さていよいよ「岡崎城下二十七曲り」ですが、先達のレポートでは、けっこう迷いやすく、不明な曲がり角も多い、とのこと、心して、という忠告も。気持ちを引き締めて、さて出発!
時間は、8時30分前。人々の出勤や小学生たちの登校もピークを過ぎて、住宅街は落ち着きを取り戻した、静けさの中での探索でした。
ところが、ところが、実際は・・・、「い」の表示で始まる大きな「道標」(上部に金の草鞋が置かれています)とそれが設置できないところには「看板」(これはちょっとよそ見をしていると見逃しそう)が、曲がり角ごとに懇切丁寧に設置されていて、ほとんど迷うところがありません。「い」「ろ」「は」とたどっていけばいいことになります。もちろん、先達の案内・地図を見ながらではありますが。今までの方々が頼りにしていた古い「石標」も健在です。
これまでのレポートのように、手元の、参考にした地図を取り出し、きょろきょろあたりを見回し、目印を確認し、行きつ戻りつ、次の曲がり角は? ・・・ということは、ほとんど必要なし。
多くの東海道歩きの人たちがどれほど迷い、あげく、通りすがりの方々に、あるいはお店の方に迷惑を掛けたのか・・・、そんなこともなくなって、ちょっと物足りない気分(勝手な感想ですが)。
これまで通ってきた、宿場・城下町でもこれほどの懇切丁寧な案内表示は初めてでした(他では、中途半端な表示でかえって迷いやすいところもあった)。大変ありがたい試みです。
「国道1号線」から来た道を振り返る。
岡崎城下二十七曲り
岡崎城下を通る東海道は、その曲折の多さで知られ、通称二十七曲りと呼ばれていました。享和元年(1801)当地を見聞した大田南畝も「町数五十四町、二十七曲ありとぞ」と「改元紀行」に書いています。
二十七曲りは、田中吉政が城主だった時(1590-1600)城下に東海道を導き入れたことに始まり、のち本田康重が伝馬町を慶長14年(1609)創設して以後、道筋がほぼ決定したと思われます。このねらいは城内を防衛するためのものと言われますが、これにより岡崎の城下町は東海道筋の宿場町としても繁栄することになりました。
二十七曲りの一部は、戦災復興の道路整備などにより失われはしたものの、現在でもその跡をたどることは可能です。この歴史の道とも言うべき二十七曲りを後世に伝えるために、城下二十七曲りの東口であった当所に記念碑を建て、道標とします。
1880年代のようす(「今昔マップ」より)
現在のようす(「同」)。
現在のようすを重ねてみると、「国道1号線」などの道路網の整備、「矢作橋」の付け替え、河川の改修・流路変更などで大きく異なっていることがわかります。○は、「二十七曲がり」の一部のような気がしますが、現在は、はっきりしない道も多いようです。
特に、太平洋戦争末期の1945年(昭和20年)7月19日未明から20日にかけてアメリカ軍によって行われた大規模な空襲により、大きな被害を受け、人的被害はもちろん、建物も主要な施設のほとんどが焼失してしまいました。
その後の復興によって大きく市街地が変貌し、宿場町時代はもちろん、古い建物や史跡などはほとんど存在していません。
現在、どのくらいの「二十七曲がり」が残っているか、楽しみですが。
最初の曲がり角。「岡崎げんき館」を左へ折れる。「い」。
「岡崎げんき館」は、岡崎市若宮町にある公共の健康増進施設。屋内プールとトレーニングジムを備え、建物の中には岡崎市保健所もあります。 2008年3月1日にオープン。旧市立岡崎病院跡地に「健やかに集い、にぎわいを創出する核として建てられたそうです。
モニュメント。「岡崎城東入口」の石碑。
しばらく道なりに。
「ろ」。両町角まで。
「は」。次の伝馬町角まで。石碑。
「常夜燈の由緒」。左手に保存されている。
この常夜燈(仏式)は旧東海道岡崎の宿両町の街角に火災防止の祈願から遠州秋葉山永代常夜燈として今より182年前寛政二庚戌年(西暦1790)に建てられたものであります。その後昭和20年7月20日未明の空襲で災禍にあいましたが昭和47年10月22日までその原型を留めておりました。
追日の痛みもひどく危険になりましたので取り壊しその一部「宝珠」を残しこれを安置保存したものであります。
岡崎では最も古い由緒ある常夜燈で目下重要な文化財として惜(注:「親」の間違いか)しまれております。
昭和47年10月 両町総代 神谷順治 施工者 宮石一一
「に」。「伝馬町通り」にさしかかります。
行く手の左手に「備前屋」。銘菓「あわ雪」。
「三州岡崎東の駅口に茶店あり 戸々招牌をあげて豆腐を賣る其製潔清風味淡薄にして趣あり 東海道往来の貴族賢輩と雖も必輿を止て賞味し給ふ 東海道旅糧の一好味と謂ふべし」
と、古書にもあるように、江戸時代、岡崎宿の茶店「あわ雪茶屋」で供された「あわ雪豆腐」は 東海道名物として旅ゆく人々に有名でしたが、 明治に入ってからは世の移ろいとともにさびれてまいりました。
当舗三代目藤右衛門これを惜しみ、その名を菓子に残さんと 日夜研鑚、現在の銘菓「あわ雪」を創作いたしました。
新鮮な卵白を主原料に精糖を加えて泡立て、寒天で固めた 淡雪のように優しくまろやかで、きめ細かく淡白な舌ざわりは 三河地方を代表する銘菓として愛されております。
こちらは「あわ雪豆腐」。
(HPより)
この付近から、道標や説明板、モニュメントが登場します。
道標(みちしるべ)
江戸時代街道を旅する人々が頼りにしていたのが「道標」です。主要な道の分岐点には必ず道標が建っておりました。東西南北を太陽に頼るしかない当時の旅人にとって自分の行き先を示してくれる道標がどんなに有り難い存在であったか想像できます。
この「道標」は伝馬の脇本陣でもあった杉山家の所蔵の物を複製しました。素材も当時のままあの岡崎産の良質な「花崗岩(みかげいし)」を使用しております。建っていた場所はここより北と推測され、東海道より足助街道へ行く道を示しております。
注:足助街道(あすけかいどう)は、愛知県岡崎市の岡崎城下の能見口より東海道と分かれ、北上して岩津・桑原・松平を経て足助(現・愛知県豊田市)に至る街道。
お茶壷道中
寛永9年(1632)に宇治茶を将軍に献上することに始まったお茶壷道中。家光は将軍の権威を示すため、毎年江戸京都間を往復する一行の茶壷に、はなはだしく威勢を持たせた。宿場では百人の人足を出す定めがあり、多いときにはお茶壷奉行はじめ百人以上の行列をもてなさなければいけないので負担も大きく、この茶壷は各宿場から大いに恐れられていた。行程の都合で岡崎伝馬宿ではこの一行はご馳走屋敷で休んだ。ご馳走屋敷には岡崎藩の家老が出向き、丁重にもてなしたとの記録が残っている。
朝鮮通信使
江戸時代を通し、友好国であった李氏朝鮮は将軍に向け全十二回の使節の派遣をした。使節は修好・親善だけでなく文化使節としての側面も併せ持ち正使・副使・従事官の他に、朝鮮第一級の学者・医者・芸術家・楽隊・曲芸師など多彩な文化人が加わった平均五百人からなる大使節団であったので、沿道ではたくさんの見物客が出迎えた。一行は海路瀬戸内海を抜け、大阪から京都に入り、陸路で江戸に向かった。岡崎宿は、将軍の慰労の言葉を伝える最初の宿泊地でもあり、岡崎宿の応対は一大行事であった。
助郷
大名行列のように、多くの人馬を必要とする場合、岡崎宿内では不足する場合もあった。助郷とは宿場で公用旅行者に継立てする人馬の基準数、人70人、馬80匹で不足する分を周辺の村々から雇い入れる制度で、以前からあったものの元禄7年(1694)に正式に実施されている。人馬を提供するところには賃金が支払われるものの安く、助郷の村々にとっては困窮する宿場の負担を転嫁される形になった。幕府からの助成は何度かあったもののやがてその負担は城下の各町にも及ぶこととなった。
飯盛女
飯盛女(飯売女と表すこともある)は旅篭屋で旅人の給仕や雑用をする女性であったが、三味線を弾き、唄や踊りも披露する遊女でもあった。正保・慶安の頃(1644~51)この飯盛女を置く旅篭が岡崎宿にも増えてくると、旅行者以外の遊客も訪れるようになり、宿場の様相に変化が起こった。旅篭間の競争も激しさを増し、幕府は何度か風紀粛清のため飯盛女の人数制限を行ったが、効果はなかった。以後、岡崎宿の飯盛女は唄に歌われたり紀行文に記されるなどその繁盛ぶりが全国に届くことになった。
という具合に、東海道・岡崎宿にちなんだ石像と説明板が歩道に設置されています。適当にピックアップしました。
塩座
塩座というのは塩を専売する権利のことで、岡崎では伝馬町と田町が権利を有し、伝馬町では国分家などが商いをしていた。矢作川を上る塩船は岡崎で差し止めて上流への通行は禁止、塩荷物は宿場を通させないなど塩の管理は厳しいものであったが、実際には抜け荷もあり、しばしばトラブルもあった。上がってきた塩は審査の後、馬に乗せかえられ、足助街道を北上する塩の道へも運ばれた。他に茶座、魚座、煙草株などがあるが、商いをするものは座銭を収め、座銭は町の開発や宿の助成などに使われた。
二十七曲り
徳川家康が関八州の太守として駿府城から江戸に入ったのが天正18年(1590)8月。。同年の10月には、田中吉政が岡崎城に入城して城下の整備にとりかかりました。吉政は、矢作川に初めて橋をかけ、生川の南のあった東海道を城下へ引き入れました。城下の道は、防衛の意味から屈折しているのが常で、岡崎はその典型でした。これが二十七曲りです。しかし、徳川の安定政権が続くと防衛の意味もなくなり、城下町・宿場町として栄えていきました。
籠田惣門
田中吉政の時代、岡崎城の周囲は川の流れを取り入れた堀で囲われたとされる。籠田惣門は現在の籠田公園前、西岸寺辺りにあった。門の前に外堀があり、そこから西は岡崎城内となる。惣門は東海道が城郭内に入る出入口にあたり、籠田惣門は東の門であった。西は現在の中岡崎町に松葉惣門があった。二十七曲と呼ばれた東海道は伝馬町を経てこの籠田惣門から北に曲がり現在の籠田公園を抜け、連尺町へとつながってゆく。岡崎では東海道は東西から城下まで導かれていたわけである。
他にも、「一里塚」、「往来手形」、「駒牽朱印(こまびきしゅいん)」、「本陣・脇本陣」、「矢作橋」、「旅篭屋」などが取り上げられています。
天保年間(1830~1843)の記録によれば、岡崎宿には伝馬町を中心に本陣三軒、脇本陣三軒、旅篭屋が百十二軒あったとされ、東海道五三次中三番目の規模を誇る宿場でした。旅篭屋はその規模によって大宿、中宿、小宿と区分され、その他に庶民が泊まる木賃宿、休息をする茶屋もありました。
注:東海道53次で最大の宿場は宮宿(熱田宿)。本陣2、脇本陣1、旅籠248。
2番目が桑名宿。本陣2、脇本陣4、旅籠120。
3番目が 岡崎宿。本陣3、脇本陣3、旅籠112。だとされています。
古い店構え。