると、嘉永2年(1849年)に家督を継いで藩主・松平慶永に仕え、慶永の藩政改革のブレーンのひとりとして活動し、主に軍制改革で功績を挙げました。
安政の大獄で慶永が隠居した後は養子の松平直廉に仕え、第1次長州征伐では幕府軍の副総督となった直廉の軍事総奉行として小倉まで従軍し、明治時代に入ると再び慶永(春嶽)に仕え、側近として活動しました。
尚、この本多横丁は、終戦後の一時期、スズラン通りと呼ばれた事もあったそうです。
(以上、「東京 神楽坂 ガイドkagurazakaguide.web.fc2.com/1020.html」HP参照。)
そのHPに以下のような記事も。
「三年坂」は、本多横丁を含んでいます。 「神楽坂通り」から「軽子坂」の延長線の道と交差するまでが本多横丁で、これをさらに進み大久保通りまでのなだらかな坂道が「三年坂」です。
なるほど、これで納得です。さらに、
三年坂
大久保通り、筑土八幡町交差点近くから、南に登り、神楽坂通りに至る比較的長い坂道です。傾斜は緩やかです。坂下は津久戸町、坂上は神楽坂三丁目と四丁目の境界で、道の両側は飲食店が並んでいます。
三年坂については、横関英一『江戸の坂東京の坂』において、一般に寺や墓地の近くにあり、「その坂で転んだものはすぐにその土を三度なめないと三年以内に死ぬ」という迷信があったとされていたことに名称が由来するとのこと。
標識は、設置されていません。「この坂で転ぶと三年以内に死ぬ」とはさすがに公衆の目に触れる説明を書いたものは設置できなかったのであろうと想像されます。
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さらにナットク! しかし、この「三年坂(三念坂)」こそ、京都水の「三年坂」にも劣らない道筋です。
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「本多横丁」案内図。 「神楽坂案内図」。
人通りも激しく、一杯機嫌の集団もちらほら。小学校か中学校のクラス会が終わった人達が店を出てきたところ。年格好は60代後半くらいの男女のグループ。道の真ん中で、恩師らしい人を囲んで大声で騒いでいる内に、一人の男性が見事に転んだ! 慌てて駆け寄る仲間。すぐ元気に立ち上がったが。・・・
「この坂で転ぶと三年以内に死ぬ」
エッ!
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「三年坂」から「本多横丁」を望む。
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「三年坂」の途中を右折すると、「軽子坂」。
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軽子坂
この坂名は新編江戸志や新撰東京名所図会などにもみられる。
軽子とは軽籠持の略称である。今の飯田濠にかつて船着場があり、船荷を軽籠(縄で編んだもっこ)に入れ江戸市中に運搬することを職業とした人がこの辺りに多く住んでいたことからその名がつけられた。
「飯田橋」駅方向へ下る広い坂。いったんこの坂を下って、再び「神楽坂」方向に戻りました。
土曜の午後というせいか、けっこうな人通り。
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1880年代のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より)。
上方、斜めの道が「神楽坂」。「合(逢)坂」、「祐源坂(庾嶺坂)」、「軽子坂」などが確認できる。
なお、神楽坂は通りの名称で言うと「早稲田通り」です。