小休止して、再開です。再び「六本木一丁目」駅地下街の坂(「エスカレータ」を利用してですが)を上がって地上に。「麻布通り」を少し「飯倉」方向(南)に進むと、行く手の先で上りと下りになる坂が「行合坂」。
「行合坂」。
双方から行き合う道の坂であるため行合坂と呼んだと推定されるが、市兵衛町と飯倉町の間であるためか、さだかでない。
「行合坂」と直角に交わる坂が「落合坂」。東西に延びる坂道。
「落合坂」。
「我善坊谷」へ下る坂で、赤坂方面から往来する人が、行きあう位置にあるので、落合坂と呼んだ。位置に別の説もある。
この道の両側には江戸時代には「御先手組」の屋敷が並んでいました。
「先手組(さきてぐみ)」
江戸幕府の軍制の一つ。職制上は若年寄に属し、治安維持の役割を担った。先手とは先陣・先鋒という意味であり、戦闘時には徳川家の先鋒足軽隊を勤めた。徳川家創成期には弓・鉄砲足軽を編制した部隊として合戦に参加した。
しかし、江戸時代に入ってからは戦乱があまり起こらなかったので、平時は江戸城に配置されている各門の警備、将軍外出時の警護、江戸城下の治安維持等を務めた。先手頭は、六位相当の布衣役で、役高1500石のほかに役扶持として60人扶持が支給された。また、先手頭は「各大名家の『御頼みの旗本衆』とされ、幕府との事前打合や報告同行などを勤めるため、由緒ある旧家の人が任命されていた。
時代により組数に変動があり、一例として弓組約10組と筒組(鉄砲組)約20組の計30組で、各組には組頭1騎、与力が10騎、同心が30から50人程配置されていた。
同じく江戸城下の治安を預かる町奉行が役方(文官)であり、その部下である町与力や町同心とは対照的に、御先手組は番方であり、その部下である組与力・組同心の取り締まり方は極めて荒っぽく、江戸の民衆から恐れられたという。(以上、「Wikipedia」参照)
明治になってからは、小さな住宅が建ち並ぶ街になったようです。西側が大きく変貌する中でまだかつての面影を残しているところです。
坂下から西を望む。
下りきって「稲荷坂[我善坊谷坂]」との交差点にある標識。
西北に上がる坂。稲荷坂(我善坊坂)?
この坂の途中は、趣のある住宅街。坂上から望む。
稲荷坂〈我善坊谷坂〉(いなりざか〈がぜんぼうだにざか〉)
麻布台1丁目1番と2番の間を西北に上る坂道です。
三年坂(さんねんざか)
いつの頃よりこの坂がそう呼ばれたのか、誰に名づけられたのか、定かではありません。しかし、東京が江戸と呼ばれていた時代には無名ではあります。すでにこの坂がありのち石段になったようです。また、三年坂は別名三念坂などとも呼ばれ同じ名前の坂がほかに数箇所あります。
京都清水のそばに同名の坂があります。昔の人が遠くふるさと京都をしのぶ気持ちを坂の名前にこめたとしたらロマンでしょうか。
坂らしい坂。南にある坂と同様の「雁木坂」とも呼ばれたらしい。振り返ると、眺望もすばらしい。京都・清水の三年坂(三寧坂)と比べるのはどうかと思いますが・・・。
坂道を上がると、左側は「霊友会」の施設。
しばらく進と、左手に急な石段。雁木坂。
雁木坂(がんぎざか)
階段になった坂を一般に雁木坂というが、敷石が直角に組まれていたからともいい、当て字で岩岐坂とも書く。
木漏れ陽の下の急坂。
東京タワーに通じる坂道「永井坂」。
永井坂(ながいざか)
江戸時代から明治初期にかけて、この付近の地を芝永井町といったことからこの名が付いた。
「榎坂(えのきざか)」。
飯倉交差点から西へ上がる坂。正面のお店の名に「榎」という文字が。
その坂を上がっていくと、左手が「ロシア大使館」。ここも厳重な警戒網。バリケードがあって、ここも現代の「見附」。大使館の先を左折すると、「狸穴坂」。
狸穴坂(まみあなざか)
まみとは雌タヌキ・ムササビまたはアナグマの類で昔その穴が坂下にあったという。採鉱の穴であったという説もある。
坂上部の東側(左側)は「ロシア大使館」になります。
坂下から。
「狸穴公園」を右折して行くと、
「鼠坂」。
細長く狭い道を江戸でねずみ坂と呼ぶふうがあった。一名鼬(いたち)坂で上は植木坂につながる。
坂下から。 坂上から。
この付近には、「狸」がいたり「鼠」がいたり「鼬(いたち)」がいたり、さらには「溜池」があったりと、高台と谷と湿地が入り組んだ土地柄だったようです。今やその面影もありません。
坂上で西南(左)に向かう急坂が植木坂。
坂下から。 坂上から。
植木坂(うえきざか)
この付近に植木屋があり菊人形を始めたという。外苑東通りからおりる所という説もある。
「行合坂」。
双方から行き合う道の坂であるため行合坂と呼んだと推定されるが、市兵衛町と飯倉町の間であるためか、さだかでない。
「行合坂」と直角に交わる坂が「落合坂」。東西に延びる坂道。
「落合坂」。
「我善坊谷」へ下る坂で、赤坂方面から往来する人が、行きあう位置にあるので、落合坂と呼んだ。位置に別の説もある。
この道の両側には江戸時代には「御先手組」の屋敷が並んでいました。
「先手組(さきてぐみ)」
江戸幕府の軍制の一つ。職制上は若年寄に属し、治安維持の役割を担った。先手とは先陣・先鋒という意味であり、戦闘時には徳川家の先鋒足軽隊を勤めた。徳川家創成期には弓・鉄砲足軽を編制した部隊として合戦に参加した。
しかし、江戸時代に入ってからは戦乱があまり起こらなかったので、平時は江戸城に配置されている各門の警備、将軍外出時の警護、江戸城下の治安維持等を務めた。先手頭は、六位相当の布衣役で、役高1500石のほかに役扶持として60人扶持が支給された。また、先手頭は「各大名家の『御頼みの旗本衆』とされ、幕府との事前打合や報告同行などを勤めるため、由緒ある旧家の人が任命されていた。
時代により組数に変動があり、一例として弓組約10組と筒組(鉄砲組)約20組の計30組で、各組には組頭1騎、与力が10騎、同心が30から50人程配置されていた。
同じく江戸城下の治安を預かる町奉行が役方(文官)であり、その部下である町与力や町同心とは対照的に、御先手組は番方であり、その部下である組与力・組同心の取り締まり方は極めて荒っぽく、江戸の民衆から恐れられたという。(以上、「Wikipedia」参照)
明治になってからは、小さな住宅が建ち並ぶ街になったようです。西側が大きく変貌する中でまだかつての面影を残しているところです。
坂下から西を望む。
下りきって「稲荷坂[我善坊谷坂]」との交差点にある標識。
西北に上がる坂。稲荷坂(我善坊坂)?
この坂の途中は、趣のある住宅街。坂上から望む。
稲荷坂〈我善坊谷坂〉(いなりざか〈がぜんぼうだにざか〉)
麻布台1丁目1番と2番の間を西北に上る坂道です。
三年坂(さんねんざか)
いつの頃よりこの坂がそう呼ばれたのか、誰に名づけられたのか、定かではありません。しかし、東京が江戸と呼ばれていた時代には無名ではあります。すでにこの坂がありのち石段になったようです。また、三年坂は別名三念坂などとも呼ばれ同じ名前の坂がほかに数箇所あります。
京都清水のそばに同名の坂があります。昔の人が遠くふるさと京都をしのぶ気持ちを坂の名前にこめたとしたらロマンでしょうか。
坂らしい坂。南にある坂と同様の「雁木坂」とも呼ばれたらしい。振り返ると、眺望もすばらしい。京都・清水の三年坂(三寧坂)と比べるのはどうかと思いますが・・・。
坂道を上がると、左側は「霊友会」の施設。
しばらく進と、左手に急な石段。雁木坂。
雁木坂(がんぎざか)
階段になった坂を一般に雁木坂というが、敷石が直角に組まれていたからともいい、当て字で岩岐坂とも書く。
木漏れ陽の下の急坂。
東京タワーに通じる坂道「永井坂」。
永井坂(ながいざか)
江戸時代から明治初期にかけて、この付近の地を芝永井町といったことからこの名が付いた。
「榎坂(えのきざか)」。
飯倉交差点から西へ上がる坂。正面のお店の名に「榎」という文字が。
その坂を上がっていくと、左手が「ロシア大使館」。ここも厳重な警戒網。バリケードがあって、ここも現代の「見附」。大使館の先を左折すると、「狸穴坂」。
狸穴坂(まみあなざか)
まみとは雌タヌキ・ムササビまたはアナグマの類で昔その穴が坂下にあったという。採鉱の穴であったという説もある。
坂上部の東側(左側)は「ロシア大使館」になります。
坂下から。
「狸穴公園」を右折して行くと、
「鼠坂」。
細長く狭い道を江戸でねずみ坂と呼ぶふうがあった。一名鼬(いたち)坂で上は植木坂につながる。
坂下から。 坂上から。
この付近には、「狸」がいたり「鼠」がいたり「鼬(いたち)」がいたり、さらには「溜池」があったりと、高台と谷と湿地が入り組んだ土地柄だったようです。今やその面影もありません。
坂上で西南(左)に向かう急坂が植木坂。
坂下から。 坂上から。
植木坂(うえきざか)
この付近に植木屋があり菊人形を始めたという。外苑東通りからおりる所という説もある。