さて、次の藤川宿に向けて出発です。沿道には松が。その脇には「東海道」という石碑。
「国道1号線」を横断してしばらく進むと、大きな石碑。「御開運御身隠山」。
左手に広がる森が「山中八幡宮」。境内には家康が命拾いをしたという「鳩の窟」があります。
永禄6年(1563)、「三河一向一揆」で、門徒に追われた家康がこの洞窟に身を隠し、追手が洞窟を探そうとしたら二羽の鳩が飛び立たった。「人がいるところに鳩がいるはずない」と、一揆の者が立ち去り家康が難を逃れたということです。
正面の小高い丘が「山中八幡宮」。早苗の緑が広がります。
国道沿いに歩き、しばらく進み、「市場町」の交差点で左の道・県道327号線に入ります。正面奥には「藤川宿」の説明板。
いよいよ「藤川宿・東棒鼻跡」に着きました。
東棒鼻
「棒鼻」とは、宿場の出はずれ、すなわち出入り口のことである。東にあるので「東棒鼻」と呼んでいる。
藤川宿に棒鼻が再現されたのは、東海道ルネッサンス活動の機運が盛り上がった平成元年である。なぜ、棒鼻が藤川に再現されたかというと、江戸時代の浮世絵の絵師・歌川広重が東海道五十三次の藤川「棒鼻ノ図」に描いたからである。
絵の中には、八朔(八月一日)の御馬進献(おんましんけん)の行列がちょうど藤川宿の棒鼻に差しかかるところで、辺りに境界を示す傍示杭(ぼうじくい)、道の両側に石垣を積んで、土を盛った宿囲石垣(しゅくがこいいしがき)を描いている。
最近、明治20年ころ写された写真が見つかり、宿囲石垣が写っていたことから、その存在も認められた。
現在、藤川宿と言えば、「棒鼻」と言われるぐらい、藤川宿の象徴となっている。
藤川宿まちづくり研究会
東海道五十三次之内 藤川 棒鼻ノ図 / 歌川 広重
地方役人たちが土下座している。御弊をたてた駒と一緒に御馬献進の一行がゆく。幕府は毎年8月1日に朝廷に馬を献上することになっており、広重は天保3年にこの行列に参加した。図は藤川宿に差しかかるこの行列を迎える様子が描かれている。愛らしい黒赤二頭の馬。夕雲がたなびく。一行を迎えて犬まで座っているところが面白い。街道の脇に立つ棒鼻が宿場の外れを表わしている。
(「知足美術館」HPより)
大正期の藤川。奥に「常夜燈」。(「同」より) 現在のようす。「常夜燈」の頭上は「国道1号線」。
広重の絵に合わせたような榜示杭がセットされている。
ただし、広重の絵は、一行が「東棒鼻」を東から西へ入るところを描き、宿場役人は内側の北側で迎えています。しかし、今ある榜示杭の位置は、「東棒鼻」の外で、南側に設置されています。
是より西、藤川宿 岡崎宿へ一里二十五町 ~藤川の歴史と文化を訪ねて~
秋葉山常夜灯
宿場の出入口付近に、寛政7年(1795)に建立の秋葉山常夜灯が」現存しています。
商家「銭屋」
問屋場跡から家数にして5軒ほど先の南側に今も残る商家。連子格子が昔のにぎわいや旅人の姿を思い出させる味わいの深い建物です。
脇本陣跡(藤川宿資料館)
脇本陣橘屋大西家は中町の東海道北側にあり、明治天皇御小休所の座敷もありました。昭和30年に藤川村が岡崎市と合併するまでは、役場が置かれていました。脇本陣で現存するのは門のみですが跡地全体は岡崎市の史跡に指定されています。現在は宿場町の模型等を展示した藤川宿資料館として利用されています。
十王堂(芭蕉句碑)
元禄期に建立されたと伝えられる藤川の十王堂。その境内には「ここも三河 紫麦のかきつばた」と詠んだ芭蕉の句碑が建てられています。これは寛政5年(1793)に西三河の俳人が再建したと記されています。
棒鼻跡
平成4年に、棒鼻モニュメントが復元されました。東は国道一号との分岐点、西は藤川小学校の前に整備されています。
道標(吉良道)
東海道から左へ分岐する脇道を吉良方面へ通じる道「吉良道」と呼んでいます。この道は塩の道として利用度の高い道でした。現在でも吉良道の道標が残っています。
藤川の松並木
天保14年(1843)には、34間(「町」の間違い。約3.5㎞)の長さが続いていたと伝えられる藤川の松並木。昭和38年に市指定の天然記念物になった際には、幹周り2㍍のクロマツ90本が町の西はずれに約1キロに渡って東海道の左右に立ち並んでいたと言います。
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東海道ルネッサンス
左手の奥が「曲尺手」(鈎の手)になっている。それに従って、左の道を進む。
「石垣」が現代の旅人をチェックする(見守る)ように道の両側に。
「国道1号線」脇のところに「むらさき麦栽培地」。
むらさき麦
今から300年ほど前、俳人・松尾芭蕉は「爰(ここ)も三河 むらさき麦の かきつは(ば)た」の句を残しました。これはむかし藤川宿一帯で紫色に染まる麦が作られていたからで、これを「むらさき麦」と呼んでいました。しかしこの麦は、戦後、作られなくなり、幻の麦となってしまいました。
平成6年、地元の人々の努力によって再び栽培されるようになり、以後、毎年5月の中旬から下旬にかけて、その美しい色を観賞することができます。
藤川宿まちづくり研究会
収穫の時期でしょうか、ほんのり紫色の穂が実っています。
「曲尺手」を振り返る。左手から来る。
宿内のようす。静かで落ち着いた道筋。
駐車場も「藤川宿」らしい趣。
振り返り、振り返り歩きたくなるような風情。
しばらく進むと城郭のような建物。「人形処 粟生(あおう)人形工房」。
道の右手には「高札場跡」。
藤川宿の高札場跡
「高札」とは、立て札ともいい、法度・掟書・犯罪人の罪状などを記し、交通の多い市場、辻などに掲げられた板札をいう。その目的は一般の人たちに法令を徹底させるためのものであった。
藤川宿の高札場はここの場所にあり、記録によると
「一、高札場 高さ 壱丈 長さ 弐間半 横 壱間」
とあり、規模の大きい、広い場所であった。
ちなみに、当時掲示されていた高札は、八枚あったようで、大きいものは横238㌢、縦53㌢もあり、もし当時のものを8枚並べるとすれば、正面に二面ずつ、四段に掲げて常時掲揚していたのであろうか。
現在保存されている高札は六枚あり、いずれも岡崎市文化財に指定され、内、三枚は資料館に掲示してある。
藤川宿まちづくり研究会
宿内の解説板の多くは「藤川宿まちづくり研究会」の皆さんの手によるものです。、それぞれ時代考証を含めて、丁寧な解説文ばかり。「宿場まちづくり」の熱心さに頭が下がります。少し古くなったものの目立つのが残念ですが。
続いて「問屋場跡」。
藤川宿の問屋場跡
藤川宿の「問屋場」は、ここ字中町北にあった。「問屋場」は宿場町では、最も中心となった場所で、人馬の継ぎ立て(伝馬)、書状の逓送(飛脚)などの業務を行うところが「問屋場」であった。藤川宿では、ここを「御天馬所」とも称していた。
この問屋場については、記録によると
「一、人馬継ぎ問屋場 壱ヶ所 字中町
問屋 弐人 年寄 五人
帳付 四人 飛脚番 六人
人馬差 六人 小使 六人」
とある。
また当初の問屋場は、問屋場役人の屋敷の一部を使用していたようだが、江戸時代中頃に、現在地に専用の建物を設けて、業務に当たったという。明治五年七月、伝馬制廃止後は閉鎖され、その役割は終わった。
藤川宿まちづくり研究会
正面は手を加えてありますが、こうして宿内には古い家屋が残っています。