「板橋」を渡ると、「上宿」になります。街道筋らしい建物もちらほら。
右手に「本町にぎわい広場」という広場があって、その奥には、櫓。
さらに「上宿」の解説板。
江戸時代の五街道の一つである中山道は、江戸と京を結ぶ大動脈として、人々の往来や物資の流通、文化の交流などをささえてきました。
板橋宿は中山道の第一番目の宿場であり、その長さは15町49間(約1.7㎞)でした。天保14年(1843)には人口2448人、家数573軒を数え、旅籠屋、料理屋や駕籠屋など様々な店舗が軒先を並べていました。板橋宿は日本橋方面から平尾宿・中宿・上宿に分かれており、社屋寺井川にかかる板橋から現在の環状7号線あたりまでが上宿でした。
平成14年(2002)は、中山道に伝馬制度が成立したとされる慶長7年(1602)から400年目にあたり、それを記念して各宿に石碑を建立しました。
平成14年11月 板橋区教育委員会
縁切榎
江戸時代には、この場所の道をはさんだ向かい側に、旗本近藤登之助の抱屋敷がありました。その垣根の際には榎と槻の古木があり、そのうちの榎がいつの頃からか縁切榎と呼ばれるようになりました。そして嫁入りの際には、縁が短くなる事をおそれ、その下を通らなかったといいます。
板橋宿中宿の名主であった飯田侃家の古文書によると、文久元年 (1861) の和宮下向の際には、五十宮などの姫君下向の例にならい、榎を避けるための迂回路がつくられています。そのルートは、中山道が現在の環状7号線と交差する辺りから練馬道(富士見街道)、日曜寺門前、藍染通りを経て、板橋宿上宿へ至る約1キロメートルの道のりでした。
なお、この時に榎を菰で覆ったとする伝承は、その際に出された、不浄なものを覆うことと命じた触書の内容が伝わったものと考えられます。
男女の悪縁を切りたい時や断酒を願う時に、この榎の樹皮を削ぎ取り煎じ、ひそかに飲ませるとその願いが成就するとされ、霊験あらたかな神木として庶民の信仰を集めました。また、近代以降は難病との縁切りや良縁を結ぶという信仰も広がり、現在も板橋宿の名所として親しまれています。
平成18年3月 板橋区教育委員会
狭い境内には、願い事(縁切りごと? )を書いた絵馬がぎっしり。女性が絵馬をくくりつけていました。その人はどうなのか分かりませんが、絵馬の内容は、離婚願望が多いらしいです。
少し進み、振り返って望む。左手が「縁切榎」。
「環七」方向を越えて振り返る。
しばらく商店街が続く。
「国道17号線」に合流。振り返って望む。
しばらく国道沿いに進みます。右手に古風な店構え。
「中仙酒場 串屋さぶろく」さん。
車の往来の激しい通りの向こうには、
「(日本橋まで)13㎞」ポスト。
少し進むと、年季の入った建物の向こうに「志村一里塚」が見えてきます。
西側の一里塚。
東側の塚。 西側の塚。
志村一里塚
江戸に幕府を開いた徳川家康は、街道整備のため、慶長9年(1604)2月に諸国の街道に一里塚の設置を命じました。これにより、5間(約9m)四方、高さ1丈(約3m)の塚が江戸日本橋を基点として1里(4km弱)ごとに、道を挟んで2基ずつ築かれました。
志村の一里塚は、本郷森川宿、板橋宿平尾宿に続く中山道の第3番目の一里塚として築かれたもので、天保元年(1830)の「新編武蔵風土起稿」では「中山道往復の左右にあり」と紹介されています。
幕末以降、十分な管理が行き届かなくなり、さらに明治9年(1876)に廃毀(はいき)を命じた法が下されるに及び多くの一里塚が消滅していきましたが、志村の一里塚は昭和8年から行われた新中山道の工事の際に、周囲に石積みがなされて土砂の流出をふせぐ工事が施されて保全され、現在に到っています。
今日、現存する一里塚は全国的にも非常に希なもので、都内では北区西ヶ原と志村の2ヶ所だけです。そのため交通史上の重要な遺跡として、大正11年(1922)に国の史跡に指定され、昭和59年に板橋区の史跡に登録されました。
平成17年3月 板橋区教育委員会
「一里塚」に隣接して建っている建物は「齋藤商店」。魅力的な建物です。解説板によると、
齋藤商店
齋藤商店は、欅を主に扱う原木商として 明治22年(1889)に当地で創業しました。現在は 竹材を主とし、箒や笊などの竹製品も商っています。
現在の建物は、昭和8年(1933)の中山道(現国道17号線)の拡幅工事に伴って新築されたものです。・・・齋藤商店は、郊外の独立住宅の趣を呈する区を代表する近代和風建築であり、近接する志村一里塚(昭和11年国史跡)と一体化した町のランドマークとしても親しまれています。また、平成4年には「活き粋いたばしまちなみ景観賞」にも選ばれています。・・・
今回はここまで。都営三田線「志村坂上」駅から戻りました。